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舞踊評論家・日下四郎氏の連載コラム「ダンスレビュー」

ダンスレビュー

日本の王朝文学と現代舞踊の接点
ー新宿芸術家協会 制作the Dance Gathering 12「源氏物語を踊る」
4月18日(金) 全9作品 at 四谷区民ホール

日下 四郎 [2008.5.8 updated]

 新宿芸術家協会の制作になるこの年次公演も、数えて12回目になる。その都度柱としてのテーマを立てて、有志の会員が15分前後の創作を発表するのが特色。今回はそれが〔源氏物語を踊る〕だった。もっともその前座として、第1部には若手クラスの登場する「フレッシュコンサート」という枠があり、今年も5作品が上演されたが、ここではそれには触れない。
 たしか第1回公演(1990)のテーマは「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)」だったと思う。それはこの作家が、東京では新宿に居を構えていたからという説明だったが、少しきつい言い方をすると、どうも思いつきめいていて説得力に乏しかった。むしろ本音は、この帰化した西欧人の著作には、日本に取材したものが多く、主題を選ぶ際に便宜だったからではないかと、ヘソ曲り気味の評者などには、ちょっとそんな気がしなくもなかった。
 その後作曲家の生誕何年かを記念して「モーツァルト」というのもあった。これは各種の文化・芸術部門を通して、その1年間さかんに用いられたキャッチフレーズで、いささか他力本願。それが今回は一転「源氏物語を踊る」になった。時代の先端を行く洋風ダンスと日本で最古の古典文芸。イメージとしてもまるで対極正反対の組み合わせである。いまさら風刺やパロディを狙っているわけでもあるまいと、最初チラシを目にしたときには一瞬首をひねったものだ。だが舞台を観終わったいま、これが案外に成功していて、なかなかに見ごたえある舞台だったことを、小さな驚きとともに実感している。
 各作品に不思議と重みや充足感があり、ひさしぶりに現代舞踊の面白さを味わあせてくれた。しかし一体それはなぜか。作品の外郭から説明すると、出演者はモダン・ダンス、バレエ、フラメンコ、民族舞踊などと様々で、今回はインド舞踊の参加まであった。これはほんらい現代舞踊のカバーする人材や領域の多様さに由来するものだが、これがうまく生かされた場合は、他のジャンルにはない魅力となって花を咲かす反面、逆に印象がバラバラで、底の浅い雑駁な結果を招来する危険も一方にはある。この種の公演によく共通したテーマが課せられるのも、あるいはその辺に理由があるのかも知れない。
 さて作品の造りとしては、“夕顔”“浮舟”“葵の上”“末摘花”など、おなじみ源氏物語の恋多きヒロインを標題に、中身はそれぞれ持ち前の技法を駆使、いずれも恣意奔放なダンスでまとめた。それとどの作品にもストーリーのヒーローである“光源氏”が出てこないこともいい。スト-リーを軸にした組み立てでないから当然だが、却ってそれが主題を押し出すのに役立った。おそらく最初の申し合わせで、禁止項目として設定されていたのかもしれない。
 プログラムのはじめに、佐藤雅子のインド舞踊(「若紫」)と、小林伴子のフラメンコ(ソレア「夕顔によせて」)が来る。この両者、日本の古典との融合の点では、もっとも危険と難儀を伴うジャンルであり、おそらくその弱みをカバーする意味もあるのだろう、この2作品の前後にナレーションとして、源氏物語の関連したくだりが読まれる(朗読:葉桐次裕)。ははーん、今回はこのスタイルで通すのかと思って見ていたら、その手法は冒頭だけで突如消え失せ、以後は出演者と題名を紹介するだけの通常のアナウンスで進行した。ちょっとキツネにつままれた感じ。時間つなぎや別の事情もあったのだろうが、全体のバランスをこわす意味では、いささかマイナスの効果でしかなかった。
 しかしそれに続く他の部分では、ほとんどが、技法の如何にかかわらず、みなそれぞれに興味をそそる確かな内容の創作に仕上がっていた。これは失礼ながら予想を裏切る収穫。それは一口に言うと、“前衛と伝統”の適切な交配と相互刺激の結果であるまいか。作品を仕上げる材料と、身体の動きに見る感覚が、いわば新旧両サイドの逆世界からの出自で、その両者がはげしくかつ微妙に絡み合うことで生まれた効果だったといえそうだ。特に傑出した創作はなかったにせよ、今回このテーマのもとに参集した9作品は、いずれも合格点をマークしていて、みな面白く見られた。別の言い方をすると、プロデュースに見る企画・発想の勝利でもある。
 源氏物語は、11世紀以来能や狂言、日本舞踊、邦楽と、多くの舞台芸術で取り上げられ、それに因む表現メディアの伝統遺産は、それこそ私たちの身辺に山ほどある。いや伝統技芸のことだけではない。素材としてもレコードやテープで、洋楽の現代作曲家の手になる、関連サウンドだけでも、探し出すのは今やいとも容易な環境にある。そこで振付者が進んでそれらの材料を素材として使うと、その途端にしっかと伝統が生き返り、あやしく舞台の空間に忍び込んで、おのずと作品に奥行と重みを与えるのだ。思い切った空間処理の「六条御息所」(大谷けいこ)における能笛、現代風な振付の「浮舟」(小林祥子)で流される読経の調べ、あるいは最後までトゥシューズで押し通す「末摘花」(雑賀淑子)のお囃子連中の謡などなど。
 このことは逆に “箒木”に記された雨夜の品定めでも、形としては原作の女御たちをそっくり並べながら、音楽にはサティの現代曲を当てて処理した庄司恵美子作品(「品定めされて傷つく恋ごころ」)や、古風な“明石の君”の心中を、ブルーとピンクの衣装とオブジェを用いた現代美術に置き換え、海の風景に視覚化してみせた鈴木恵子作品(「貝の光」)にも、やはりの構図としてはっきり読み取ることができる。いずれもベクトルを逆方向に照射した、“前衛vs伝統”の成果である点は同じだ。
 そもそも現代舞踊の身上が、様式にこだわらない身体の自由な表現にあることは、いわばルールの第一条だといえる。しかしここに並べられた作品は、単にジャズやラップを乱用したアバンギャルドではない。そこへ伝統の味付けが巧みにまぶされ加味されると、その結果どんな料理が出来上がるのか。結果は上々、よって件のごとし。
 前衛スピリットを忘れない限り、この国の現代舞踊はどこまでもおもしろい。それは日本という風土に、しっかりと伝統の力があるからだ。王朝文学と現代舞踊の接岸が生んだ刺激的なダンス。“前衛と伝統”の蜜月の、よきサンプルに出会った思いがけない公演となった。(18日所見)

 

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