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舞踊評論家・日下四郎氏の連載コラム「ダンスレビュー」

ダンスレビュー

〔隣同士公演〕の意味:かもねぎショット制作“ダンスシアター他動式”作品
「Dance Drivin’2009」
9月7日-9日 5ステージ at 下北沢 ザ・スズナリ劇場

日下 四郎 [2009.9/24 updated]
 今月は演劇の街下北沢のザ・スズナリ劇場で、おなじみ《かもねぎショット》集団が、1週間にわたりダンスと演劇の2作品を、3日間ずつ別々に並べて上演した。前者は「Dance Driving’2009」。70分にわたる伊藤多恵の秀作小品集で、後者はミステリー・コント風の演劇「嘘と迂闊と物語」。台本・演出はいつもの高見亮子、例によって軽妙なセルフとトリッキーな筋の運びで、90分をそれなりに楽しませる。
 問題はこの一見変則的な2作品の連続上演の形式を、なぜ“隣同士公演”と称してプログラムしたかだ。おそらく特別な意味が隠されているわけではないだろう。ただ多彩なメンバーを、これまでのように1本に集中するのではなく、どちらかの作品に振り分けてキャスティングしてみただけだと考えたい。ただしこのキャッチ・フレーズを客寄せのPRに利用するとか(事実“お隣さんチケット”と称して、両方見る人には割引料金が適応された)、あるいは作劇・演出にあたって、一部をダブってキャストするとか、末端でのお遊びは多少とも見られた(松原佐紀子を2作品にまたがって躍らせるとか、あるいは高見亮子による詩の朗読を、ダンス作品に挿入してみせるなど)。
 そもそもミュージカル出のスター多田慶子を主宰に結成された演劇集団《かもねぎショット》は、90年代にはいってから、新しく有望な才能の加入と共に、当時話題になったいわゆるコンテンポラリー・ダンスのブームに乗った形で、新しいダンス系演劇のホープとして急浮上した。そのころ《珍しいキノコ舞踊団》や《イデビアン・クルー》などと並んで、ダンス的発想や動きを取り入れたスタイルの演劇集団であるか、または逆に《ニブロール》や《co.山田うん》のように、限りなく演劇に接近したダンス・グループとして自己主張するか、いずれも前衛的コンテンポラリー・ダンスの一翼としての活動組織の、そのどちらかであるとみなされた。
 当時この《かもねぎショット》には、スタッフに2つの大きな才能が存在した。伊藤多恵と高見亮子である。両者はダンスと演劇というそれぞれの役割をたくみに引き受けながら、それを一本のオリジナルなパフォーマンスに昇華させたのである。そこにはときに人間の実存的側面を垣間見せる不思議な場面すらあった。演劇にリアリズムを超えた非日常の味わい、またある時は分節化された身体の動きに、ユニークな意味合いを添える、それまでになかったパフォーミング空間を生み出した。そしてこれは遠く90年代の「婦人ジャンプ」シリーズの何篇かに始まり、世紀をまたいでつい最近の「サークルダンス」にまで持続した。《かもねぎ》集団ならではのカラーでありレゾン・デートルだ。
 振付を担当した伊藤多恵は、《竹屋啓子C・C》にいた80年代から際立った才能の持ち主で、当時新人として発表した「路地」や「いまさらボレロ」には、断然他の同年代を寄せ付けない強い個性が見られ、当時アメリカ本土の中央ダンス誌にもその批評が掲載されたほどである。その後独立してオペラの振付などにも加わったが、やがて90年代に入って《かもねぎショット》との出会いがあり、以後演劇サイドからの才能である高見亮子と2人が組んで、この集団活動の中軸を担ってきたのである。
 ところで近年この国のダンス界で、にわかにブームとなった感のあるコンテンポラリー・ダンスだが、そもそもこの呼称を、なにかモダン・ダンスの発展したメソードを指すように誤解している傾向が強い。筆者はこれまでその誤謬を何回となく指摘してきたので、いまここでは重ねて言及することはしない。ただひとつ、このトレンドと並行して、従来の現代舞踊のレパートリーに、とにもかくにも間口の広がりが出てきたことだけで確かで、舞台に乗せた作品の良否はさておいて、その点だけは唯一のプラス面だったといえるだろう。
 そこで今回の《かもねぎ》公演だが、この集団がこれまでとってきたダンスと演劇の合体をあえて避け、2つのジャンルをそれぞれスタート地点に引き戻して、意図して両者を個別に公開した。これが〔隣同士公演〕の具体的な意味である。その結果ははたしてどうだったか。両者の合体による相乗効果は消え失せ、はんたいにダンスと演劇という両者の関係と問題点が、あらためて浮上してきたことは、多少皮肉だが予想しなかった(?)だけに、まことにおもしろかった。
 まず週の前半に組んだダンス作品「Dance Driving’2009」。これは伊藤多恵の振付になる14個の短編ダンスを集めた構成のものである。人体の四肢や末端器官、個々のパーツを組み合わせたようなこの人ならではの個性的な振付は、かってポスト・モダンが喧伝された往時のダンス・シーンではまことに新鮮であったし、その味はいまも結構賞味可能だともいえる。しかし70分÷14の、一作品5分のショート・タイムではともかく、これらを1時間を越える長丁場で次々に関係なくみせられると、逆にいささか単調でメリハリを失ってしまう。なかには言葉を多用した、高見亮子による散文詩の朗読(「金魚のC子」)を主体にした景もあるが、それは作品展示に息抜きや情感を与えるというより、むしろ異分子の乱入で、全体のトーンが乱れてしまうという印象のほうがつよかった。吉沢恵のソロもそぐわない。
 一方後半3日間の演劇「嘘と迂闊と物語」は、これはもう“コトバ”と日常で組み立てた、歴としたレアリズムの世界である。ストーリーと環境の変化で意表をついたり、突如ダンサーの踊り(松原佐紀子)を挿入して息抜きをあたえたつもりでも、特に大勢に影響はない。要は写実ベースの、サスペンスに満ちたショートショート風の演劇コント。両者の交配による《かもねぎ》独自の創造的な付加価値は、いつしか完全に消え去っている。
 ダンスとお芝居にまたがる貴重なメンバーを擁したこの集団は、今後どのような道をたどっていくのか。ファンとしてはせっかくの《かもねぎ》が、今後さらなる可能性の追求と飛躍によって、すこしでもおもしろい舞台を生み出してくれることを、ひたすら待っているだけだ。コンテンポラリー・ダンスという名称などは、しょせん瑣末のテーマにすぎないのである。

(9日ソワレ&13日マチネ所見)