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舞踊評論家・日下四郎氏の連載コラム「ダンスレビュー」

ダンスレビュー

振付がみせた新鮮な今日性
―芙二三枝子現代舞踊公演「幻森林」「季(みのり)詞(ことのは)」「海を抱く」

12月1日(月)19時開演 at池袋 東京芸術劇場中ホール

日下 四郎 [2008.12/15 updated]
 ことしは1月の、豊島区の芸術文化センター〔あうるすぽっと〕およびこの東京芸術劇場中ホールでの今月と、年内に2回の芙二三枝子舞踊公演があった。前者のケースは、本来は演劇用に使われていた東池袋の小劇場が、半年前にようやく改装が終わり、この新センターに、ぜひドラマ以外にダンス作品もという制作サイドからの意向で、その最初のシリーズとして藤井公、石川須妹子、芙二三枝子など、日本の現代舞踊界の大御所が顔を並べ、揃ってリサイタルを開く企画が実現した。
 そもそも80才にしてなお矍鑠と創作を発表できるのは、所作舞の日本舞踊はいざ知らず、たとえばバレエの世界ではまず考えられない。それが可能なのは現代舞踊だけで、これは本人の踊りとは別に、振付・演出を通して、常に作品自体への参加がスタッフとして可能だからだ。しかし出来上がったものは、いつも最前線を行く今日的な作品とはいかず、野球に例えれば軟球投手のような、情緒とか文学性、あるいは回顧を主とした内容のものがどうしても多くなる。
 しかしそんな中にあって、1月公演のプログラム中、きわだって若々しい印象を受けた創作が一品あった。それが芙二三枝子の「青坐―2008」である。初演が70年代ということで、私は観ていないのだが、その後20年以上の歳月を経たあと1999年に再演、そのとき舞踊協会(CDAJ)の第17回江口隆哉賞授賞の対象となった。それを上述の〔あうるすぽっと〕公演でさらに手を入れ、2008年度版として、あらためて再々上演にこぎつけた舞台であった。めずらしく生命力の長い現代舞踊の一例だといえる。
 さて同じようないきさつでの再演が、今回行われた芙二三枝子リサイタル公演中にもみられた。「幻森林」である。この日のプログラムは3本あって、最初の「海を抱く」は、この舞踊団の副主宰馬場ひかりの振り付けた作品。次に芙二三枝子本人が姿をみせ、十七弦の筝(菊地俤子)をバックに「季の詞」を踊る。踊るといってもダンサーが床に立ち、それに手のふり、ゆっくりとした足の運びを添えたお座敷舞風のお祝儀もの。それに比べるとトリに組まれた「幻森林」は、実に優れた現代舞踊としての迫力に満ち、コンテンポラリーな身体の動きで、断然他を圧する新鮮な“今日性”を示した。
 ダンスは言葉のない芸術――ノンバーバル・アート(NON-VERBAL ART)とはよく言われるところだ。だがこれは厳密に言うと必ずしも正しくない。ダンスを観る場合、とくにそれが芸術舞踊のときは、作者側と観客側の間に、明らかに言語を介したそれなりのやりとりが加わってくる。ただそれが主題のくりかえしや補足、あるいはストーリーの展開といった、最初から手段としての役割を担っていないだけの話だ。
 あくまでも問題は身体である。いや身体以外のものが、余計なそえものとして前面へしゃしゃり出てはならない。大事なのは一貫して身体がそこにあるという現前性。それまで伝統的にダンス芸術につきものであった装飾品、衣装やセット、ストーリーの展開などは一切これを切り捨てる。そこまで降り立ち、あらためて身体のエロスとタナトスに基軸を置いて立ち向かう。それが身体芸術の出発点、すなわちコンテンポラリー・ダンスの原点であり指標でなければならないのだ。
 実はその意味では、実は芙二三枝子の舞踊テクニックには、スタート時点から、期せずして非文学的で、もっぱら自然や宇宙に立ち向かう、身体の動きだけで組み立てる舞踊の要素があった。それはリトミックの学習経験だ。日本におけるモダン・ダンスの第2期ゼネレーションの新人として、彼女は石井漠、江口隆哉に師事はしたが、同時に自ら求めてリトミックスの小林宗作についてダンスを習い研究を重ねた。これは当時の他の若い舞踊家には見られない、キャリア上の大きな特色である。
 身体をまず音楽の上位に置いたとする石井や江口の舞踊観。それでも彼らは日本のダンスから、徹底していわゆる情緒的側面を断ち切ることはなかった。西欧にない独自の創作を望むあまり、素材やテーマにこの国特有の文化遺産を取り入れることを忘れなかったからである。半ば無意識であろうと、身体が内側に沁み込ませ、引き継いでいる文学的な言葉の世界。いやある時はそれをむしろ一種の武器として、積極的に作品の振付・造形に持ち込んだケースもすくなからず見受ける。
 ところが芙二がリトミックから学んだものは、正しく身体へのダイレクトで抽象的な形姿への接近であった。小林宗作がヨーロッパのダルクローズから得たものは、いわば身体を用いた音楽の視覚化であり、そこでは言葉とか文学性といったものは、最初から関係をもたない。一切の説明や意味性を排し、身体の器官だけによるリズミックで純粋な身体運動というギムナスティックの新しい世界だったのだ。
 この発想は海外ではマーサ・グラーム、日本では石井漠、高田せい子などによるモダン・ダンスの創成期から、モダン、ポスト・モダンを経て、いわゆるコンテンポラリー・ダンスへの脱皮とともに、もういちどおおきく注目を浴びるようになる。そこに芙二三枝子のダンスのスタイルと個性が見事にオーバーラップしたのだ。表現にみる時代を超えた今日性。かつて70年台に次々と受賞した代表作「土面」「巨木」には、すでにその出自を示すユニークな身体への視線が、しっかりと扶養され息づいていたのだ。
 大自然の広野に根付く森林の生命。その発育と繁茂、競合と受苦、そして死から再生まで、作品「幻森林」には、自然の生態が刻々と具体に即して表現されている。そこから人は何を感じ受け止めるのか。成長期であった70年代には、それは人為のたくましさの暗喩、環境劣化の今日では逆に自然破壊のおそろしさや危険信号など、それは観る側のイマジネーションや時代感覚によって様々だろう。ただしそうさせるのは作品の力であり、同時にそこからするどく言葉が介在してくる領域でもある。
 ダンスが呼び起こす非言語性と思考への波及の力。その迫力と芸術性に、あらためて驚異の念をおぼえた。「幻森林」は間違いなく、ひさびさに接した、コンテンポラリー・ダンスの秀作である。(1日所見)