D×D

舞台撮影・映像制作を手がける株式会社ビデオが運営するダンス専門サイト

 

ニュース・コラム

舞踊評論家・日下四郎氏の連載コラム「ダンスレビュー」

80

“2013時代を創る現代舞踊公演”24作品を観る:優れた作品とこの会が持つ意味

日下 四郎 2013年9月27日

いつも小難しい理屈が過ぎるとの声に反省して、今回はまずのっけから3夜に亘
る24作品の中、印象に残った数編をとりあげて批評してみる。

初日18日(水)の8編中では、馬場ひかりの「AWAKE-仮想と現実の間」と、清水
フミヒト「今、は咲こうとしている」の2本に注目した。前者はこのダンス作家
がアメリカでの修業時代から帰国してからというもの、作品にみられる主題の観
念性が強すぎて、それが逆に身体表現の魅力を削いできた恨みがあったが、よう
やく最近はその振付にダンス本来の肉体性が付いてきた。この作品も発想の起点
は“愛と死をめぐる一千億の脳細胞の話”と、いつもの彼女らしくコンセプチュア
ルだが、7名のダンサーを出し入れする身体の動きに、充分の魅力と説得性を感
じた(平たく言えばダンス自体がおもしろいということだ)。

清水作品もまた身体を通しての生命神秘への挑戦だが、タイトルにあるように、
こちらはより具象的。これから開花しようとする花の細胞にみる動きを、作者自
らも花弁の芯となって、卵形に組まれた可変の木枠(美術:藤沢レオ)の中に入
り込んで熱演した。とりまくダンサーたちの練り込みと完成度も高く、そこへ生
演奏のトランペット(作曲・演奏:小西徹郎)を配して、底流するエネルギー
を、強いオリジナル性と共に演じて見せる進行には迫力がある。久々にうれしい
清水レポートであった。

2日目の19日(金)では、まず高岡由美の「MOON- izayoi- 短夜編」に言及した
い。“いざよいの月”で知られる〔いざよい〕の原議は、進もうとしてためらいが
ちな動作のこと。それをホリゾントの前に横向きに配した4人のダンサーの、膝
でにじり進む移動で表した最初の振付がまず面白い。そこからとうぜん情景は月
へと移る。高岡のソロがあり、空間は群舞で埋められるが、ダンスが繊細であり
かつ情熱に満ちあふれている点では一級品。近頃はうんと鑑識眼の高くなった観
客の強い拍手が、正直にそれを裏付けていた。

この日の演目では、トリを受け持った内田香の、あいかわらずのずば抜けた
感性には感服した。幕が上がったとたん、そこには紅系一色で塗り込められた
テーブルクロスとダンサーたちの、目も鮮やかなドレス風景があり、たちまち始
まる淑女たちの裳裾と長髪の乱舞を通して、いさかい、あてつけ、肩すかしな
ど、女性の多面なサガを織り込みながら、秘めやかなエロティシズムの味わいを
加えて、ユニークなダンス宇宙を綴ってみせる。〔ルッシュワルツ〕の初期のレ
パートリーであるこの「冷めないうちに召し上がれ」は、コック長内田の手腕よ
ろしく、10年近い歳月を経てもそっくり賞味可能であった。

3日目20日(金)。この日の注目作品は菊地尚子の「アトカタ」だろう。幕が上
がると薄暗い舞台の上手奥にから、這いつくばるように蠕動して中央へ近づいて
くるダンサの一群。それもスローで手足を上下させながらの、一見奇妙でありな
がら迫力を感じさせる移動だ。たまたまこの作品の2つ前に山名たみえの
「Welwitschia」と名付ける創作があり、それは4人のダンサが地下水脈に10メー
トルもの根を伸ばし、千年単位の生命を維持するという同名の植物の生態を表現
する作品だったが、菊地の出番がすぐ後だったこともあり、観ているうちにたま
たま両者の作品に込められた共通項のようなものが見えてきた。共に生命の根源
に迫ろうとする姿勢がモティベーションとなっている。

しかし前者が作者山名の持つ詩人的気質の結晶として、いわば純粋に生命賛歌に
軸足を置いたのに対し、後者には期せずして周辺の社会との接点が取り込まれて
いるところが特色。白衣の女の足元に蝟集した肉体が、一人ずつが引きずられる
ように消え去ってていく姿は、同じ生命の実態でも、どうしても一段上の破壊
力、例えば東北大震災の犠牲などを連想させずにはおかない。ダンス芸術の持つ
イメージの魔力とでもいうべきか。

