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舞踊評論家・日下四郎氏の連載コラム「ダンスレビュー」

ダンスレビュー

シアターX第9回IDTFにみるダンス作品:古くて新しい肉体のプレゼンス
6月1日~7月4日 演劇+ダンス+パフォーマンス 国際舞台芸術フェスティバル

日下 四郎 [2010.7/21 updated]
 1か月に及ぶ第9回ビエンナーレ、ダンス&シアター国際フェスティバルが、7月4日に終わった。今回のテーマは『チェホフの鍵』。生誕150周年に因んで設定されたもので、ロシアから参加した劇団BDT、変化球「ちぇほふ寄席」など多種・多様の演目に混じって、オープニングとクロージングは、しっかりとダンス作品で組み立てられていた。ケイ・タケイ、折田克子、竹屋啓子、アキコ・カンダなど、この国の現代舞踊を代表するベテランで組まれた舞台で、テーマ「かもめ」から着想された6つのソロを、一本の流れにのせて踊った。ダンスに対する主催者側の、かわらぬ思い入れと情熱をほうふつとさせていて頼もしかった。

 ここでは期間を通して全部で10数本を数えた長短・新旧のダンス作品から、あえてクロージングの「踊る妖精6羽のソロ」を取り上げる。前後2時間をたっぷり演じて見せたこれらダンサーたちに、まずは心から敬意を表したい。ただしチェホフの「かもめ」を素材に、自ら原作の登場人物二ーナに扮し、さらに地文をナレーションに生かしてまとめたのは、トップに踊った竹屋啓子だけで、あとは過去の記憶に残るかもめとの出会いを抽象化した作品(花柳面)、または飛べないかもめを詩的なイメージして振り付けた舞台(アキコカンダ)、また必死にあがくその生態を身体風景として描いたケース(倉知外子)、あるいはバックに演歌を流し、かもめの歌詞に沿って飛翔した自由ダンスの折田克子など、主題とのかかわりはダンサーによってさまざまだ。

 そんな中でもかもめの具象から、もっとも離れて身体と空間を処理して見せたケイ・タケイの創作は、何本かの木の柱を次々に持ち込んでこれを床に立て、おのれのボディと交歓させつつ狭い間隙を縫うようにその位置をずらしていく。アイディア自体はすでに過去の作品でも応用された記憶をもつが、今回はこの素材を一種の狂言まわしのように、他の5つのダンスのセットや小道具として生かし、その援用で全編を活性化した。その意味ではこの舞台の演出のポイントは、この作品を中心に広がっているとも言えるわけで、それがそれぞれのダンサーと絡み合って、貴重な流れを作った。6種の個性で飾られた珍しい“かもめ"の集大成。2時間を休憩なしで踊り続ける長丁場ながら、日ごろ多少ともダンスに関心を寄せるファンなら、6人が出そろうフィナーレの最後まで、まったく飽きることなく楽しめた筈だ。

 ここでIDTFの歴史を少々。シアターXのスペシャルティともいえるこのシリーズは、いまから17年まえの1994年に、当時開場して間もない両国のこの劇場で、いわゆるビエンナーレ(2年に1回)もののダンス企画としてスタートした。したがってその時の名称はIDFすなわちInternational Dance Festivalであって、そこにはTの一文字が欠けている。そこへ途中から演劇タームとしてのTheaterの発想が加わって、現行のIDTFになったのだ。

 今でこそ明確に理解できるが、そこには劇場プロデューサー上田美代子さんの、ひそかな願望が込められていた。いうまでもなくシアターXは本来演劇を主願とする劇場である。いまも思い出す、1992年のこけらおとしには、ポーランド発の前衛劇ヴィトカッツイの「水鶏」「狂人と尼僧」が、意表を突く異色の戯曲として上演され、関係者の注目を浴びた。そしてそのあと2年経った1994年に、いわば演劇の隣接ジャンルであるダンス主軸のビエンナーレ企画として、はじめてIDFが登場したのだ。

 それはなぜか。そこには上田プロデューサーの深い読みがあった。愛する演劇のレパートリーに、もっと芸術本来の奔放な想像力と狂ったような生命力を注入することは可能か。そしてその謎を解く秘密はひょっとしてダンスにある。思い切ってダンスだけを看板にしたシリーズを立ち上げることは考えられないか。そしていわばそれまで借り物然と取り澄まして続いてきたこの国の演劇界に、ダンスの肉体性、爆発力とエネルギーを見せつけ、その刺激を生かして演劇を蘇生させる、いわば一石二鳥の巧妙な作戦であり方法論だったのではと私には思える。

