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舞踊評論家・日下四郎氏の連載コラム「ダンスレビュー」

ダンスレビュー

爆発する金森穣のダンス宇宙:「Nameless Hands ~人形の家」にみる新局面 ーりゅとぴあ芸術部門Noism08
東京公演・7月2日(木)~6日(日) at 三軒茶屋 シアタートラム

日下 四郎 [2008.7.12 updated]

 視界を覆うプロセニアムいっぱいのブラック・スペース。その上手寄りの小さな一角に、ミニチュアの劇場フレームが置かれ、一人の男がうしろに坐して、枠内におかれた何体かの小さな木組みの人形を、あれこれ思案気に手で動かしている。演出家?支配人? いつしか耳に伝わってくる生きた心臓のビート音。オーバーラップして正面黒幕のあちこちに、交互に浮き出しては消える白面マスクの群。
 いかにもこれから始まるドラマティックな内容を暗示させるような導入部の風景だ。実際今回金森が用意した新作は、従来に比べて一層劇的で、人生への視線を思わす重層的構成のものだった。それは第1幕の〔人形の家〕において特に顕著にみられ、同時に後半第2幕の〔Nameless Hands〕では、ダンス作品の根源ともいえる音楽へのストレートな帰依と回帰を最優先させた、いわば金森のダンス宇宙を爆発的に注入した、密度の高い作品となった。
 実際、ここ1年ほどNoismの活動は、作品をもって外国へ出るチャンスが多かった。ニューヨーク、モスクワ、ワシントン。観客の反応やメディアの評価も、おのずと国内オンリーの場合とは違うはずで、その反省の一端が、今回のプログラム・ノートに記された、社会的な接点への強い自戒意識である。そして彼はそれを「劇場文化の価値を、社会へ向けた見世物という形で模索すること」という言葉で説明している。
 それが今回この創作に当たってダンサーとしては出演せず、もっぱら振付・演出の役割に全エネルギーを集中させた理由の最たるものであろう。起想からフィニッシュまでのすべてを、この新作に賭けたのだ。30歳前半の若さで、去る2月早くも芸術選奨大臣賞を手にすることになったこの才能が、さしずめ文芸界でいうなら、その受賞第1作を世に問うた野心作といえる。彼は当の授賞式でのパーティで、「今度のはドラマ性の高い作品になります」と漏らしていたが、その具体的な答案がこれだった。
 最もドラマ的といっても、筋書きを前面に押し出して、それをフォローするといった作品ではない。題名から19世紀末の劇作家ヘンリック・イプセンを連想させ、いまさらノラをちらつかせた社会正義風のダンス戯曲などゴメンだと、一瞬あらぬ想像もが動いたが、内容はそうではなかった。人物に相関的な“流れ”は設定されていても、彼の言う“社会性”の真意は、上記した引用文にもあるように、むしろ劇場性のあり方についての、作者としての考え方如何を問うたのだ。
 通して2幕劇構成の前半での見どころは、なんといっても洋舞をベースとした新しい“人形振り”へのトライにある。そもそもパフォーマーによる人形表現は、バレエや日本舞踊の舞台でも古くから見られる。ましてやこの国には文楽という伝統ある人形劇もあるのだ。しかし支配人と女体の一見いかにも輻輳したからみを軸としながら、金森の真意は黒子の活用をエクスキューズとして、生身のダンサーによるシャープな動きを極端に試みることで、従来にない新規な人体表現を探り出す点にあり、これは身体を物資としてとらえる従来からの目線を、なお一層徹底してみせた作舞だったといえる。
 したがってここでは、人体に添う黒子の存在に、象徴的ないし哲学的な意味合いは全くない。タイトルの「Nameless Hands」が暗示する文学性は皆無で、むしろ副題の”Physical Theater”という添え書きの方が、よほどこの作品の本質を代弁している。未踏の空間でのその新しい模索こそが、唯一作者にとっての食欲をそそる課題だったのだ。
 後半の第2幕に入ると、この金森の姿勢は、そのままなだれこむように、ストレートなダンス表現となって爆発する。物語性は影をひそめ、いまや自由の身となった人形たちは、アンティテーゼとしてせめぎあう黒子たちと対峙し、絶え間ない葛藤と交錯の裡に、次々にダンス宇宙の魅惑をまき散らす。ペトルーシュカ、ボレロ、カルメン、春の祭典と、おなじみの曲と情景がめまぐるしく続出するが、すべては金森自身のオリジナルな質感に到達し、モデルとは一線を画した仕上げになっているところはさすが。
 これは逆に言うと、今日まで活動をつづけてきた、この国のバレエ表現にとって、新たな一歩を記したとさえいえる。つい昨日までこの国での斯界の目標は、すでに19世紀末に完成をみている古典レパートリの完全上演であったり、一方個々のパフォーマーにとっては、華やかでミスのないパ・ド・ドウや、一回でも多いフエッテの成功など、もっぱら技術面の完璧さにあった。ストレートに身体を凝視する視線や、表現の可能性への試みは、いつの場合もつい後回しになっていたのだ。
 その点新世代人金森の場合は違った。舞踊家の家に育ち、ハイティーンの身空ではやくもベジャール、キリアンなど、ヨーロッパ・現代バレエ界のまっただ中へ飛び込んで20代の人生をすごした彼にとっては、テクニカルの修得と同時に、時代の感性と身体表現の接点への根源的ともいえる問いかけが、ほとんど生きることと同義語だったのだ。それゆえ現代芸術としての日本のバレエは、この才能の出現と活動によって、ようやくそのスタート地点に立ったともいえるのだ。
 フィナーレを飾った曲は、なんと日本人中島みゆきによる歌唱のしらべ。それが何の違和感もなく、ピタリ作品の中身に溶け込んでいたのもうれしかった。なお聞くところでは、スタート以来Noismの中心ダンサーとして活躍した井関佐和子が、今後は一転ミストレスとして、情熱のすべてを作品の完成まで注ぐことになったという。心なしか有終の美を飾る、今回の舞台での彼女の踊りの激しさには、いっそう鬼気迫るものを感じた。金森穣とNoismの、今後の展開にいよいよの期待を寄せたい。(7月3日所見)

 

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