おわりにこの会のプログラムには、恒例として過去の名作ともいうべき舞台を、
協会のレパートリーから選択して再演するという習わしがある。今年のそれには
井上恵美子の振付になる「RIVER」が当たった。初日と3日目のトリとして、2回
にわたり上演された。川の生態をあらわした群舞作品だが、2002年の昔にチャ
コット賞をとった旧作とは思えない新鮮さがあり、この作家のしたたかな職人的
技量をあらためて認識させられた。

以上が今回の公演で筆者の印象に残った作品批評の一覧である。この世界のなら
わしに従えば、一応これで舞台批評としてはおしまい、“お役ごめん”といったと
ころだ。しかしわたくし的にはどうも物足りない。批評の役割には本来もう少し
広い視点、作品を取り囲む世界への、いわば大所高所からの言及といったものが
あってしかるべきだ(と、従来から少なくとも筆者はそう考えている)。そこで
協会CDAJが作る代表的な年次公演であるこの《時代を創る現代舞踊公演》につい
て、以下にひとこと述べさせてもらう。

まずタイトルだが、そもそも舞踊が“時代を創る”ことなどありうるのか。いくら
現代舞踊と言ってもそれは無理だろう。せいぜい時代を反映するとか、素材をそ
こから得たというのが芸術本来の性状であり、いわば力の限界である。まあ百歩
ゆずってこれは制作サイドの心意気を文字に代弁させただけという主張を聞き入
れるにしても、今回の24作品に果たして時代を意識にとりいれ、それに挑んだよ
うな作品があったかと言えば、それはまず皆無と言ってよかった。

もともとこの企画は以前〔新鋭・中堅舞踊家による現代舞踊公演〕として、協会
在籍の中枢実力者が技を競い合うイヴェントだったが、2007年に協会の創立60周
年を記念して、これが現在の名称に切り替えられたものだ。ところが再度中身を
そのまま3年後の2011年からは、文化庁の主催事業となり、協会は制作費と引き
換えにその受託を担う行事へと移行したのだ。このことは芸術の本質にとって大
きな問題を抱えるが、ここでは敢えて触れない。

ともあれそんな歴史を持つこの年次の公演は、実質上この国の現代舞踊の実力を
もっと色濃く反映し凝縮された舞台であり、そのため毎年全作品に接するよう、
筆者も欠かさず足を運んでいる。そしてそこで観せられる苦心の創作は、間違い
なくみな芸術的・技術的には高水準のものばかりだ。にもかかわらず、扱われて
いる内容に関して言えば、不思議と今日の世界や状況にからむ素材、“今”生きる
作者のひたむきな視線や悩みには、どうも無縁だ。無疵に磨き上げられた芸術
や、文学作品から翻案されたダンス芸術などの創作が、つぎつぎと登場して来る
ばかりだ。

10年前までなら知らない。昨今は改憲・汚染問題・教育・アベノミクス等々、数
え上げればきりがないほど、さまざまな問題が日々われわれを襲いかかる。生き
た芸術は刻々と変化を続けるはず。あらためて問いたい、現代舞踊とは何か?そ
して“次代の文化を創造する新進芸術家”とは? その意味で舞台に見るこれら最
近の姿勢は、行政機関である新しい主催者の意向と、やはりどこかで無関係では
ありえないのではないか。気にかかるところだ。

(18日~20日、3夕の所見)

日下四郎
日下四郎(Shiro Kusaka)
芸術文化論・ダンス批評・演出
 
本名:鵜飼宏明 京都市出身。
東京大学ドイツ文学科卒業後、東京放送(現TBS)へ入社、ラジオ・テレビのプロデューサーとして数々の番組を送り出す。1979報道制作部長職を経て退社、 故・三輝容子とダンス・シアター・キュービックを設立、13年間にわたりトータル・アッピール展の創作(台本・演出)にかかわる。90年代は淑徳短期大学、日本女子体育大学大学院にあって非常勤講師、主にドイツ表現主義芸術を論じた。現在はフリー・ランス。著書:「モダン・ダンス出航」「太陽と砂との対話」「竹久夢二」「現代舞踊がみえてくる」「東京大学学生演劇75年史」「ダンスの窓から」「ルドルフ・ラバン」(翻訳)など。他に、ビデオシリーズ「日本現代舞踊の流れ」(全6巻)の完成があり、その全テキスト・演出を担当した。