 かくして第1回のIDFには、岩名雅記、ケイ・タケイ、居上紗笈など、個性の強い異色のダンス作家たちが召集され、及川広信氏を総合ディレクターとする一連の創作、アブストラクト風で前衛色の強いダンス作品がずらり並んだ。しかし今振り返ってみると、初めの1、2回ぐらいまでの出品作は、必ずしも舞台からダンスのオーラが立ちあがるような、めざす理想の創作で充満していたとは言い難い。日進月歩のI・Tテクノロジーに依りかかったり、あるいは単に前衛のための前衛に自ら酔いしれて、ある意味奇異をてらうか観念的な、演劇よりさらに難しい謎めいたトライアルが続いた。難解なプレテキストの陰に逃げ込んで、せっかくのブトーの大家大野一雄の参加(第2回)も、全体のあいまいな実験作の印象を覆すには至らなかった、遠い記憶が私にはある。

 ところが一転、続く捻り出した第3回のこころみは核心を付いていた。そして実に愉快な思い切りだった。演じる人に明快な意識を与え、考える人のアイディアを生々しく肉化する。称して“考える人×踊る人"シリーズ(1998)である。観念と肉体の合一化を具体で仕掛け、さらに事後にそれにまつわる関係者のシンポジウムまで用意したのだから周到だ。試みは成功した。作品の狙いがはっきりと前面に押し出され、ダンサーたちも今度はハナからしっかりと目的意識を持ったうえで舞台に登ったからである。その結果次回からは、フェスティバルのひと月にわたる全演目に、共通するメインテーマを与える方法をとり入れるきっかけになった。

 その最初の試みである2000年の課題は「中国の不思議な役人」である。難しそうだが、別にバルトークでもベジャールでもない。人物なり、風景なり、お話なり、どんなつながりでもいいから、それが創作の一部にリンクされていればそれでいい。おかげで参加作品が従来より一段とひきしまり、多角化されたことは確かで、上田プロデユーサーが最初ねらったビエンナーレの目的、本来の狙いが明確に顕在化してきたのは、この前後からだといっていいだろう。そうして会の称号も、これを機に現在の略称であるIDTFに改名したのだ。

 つづいて2002年には、第5回の課題として「現実を抱きしめて」。そのあと「仮面と身体」('04)、「幽色霊気」(‘06)、「宙吊の彷徨」(‘08)、そして今回の「チェホフの鍵」と続く。これはこの前後から、日本の現代舞踊界にコンテンポラリーなる概念がひろく拡がっていったことと無関係ではないだろう。一般的な傾向として、パフォーミングアートの創造をめぐって、ダンスと演劇の境界領域に次第にバリアフリーの傾向が強く前面に押し出されてきたからである。

 こうして “チェホフの鍵"を採択した今年のIDTFは、広く多岐にわたるプログラムを組むことで成功した。第一日本でもなじみのこのロシアの作家は、もともと優れた戯曲家でもある。「かもめ」をはじめ多くの戯曲が素材に登場したが、なかで小説「子犬を連れた奥さん」を舞台化したBDT(ボリショイ・ドラマ劇場)の力量と演出は実に優れて見ごたえがあった。さすがは本場のスタッフ・キャストによるものだとおおいに感動したが、演劇作品ゆえにあえてこれ以上触れない。またその他に若手のショート・ダンスや、ひねった身体のパフォーマンスなどもあったが、ここではもう紙面がない。

 最後に一言。今回の第9回IDTFには、実は制作上での思わぬ事件があった。それは従来受けてきたこの企画への文化助成が、直前になって今年はあっさり打ち切られてしまい、スタッフがそのやりくりに四苦八苦したことだ。それでも幸いロシア文化省の後援や、ロシア文化フェスティバル2010のプログラムということで、何とか1か月にわたる予定のプログラムだけは、終了にまでこぎつけ消化できたのである。

 ただ来年は10周年だというのに、このまま行けばフェスティバルの開催すら危ぶまれる状況が発生している。そもそも事業仕分けと芸術仕分けは、本来的に全く立脚点の違う作業である。それを十把一絡げで大切な芽を摘みとってしまっては、これは行政上のミスコンダクトといわれても仕方あるまい。この2年先何とか道は開けるのだろうか。(6月1日~7月4日にわたる複数回の所見から)