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ニュース・コラム

舞踊評論家・日下四郎氏の連載コラム「ダンスレビュー」

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7月の公演より

日下 四郎 2014年7月29日

【東京新聞主催 第41回 現代舞踊展 前後篇 12/13日 全26作家 メルパルクホール】

40年を超える歴史をもち、毎夏1回この国を代表する精鋭たちの秀作を舞台に乗せることで、自ら「現代舞踊界の歴史を築いてきた」(プログラム)と自負するこの東京新聞主催の恒例イヴェント。しかし今から10年まえ、30週年記念を機に、それまで半ばレギュラー化した出演者の顔ぶれを一新したいとする制作サイの試みは、ちょっとしたドラマ感触の冒険だった。前後3日間にわたるスケジュールを組み、40名近い新旧ダンサーの作品を揃えてみせたスぺシャル記念版。そのうらにはこれを機に、なんとか新旧顔ぶれの入れ替えを一挙にソフトランディングさせたいという願いが秘められていたようである。

こころみは正解だった。その余波を受け翌年から、この年次公演の感触にも微妙に変化が現れる。若手ホープの進出はもちろんだが、それに伴い披露される作品自体にある種の広がりと幅、言うところのコンテンポラルリー化現象が現れ、振付や構成のひねり、自由なサウンドや凝った衣装を通して、10年前には考えられなかったヴァラエティが、プログラム全体を通しての特色となってきた。だが造形にみる細部の工夫やテクニックそれ自体だけでは、必ずしも作品の感銘度や創作レヴェルの向上がそのまま実現するものではない。

変換スタート年度からちょうど10年目に当たるこの「現代舞踊展2014」。そろそろその総括のような斬り込みや分析も許されるかと、そんな気持ちで2日間おなじみメルパルクホールへ足を運んだ。次々に見せられる10分×一晩13篇、両日で計26本を数えるプログラムを観ての感想は、まず私の視界の中央を横切って、平均値を示す1本の水平ラインが引かれており、その線の付近に各作品がほとんど落差なく点在しているという、いささか奇妙な感想の後味だった。つまり傑出した創作が1本もない。いわばなんとか合格ラインの、優等生クラスの作品ばかりを見せつけられたという思いが、正直最後に残った実感だった。

のっけからこのぶしつけな総評をまず吐露した上で、さてレヴュー・コラムの役割上、以下は筆者の心に残ったいくつかの所感を、随時メモさせていただく。

初日では2番目に出た神永宰良の「偽りの言葉―掃除屋Part4」が出色。福島原発事故収拾の問題は、現地のみならず列島の今後にとっても半永久的な課題の筈。彼はこの3年間にシリーズとして執拗にこの主題を追っている。作風はいずれもアイロニーと象徴手法で、住民の受難と行政サイドの偽善を執拗に表示して見せた。決してイデオロギッシュなデモではない。箒を手に黒衣を着けた20名近い群舞の動きは、プロ級の一線を立派にマークしていて、舞踊作品としての迫力は充分に備えていた。最後に客席から神永が進み出て、問題の所在を暗喩的に言葉で集約して締める。

前半の最後に出た山元美代子の「BALANCE V」は楽しかった。オブジェと人体を自在にこなしてショーアップするこの人の手腕はいつみても確か。今回はそれがチェアーで、それぞれオブジェと抱き合った(?)5ペアが、くんずほぐれつシャープな空間風景を展開させてみせる。そのうち後ろから黒1点の動体(木許恵介)が現れ、その介入で更なるディメンジョンが出現、あらためて新規の人体×オブジェ・ショーが開花する。どこまでも飽きさせない職人芸というべきか。

造型の器用さの点では、後半トップの佐久間尚美・坂木真司の「幻影たちの佇む場所」にも注目したい。幕が上がると舞台に上手と下手に、一見同じような円錐形の山がセットされている。だがひとつは8名のダンサーが折り重なって組まれた立体であり、もう一方はひとりのダンサー(坂木真司)が、文字通り全身で数脚以上の折りたたみ椅子を支えて出来上がっている奇妙なオブジェである。そのうち人体・チェアが両者とも順に崩壊し、中から男が転がり出て、あらためてダンサーたちによるオブジェの再構築が試みられる。ダンスというより、こちらはむしろ人体ショーに近い作品で、その点タイトルとの関連がやや難解。

その他の創作では、柳下則夫の「終のセレナーデ“第2章”」と石黒節子の「流・流・流」について、それぞれ一言ずつ。ダンディ柳下が繰り広げる今風遊冶郎の夢、“いなせ”の世界。黒の礼服にわが身をやつし、とりまく数多の女どもをつぎつぎに手玉に取って渉り歩くドンファン。いまダンサーとしてのキャリアを締めるに当たって、もっとも正直におのれの桃源郷を再現してみせた企画といえる。
だがそれがアナクロニズムと紙一重であることは、どこかで意識しておく必要があるかも知れない。

