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舞踊評論家・日下四郎氏の連載コラム「ダンスレビュー」

ダンスレビュー

【ダンスの人竹屋啓子ひさびさの力作:ダンス01公演「時―うつろいゆくものー」】
2009年11月20日(金)~2009年11月22日(日)シアターΧ

日下 四郎 [2009.11/27 updated]
 ひさびさに竹屋啓子が透明なダンスの世界にもどってきた。『ダンス01』2009年の公演「時」と題した創作だ。伝統とコンテンポラリーを織り交ぜた見事な調和。一行の説明や言葉があるわけではない。ゆっくりと進行する身体だけの動きの合間に、そこはかとない人生の機微が浮かび上がる。純粋なダンスの世界だ。
 日本の戦後における現代舞踊史において、竹屋啓子の名をきいてからすでに久しい。太平洋戦争の終った1945年、戦後すぐの師走に生まれた。キャリアとしては、洋舞開拓中期の一人者であった執行正敏について学び、独立してからは同年代の男性ホープ、河野潤と組んで活動を開始した。その頃まだ珍しかった現代舞踊の海外進出作品として「オ・グァラニ」を持ってブラジルへ渡ったのも、このコンビの果たした実績のひとつである。
 元来が教育大学出の才媛で、鋭敏で視野が広く、かつ語学にも堪能だった点が、その後の彼女のダンス歴に濃い影を落としたようだ。すでにニューヨークでの在外研修もおえ、帰国後は新人賞、奨励賞など、次々に若手トップ級の賞を手にしたが、このころ今度は演劇界に“小劇場運動”の雄として現れた演出家佐藤信に接近する。そして自らは竹屋啓子C・D・C(コンテンポラリ・ダンス・カンパニー)を設立し、そのころのダンスとしてはかなり前衛的で、かつ演劇色の強い内容の新作を次々に生みだしたが、そこには演出・美術を中心としたパートナー佐藤の、少なからぬ影響が陰に陽にあらわれている。
 しかしこの両者の合体活動が、もっとも理想的な形で結晶した最良のダンスは、84年の「VOICE」であろう。原作はジャン・コクトーが書き下ろした一幕のモノローグ戯曲で、音楽はそれをオペラ化したプーランクを用いた。ここでよかったのは、原作で語られるセリフやアリアなどはいっさいこれを無視して、全体を動き一本で押し切った演出にあった。その際唯一の美術効果として無数の電話機が天井からコードで吊り下げられ、その下では恋の未練にあえぐ女の生々しい心理を、フロアいっぱいに群舞で見せたのだ。演出・美術と舞踊・振付のエッセンスが噛み合って、二人の持ち味がピタリ相乗効果を上げた、みごとなダンス作品だったと記憶する。
 しかしその後発表された「ペネロペ」(‘86)や「ハムレットの新聞」(’87)になると、しだいに演劇的発想や言葉が前面に出てきて、それまで「WOMEN」(!83)など過去のすぐれた作品に見られたダンス特有の迫力が、竹屋個人のパーソナルな魅力ともども、次第に希薄になっていくうらみが残った。これは生来の知性と鋭敏が、いたずらに周辺領域への理解を深めるだけで、彼女を主題や観念に対するダンス風の仲介者――単に達者な説明役へと次第に変質させていったとも考えられる。それがダンスプロパーのファンにはなによりの不満で、せっかくの才能のためにも、強く惜しまれてならなかったのだ。事実90年代を通してのC・D・Cの活動半径は、演劇人佐藤信の黒テントと行動を共にし、アジアやヨーロッパなど地球規模での他国との交流公演や帰朝報告が、その活動実績の多くを占めている。
 さて『ダンス01』という現在の活動の場は、今世紀に入ってC・D・Cからの発展改名したものだ。ダンス仲間の有志を再結集して、もういちど自分たちの足元から、自分たち自身の作品を立ち上げていこうという、新たな運営とルールを設定した一種の芸術的有限会社である。会員と観客からの賛助グループの資金によって支えられ、すべてのプランはその合議制によって進められるという。同時に所属個人の活動や外部への参加も自由にみとめるという、いかにも知性と良心の人竹屋啓子らしい芸術の実行母体である。
 そのため発足いらいの定期公演には、関雅子、李香蘭などの内部メンバーによる振付作品を発表してきたが、今回はその同じ手続きで御大竹屋の登場となった。そして外部のジャンルからの舞踊家をも動員しながら、ひさびさ1時間を超えるオリジナルの舞台の披露となったわけである。外部というのは、日本舞踊、能、それにコンテンポラリー。ここで竹屋はこの国の伝統・前衛を超えた芸術ダンスの総合化という、ある意味では極めて野心的な冒険を目指したのだと考える。
 古来人間のカラダはウソをつかない。古典芸術をとおして鍛え上げられた日本人の身体には、形式こそ違え人間感情の諸相が、いずれの場合もずっしりと埋めこまれている筈である。そんな各流派から第一人者をピックアップしてそろえ、“時-うつろいゆくものー”というタイトルで、人生の“まどい”、“ゆらぎ”、“めぐり”など、もろもろの景にくみかえ描いてみせたわけだ。演ずるのは伝統芸術から花柳寿美、花柳達真、花柳美輝風、梅若晋矢、コンテンポラリーからは竹屋啓子、関雅子、寺杣彩、松本みゆき、以上計8名のダンサーらの出演である。
 公演には《DANCE with BACH》の副題が付けられている。ソナタ、協奏曲をはじめ、世に名曲と呼ばれるさまざまな作品を生み出したバロックの巨匠バッハだけにしぼり、おなじみ“G線上のアリア”をはじめ、各種の“ヴァイオリン協奏曲”など、全部で5曲が選曲された。音楽の世界とてまた同じである。古典には洋の東西を問わず、幽玄・深奥など、心の深層に迫る特有の感情が込められているものだ。それを3つのジャンルをまたぐ各派の舞踊家を動員して、ソロ、ドゥオ、トリオ、そして全員と、さまざまな形のダンスに振りつけてみせた。時には無音のままで進行する景もあり、じっと目を凝らして動きを追っているうちに、全7景が瞬く間にとおり過ぎた。なかには一曲ぐらい、メヌエット調の弾んだ振りが混じっていてもよかったかと思うが、いずれにしても長いのか短いのか。人生そっくりとでもいうべきか。古今東西をひとつの宇宙に集積し、ダンスが人生を横切っていった陶酔の一時間、正面からダンスに挑んだ、竹屋啓子久々の快作だった。(22日所見)