D×D

舞台撮影・映像制作を手がける株式会社ビデオが運営するダンス専門サイト

 

ニュース・コラム

舞踊評論家・日下四郎氏の連載コラム「ダンスレビュー」

74

【コンテンポラリー・ダンスの原型を示唆するグループfの表現術:
アベ・レイのパフォーミング・コンサート】

日下 四郎 2012年9月4日

最初にことわって置くが、これは正式には普通にいうダンス公演ではない。タイトルにも『アベ・レイのパフォーミング・コンサート』とあるから、ごく自然のイメージから言えば、特定の個人をフィーチュアした、よくある歌唱の発表会だと誰しもが思うだろう。会場も都心の沿線に隣り合った中目黒GTプラザのこじんまりしたホール。ぎっしり椅子を並べても、せいぜい100席を少し越す程度の、しかし瀟洒な木作りの、いわゆる多目的ホールのひとつである。それをこの会では3分の2を平土間として生かし、入口側に半円状に70脚ほどの椅子を並べて客席とした。

では実際に行なわれた〔パフォーミング・コンサート〕の内容とは? 今回主宰のアベ・レイ(内田房江)は、もともとレキッとした声楽畑出身のプロであり、CDもすでに何枚か出している。その人があえて伝統的なルールや規約を破って、パフォーミングの名を冠した新奇の発表会を試みるのはなぜか。そこにはここ数年来活動を続けるダンス界のトリオ〔グループf 〕の活動が深く関わっている。いやそれどころか実は自らもれっきとしたその一員なのだ。他の2人の仲間は、日本舞踊の花柳かしほとモダン・ダンスの松永茂子。この3人が中心となって、あえて新しいダンスの、ユニークな身体表現をこれまでも舞台で公開している。だから今回もみずからの発表会に、あえてパフォーミングの文字を冠し、一般のコンサートとはひとあじ違う見せ方をしているのだ。

いや初めての方のために、もう少し具体的な説明を加える。プログラムに並んだ12の歌曲は、すべてオリジナルのアカペラか、あるいはカルダーラ(A.Caldara)またはペルゴレーシ(G.B.Pergolesi)など、18世紀に生まれた聖歌をベースにした歌曲が主だ。その他にはバッハのチェロソナタを用いたナンバーも混在している。そしてこれらを総括するキャッチフレーズには、なんと≪祈り 希望 諦め 愛 高貴 渇望 追憶 憧れ 永遠 別離 安らぎ 鎮魂≫とあるから、その内容と歌い手の姿勢は推して知るべしだ。なおついでに言えば、それらの歌曲はカウンターアルトといおうか、高音に対する低音を主体としたナンバーが選ばれるか、あるいは高音をわざと1オクターブ下げて唄うといった独自の発声法からなりたっていることも、このコンサートの大きな特色のひとつになっている。

さて、そこでもっと重要なことは、この舞台の独自の表現方法にある。すべての曲は、かならず身体の動きを添えた、ある種のダンスと一体化した造型の上に組み立てられているのだ。したがってどのナンバーも、フロアいっぱいを使い、極めて立体的な動きの空間造型を目指しているの。したがってその際会の立役者である歌い手自身も、普通のコンサートのように、ただステージの中央に立って声を出すのではなく、彼女を取り巻くダンサーともどもいっしょになって動く。そしてそれは単に視覚の美化とか主題の説明のためにあるのではなく、また反対にダンスを盛り立てるための伴奏として存在するのではない。文字通りペール・セ(per se)、自ら人体の動きに参入し、おのれの持分であるヴォイスという役割を遂行しながら一体となって踊るのだ。これが今回のアベ・レイ パフォーミングコンサートの実際の中味である。さて、そこでもっと重要なことは、この舞台の独自の表現方法にある。すべての曲は、かならず身体の動きを添えた、ある種のダンスと一体化した造型の上に組み立てられているのだ。したがってどのナンバーも、フロアいっぱいを使い、極めて立体的な動きの空間造型を目指しているの。したがってその際会の立役者である歌い手自身も、普通のコンサートのように、ただステージの中央に立って声を出すのではなく、彼女を取り巻くダンサーともどもいっしょになって動く。そしてそれは単に視覚の美化とか主題の説明のためにあるのではなく、また反対にダンスを盛り立てるための伴奏として存在するのではない。文字通りペール・セ(per se)、自ら人体の動きに参入し、おのれの持分であるヴォイスという役割を遂行しながら一体となって踊るのだ。これが今回のアベ・レイ パフォーミングコンサートの実際の中味である。