かつて石黒は無重力世界の人体実験にスタッフとして関わりを持った経緯がある。おそらくはその当時に得た体験と手法を、今回は自らをも含む出演者8人全員に広げて施してみせた。ここにはいつもの理屈やストーリーは皆無だが、逆にそれが新鮮であり、直接に身体と対峙し独自のスタイルを生み出した点で、なかなかに新鮮かつ刺激的だった。これまでのかの女のダンス作品の中では、あるいは最高点を献上してもいい振付だったかも。

さて次に翌2日目の13作家から。前半では3本目の武元賀寿子「Give Me Mother…2014」から、続く冴子の「檻を求める人間たちへ」、中トリの渡辺麻子「Storm」へかけて、それぞれごく少量だが、狂気の片りんが顔をのぞかせる点が、ようやく救いの思い。30名を超えるダンサーを、フロアーいっぱいに捌いてみせる武元の力量は、いまや特技といってもいい振付であり拍手も呼ぶが、この先どこを目指して行こうとするのかいささか不安にもなってくる。

一方冴子作品には、主題の核心へ向かってまっしぐら、その正直一途の振付は希少価値がある。しかしあまりにも純度の高い思い入れが、見せ方・観られ方を失念してしまわないかと心配。念思することの純度と客層の理解は必ずしも一致しないからだ。その点渡辺麻子の才能には敷衍性があり、いまも衰えない。カバンの受け渡しや処理を巡って、人間存在の機微にもふれる創作の中味は、グレー・
コートの象徴性も生きて、この日一番の拍手を呼んでいた。

後半で目を引いたのは、金井桃枝の「骨扇」、萩谷京子の「動植譜」、野坂公夫・坂本信子の「Heaven’s Blue」の3本か。かれらの創作に共通するものは、常にお客に見て楽しんでもらうことを忘れないダンスアーティストとして初歩意識であろうか。その上で創作に当たっては、それぞれ厳しい制約を、あらためておのれの上に課す。

韓国民俗に不可欠の扇の骨は、同時に人体を支える中枢でもあるという信念の下に練り上げた韓国舞踊の視覚美。「たぬき」の往時から、独自な人体の動きと切口で、その存在感を示し続ける萩谷親子。野坂・坂本の貴公子一家が生み落とすモダンダンスは、いつも基本ルールを堅守しながら、どこかで新しい地平の開拓を目指している。今回はそれがブルーのダンサーと地平線から見えていた。

こう書き並べるといかにも傑作ぞろいの2夜だったように感じられるかも知れないが、どっこい事実は冒頭に述べたようにまるで逆だといえる。26本を通してなるほどと見ている側を唸らすような秀作は1本もない。というよりは公演のタイトルである“現代”の舞踊、すなわち“いま”を切実に感じさせる内容の創作には、どこまでいっても出会えないのだ。どの作家も与えられた枠の中へ、おのれの思い付きや好みの答案で、ちんまりとまとめて万事足れりとしている。平穏そのものだ。

3.11以来、この国の社会情勢は年々波乱含みである。原発問題と改憲志向、増税決行とアベノミクス、そして〈特別秘密法案〉や〈集団的自衛権〉が示唆する戦争への歩み寄り。国の将来を2分しかねない問題の山積だといえるだろう。これらの状況や空気が、居並ぶ現代舞踊作品のどこかに、なんらかの影を落としても、少しも不思議ではないと思うのだが。

その点でいえば初日に出た神永の「偽りの言葉」が唯一の例外だろう。しかし“現代”というのはなにも題材の時事性にだけあるのではない。要は作り手が日ごろ感じている生きることの意味、またその姿勢や切実さにあるといえる。だから仮に非社会的な題材でも、すぐれて“いま”の作品たりうるわけであり、また表現テクニックや手法の斬新さ自体で、真っ向から現代と向かい合うケースだって充分ありうるはずだ。

「わが国の現代舞踊の発展に寄与する」(プログラム)ことを願うという、この半ば伝統的な年次の舞踊公演。後援団体から送り込まれる顔ぶれを機械的に並べ、単に帳尻合わせのバランスを気にするだけの事業から飛び立つには、10年まえの改編に準じて、いまいちど組織体制とプロデュース面での、思い切った手直しを必要とするタイミングが、あるいは来ているのかもと、ひとり勝手に思ったりもした。(12日、13日所見)



【勅使川原三郎連続公演のうち 新作「7月の夜」 9/10/13日 各1回 両国シアタX】

この月東京新聞の年次公演「現代舞踊展」を評した一文で、現代芸術としてのダンスが占める現代性について、いささかの私見を述べた。その中でそれが指標する“いま”というのは、必ずしも狭い意味での素材や時事性に規制されるものではなく、どこからみてももっぱら芸術性を追求した作品でありながら、いや、それゆえに優れて“いま”を感じさせるダンスに出会うことも、忘れずに言い添えたつもりである。

