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舞踊評論家・日下四郎氏の連載コラム「ダンスレビュー」

ダンスレビュー



わびすけ舞踊倶楽部の公演 「DANCE FOOD !!」の成果と意義

2007年11月9日 at きゅりあん 小ホール
日下 四郎 [2007.11.19 updated]

実をいうとこの日はフラメンコの舞台に先約があって、1ヶ月ほど前すでに〔出席〕の返事が出してあった。短期間のうちにまとまった企画か、つい最近になってこの公演の案内が舞い込んだ。出演者の顔触れをみると、これが実に楽しい。楽しいというのは失礼で、いずれのダンサーも80年代から90年をまたぎ、この国の現代舞踊を背負ってきた実力者ぞろい。そしてそのほとんどが、私の現役時代にも何らかの意味で接触があった。そこで前者にはいささか不義理ながら代理を送り、当日のスケジュールを急遽こちらへと鞍替えした次第。

会の名称に曰く、『わびすけ倶楽部』。制作委員のひとりである高瀬多佳子によると、かつて国から海外へ派遣された〔在外研修員〕の中、昨今はあまり「活動もせず、援助金もなく、今までに至って」いる仲間たちが声をかけ合い、「日本の舞踊を今一度盛り上げるべく、新舞踊時代を創る」目的で、自主的に立ち上げたものだという。

メンバーはとりあえず9人。2部に別れ、各個に7分前後の、さまざまな色合いの自作を披露する。果たしてこの一夕、くすんだ≪わびすけ≫連は、あざやかな≪椿≫への転換をなしとげたか。答えは“Yes”であり“ No”である。とりあえず玉石混交の成果だと言っておこうか。

創作舞踊のおもしろさは、作品がそのまま作家のメンタル・ステートでもある点だ。心のなかをついつい垣間見せてしまうのである。「新舞踊時代」の決起をうながす鋭意の結集のはずが、よくみるといささか独りよがりで10年1日の“維持派”もいれば、かつての鈍感な時代が見逃した貴重な宝石を、いまなお執拗に追い求める、ねっからの“探究派”もいた。だがその差は実に微妙。その意味でこの企画、やはり駆け参じただけのおもしろさは充分にあった。

はじめに総評するなら、前半の1部は前者の色合いが強く、2部に入ってようやく独立した作者の個性が冴える作品に出合った。そのため始まってしばらくは、要するにこの『わびすけ倶楽部』は、〔在外研修〕を口実にした仲良し同窓会、一種のレトロ集団にすぎないのではと誤解してしまった位だ。特にのっけから〔ダンス・リレーション〕の枠でくくり、クリエーターが脳内のひらめきだけをたよりに、手先レベルの断片を見せてお茶を濁した感のある構成はいただけない。

ただその中で高瀬多佳子の「風の子守唄」だけは、かつて作者が数年にわたって追求を重ねた主題であり、シリーズのエッセンスのようなものが、透明な蒸留水のように浮び上がっていた。シャープに切れて微妙にビブラートする身体から、いわく言い難い緊張感が発散し、あらためてダンスの醍醐味を感じさせる。

そもそもダンスにあって、ねらいと出来は別もの。その中味や分析を始めるとキリがない作業だが、率直に一人の観客として、ここでは心に残った何点かだけに言及する。スペースの制限もあり、選択も含めて評者の独断を許されたい。そのいずれもが個別にショウアップした第2部からの作品だった。

ひとつは中野真紀子の「Floating Garden―宙の庭」。あえて珠玉の1篇といえば褒めすぎか。アオザイ風の白衣を着けた3女が、それぞれ手桶のような壺を手にして、ゆっくりと儀式風のダンスをつみ重ねる。しかし決して形式化したものでなく、体内の眼がランランと光っていて、常に高いテンションを持続する。最後はいっせいに手元から撒水したあと、壺内に灯をとぼしてフェイドアウト。静かだが強い感銘が残る作品。

つぎに神雄二の「上善水の如し」。タイトルは老子からの引用。眼を伏せ、両手を水平に広げて整列した6人のダンサーが、力士のマワシを垂らしたような衣装で、暗闇の中からゆっくり浮び上がってくる。あとはくんずほぐれつ、ペアをベースに、いわば物質化した肉体が、地上を飛翔する流水といった迫力で、さまざまな身体の絡みや運動を試みる。締めはふたたび幕開きの形態にもどって、ゆっくりと闇の中に消えていく構成。なんとなく作者の宇宙観までが匂ってくる。

トリを受け持った種子島有紀子の「霜月の冠」にもしびれた。幕が上がると、ホリゾントを覆う灰色の大きな壁に、ピッタリ張り付いたように立っている男女が2人。突然の倒立や回転など、そこから探求されるダンスの質は、いつもながら種子島式アバンガルドだが、その奥にはどこまでも隠された身体の秘密や可能性を探り当て、それを表現に当てようとするようとする、はげしい精神とエネルギーが読み取れる。けっして使い古された振付にはみえない、強い意志が作品を貫いている。

残されたもう1本、河野潤の「ひとり唄」には、ソロながら久々に“生死の境”を行く作者の迫力を感じた。10年前に脳手術を受けた時の「肉体放棄」(97)以来だ。反射する箔板を用いたアイディアも卓抜だが、内面的危機と向き合ったときの創作には、巧拙を超えた真摯さが、人の心を突き刺すものだ。

『わびすけ倶楽部』の着想はよかった。この国の現代舞踊には、チャンスに恵まれないまま、まだまだ地下に眠っている秀作や才能が隠されている。ただひとつ注意すべきは、とかくこの種の結束には、ついついレトロ意識や慣れ合いが幅を利かせ、タガのゆるんだ雑居集団に堕してしまう危険が潜むことだ。それは作品を見ればすぐにわかることだが、それだけにこれを機に公演を続けていきたいと聞く今後の舞台に、制作委員のメンバーに、せっかくの奮闘と力量を期待すること切なるものがある。(9日所見)

 

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