以上のようなわけで、この〔グループf 〕のかかわる舞台は、たいてい3人のうちの誰かが主体となって公演を組み立てている。例えば花柳かしほが、過去にアサヒアートスクエアで発表した「竝木」(2008)や「Allegory」(2010)など。主人公である花柳が日本舞踊の和服で作品の各章を踊るが、その運びの中へはかならず〔グループf 〕のメンバーが集結して、奇妙かつ奔放なダンスの景を披露するシーンが用意されている。今回の例では序章のカルデーラと、9曲目のバッハのチェロソナタ2の場面がそうだ。これが松永の作品の場合は、もっぱらトリオによる特異な人体の振付に集中し、グロテスクな衣装などで主題を高揚しながら表現していくのが、独自のメソッドとなっているようだ(「少し南へ」2010、「アイ」2012ほか)。

さらにこのコンサートの進行中、ホリゾント側の正面にくりぬかれたスクリーンには、極めて手の込んだ巧緻なデザインによるヴィデオ映像が、プログラムの進行中、ほぼ中断なく流され続けている(映像:豊崎洋二)。これはこのグループの前衛と多面性を象徴するパートで、上記の花柳作品「竝木」で用いた文字のアニメーションなども、いま思い出しても実にユニークであった。「凛」「傍」「哀」をはじめ、いくつかの概念を章に仕立てた漢字が、ステージの進行とともに正面に映し出され、それといっしょに踊りが次なる主題へと移行してゆくのである。

その他〔グループf 〕がかかわる舞台には、その都度創作の意図に沿った、ごく少数のゲストがキャスティングに加わる。今回は生演奏の打楽器奏者(あだち麗三郎)と若手のジャズダンサー(北原倫子)が、出演の協力者だった。そして随時必要な造型の要素として、例えば前者の場合など、楽器を奏しながら動きに加わる。すべて最初から準備され、ダンスを軸に振り付けられた動きだから、みていて実にすっきりと受け止められる。単に思い付きのハプニングで飛び出し、シッチャカメッチャカに素人が走り回るような、近頃はやりの自称コンテンポラリーとは、全くわけが違うのである。

このようにこのトリオ〔グループf 〕の舞台は、多角的な舞台要素を取り込んだ新鮮な空間によって構成されている。しかしながらこのパフォーミング・コンサートでも、観おわってもっとも強い感銘として最後に残るものは、決して歌曲そのものだとはいえない。ましてやバックに投影された、映像の技術でも電子化されたサウンドの妙ではなかった。それは〔グループf 〕の3人が、日ごろ舞台芸術の究極の理想として心に抱いているアーティストとしての信念であり、身体を通して発揮されるそのアイデイアの躍動である。つまり1時間に及ぶ縦軸としての主役は、どこまでも人体表現としてのダンスを目ざしている点だ。その1つのヴァージョンが今夕の舞台であったというのが、一観客としての私のいつわらざる結論である。

いつも繰り返している私の持論だが、現代舞踊(コンテンポラリー・ダンス)とは、その作品が何らかの点で“いま”とかかわりがあるからこそ適用される言葉で、けっしてテクニカル特定の用語でもなければ、また奇をてらった演出の代名詞でもない。この概念のあいまいな適用が、数だけはやたら多い現代舞踊の質の劣化に直結することのないよう祈りたい。その意味でこの〔アベ・レイのパフォーミングコンサート〕には、いわばコンテンポラリー・ダンスの原型が垣間見え、観おわってそのモデルに接したようなさわやかさが残った。今月の論点に採り上げた所以である。
(8月28日 所見)

日下四郎
日下四郎(Shiro Kusaka)
芸術文化論・ダンス批評・演出
 
本名:鵜飼宏明 京都市出身。
東京大学ドイツ文学科卒業後、東京放送(現TBS)へ入社、ラジオ・テレビのプロデューサーとして数々の番組を送り出す。1979報道制作部長職を経て退社、 故・三輝容子とダンス・シアター・キュービックを設立、13年間にわたりトータル・アッピール展の創作(台本・演出)にかかわる。90年代は淑徳短期大学、日本女子体育大学大学院にあって非常勤講師、主にドイツ表現主義芸術を論じた。現在はフリー・ランス。著書:「モダン・ダンス出航」「太陽と砂との対話」「竹久夢二」「現代舞踊がみえてくる」「東京大学学生演劇75年史」「ダンスの窓から」「ルドルフ・ラバン」(翻訳)など。他に、ビデオシリーズ「日本現代舞踊の流れ」(全6巻)の完成があり、その全テキスト・演出を担当した。