たまたまそんな範疇に属する見事なサンプルを、グサリ胸元に突き付けられた思いのダンスに出会った。勅使川原三郎の新作「7月の夜」である。昨年披露した「春、一夜にして」を起点に、今年3月の「空時計サナトリウム」と「ドドと気違いたち」、そして今回へと続く、言うところの“勅使川原三郎連続公演”シリーズの最新作である。

いま振り返ると、この才能のテアトルXとの出会いは、たしか2008年暮れに出た「特性のない男」が初回だったと記憶する。以来この劇場が動員するホンモノの客層と、適正に圧縮された小規模の空間、それが作者生来の実験・前衛性とがピタリ見合ってか、12年春の「オルガン」を含む、他の大劇場ではありえない実験的にして、かつエッセンシャルな、すぐれた創作ダンスの数々がこの劇場から生まれた。

出自はクラシック・バレエでと言っても、勅使川原の場合その活動は、舞台美術、照明デザイン、音楽、衣装など、あらゆる舞台芸術の属性を取り込み、その頭脳から生まれ出るものは、つねに軸に光・音・空気・物体を渾然一体化した感性の結晶体への果敢な試みそのものである。したがってそこには遠い昔に見た羊など生き物の投入に始まり、オルガンやガラス破片の活用、あるいは目下進行中と言っていいB・シュルツや宮沢賢治など文学作品の言葉との劇的接近まで、その試みは実に目まぐるしいほど多彩だ。

ところが今回の「7月の夜」では、それら援用のための周辺からの付加物をすべて避け、あえてダンス空間の3拠点ともいうべき、身体(本人+佐東莉穂子)と照明(緞帳に光を当てたイメージセット)、そしてサウンド(列車の走行のような現実音+弦・打音・鍵盤などの楽器)と、いわばぎりぎりのパフォーミングアーツの要素に絞って、その感性のすべてを投入し、一挙に勝負を賭けた作品とみた。

突如闇の中に姿を現し、分身佐東莉穂子との不即不離のデュオを真贋のはざまに演じてみせた後、ふたたび闇の中へ消えていくこの不思議な存在。その70分の持続は、5感の生んだ結晶そのものであり、かつ人間の孤独、閉ざされた環境という実存の状況を、同時に黙って焙りだしている。現代舞踊と名付けずして何であろうか。そういえば「7月の夜」というタイトルそのものに、すでに“いま”この時へのひたむきな挑戦の覚悟が、痛いほどくっきりと示されていることに、遅まきながらハタと気付かされた。(13日所見)

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―おなじみA,Bによる不毛の会話―

B:「あたしね、アメリカにいた小さいころ、はじめてロフトで組んだモダンダンスのセッションを観たことがあるの。そのなかで当時の経済政策を批判して、舞台に掛かったレーガン大統領の肖像に、大きなドルの紙片を何枚も投げつける創作ダンスを見せつけられて、ちょっとしたショックを受けたわ」

A:「それほど露骨でなくても、大劇場以外なら東京でも時にそんなダンスもありよ。この月の20日に、DANCE BRUTが例年シリーズのプログラムとして出した「30歳からのハローワーク」は、一種エンタメ系のダンス公演なんだけど、いわゆるニート族、職を求める非正規社員を扱った内容で、技術的にはともかく、笑いと諷刺で立派に現代舞踊のひとつと言っていい舞台だったわ」

B:「現代舞踊、現代舞踊って、なんだかみんな恰好つけて言うけど、バレエ・テクニック以外なら、どんなに独りよがりでもパスしてしまう創作ダンスの環境は、やっぱりどこか変かもね」

日下四郎
日下四郎(Shiro Kusaka)
芸術文化論・ダンス批評・演出
 
本名:鵜飼宏明 京都市出身。
東京大学ドイツ文学科卒業後、東京放送(現TBS)へ入社、ラジオ・テレビのプロデューサーとして数々の番組を送り出す。1979報道制作部長職を経て退社、 故・三輝容子とダンス・シアター・キュービックを設立、13年間にわたりトータル・アッピール展の創作(台本・演出)にかかわる。90年代は淑徳短期大学、日本女子体育大学大学院にあって非常勤講師、主にドイツ表現主義芸術を論じた。現在はフリー・ランス。著書:「モダン・ダンス出航」「太陽と砂との対話」「竹久夢二」「現代舞踊がみえてくる」「東京大学学生演劇75年史」「ダンスの窓から」「ルドルフ・ラバン」(翻訳)など。他に、ビデオシリーズ「日本現代舞踊の流れ」(全6巻)の完成があり、その全テキスト・演出を担当した。