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ニュース・コラム

舞踊評論家・日下四郎氏の連載コラム「ダンスレビュー」

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9月の公演より

日下 四郎 2014年10月1日

【高瀬多佳子ダンスギャラリー公演「67億光年からの子守歌」他 日暮里 サニーホール】

高瀬多佳子のダンス・キャリアも長い。日本女子体育大学の出身で、江口隆哉、金井芙三枝を師とするが、この世界にデビュー後、その新鮮さではやばやと1976年度の音楽新聞新人ベストテンに選ばれた。同時に3年連続で全国舞踊コンクールの1位2位を獲得、その後自ら欧米での見聞を果たしたのち、1981年に在外研修員に応募してニューヨークへと渡る。そのときの縁で、現地ダンサーR・キャラバロとの間に設けた1子が、今回4年ぶりに日本のステージに立つ娘の高瀬譜希子である。

DNAの副作用とは言わないが、2人の作風はよく似ている。すべてを身体表現の一点に絞り込み、コンテンポラリー作品にありがちな、空間装飾や仕掛けにはいっさい目を向けない。ソフトなサウンドとゆるやかに交錯する光を浴びながら、シンプルなセットをバックに、ひたすら生身が放つ透明な宇宙を追い求める。これが高瀬多佳子ダンスギャラリーのカラーでありメソードだと言えるだろう。

プログラムは2部からなり、前半は一門の若手による5つの作品。ソロあり、デュオあり、群舞あり。一括して「アイランドユニバース小品集」と名付けた。そして個々のタイトルは、“ペガサス”だの“スピカ”など、いずれも星座と関係がある。まるで多佳子の所有する宇宙を散りばめて、そのまま振付に代えたかのよう。テクニックは水準だが、統一された純度が、どの作品をも充分に楽しんで観させてくれた。

後半は親子の2本。まず母親の「67億光年からの子守歌」から。どこからともなく舞い込んだ白衣の身体が、フワリ・ヒラリとゆれていると、そこへライブのシャンソン(リリ・レイ)が加わって、さらに感性のコーラスを2人して織り続ける。そこにはかつて“風”のシリーズを長期に展開したダンサー多佳子が、なぜかちょっと頼りなげ足元を交えながら、ほとんど無傷のままイメージとして重なって見えた。

ただその個性的な振りの展開は、次なる譜希子のデュオ作品「Cultivate A Quiet Joy」を見たとたん、にわかに相対化されて浮遊する。形はそっくり同じでも、質としての体感――、すなわち内なる身体のテンションが、天地ほどにも違うのだ。それはパートナーMbulelo Ndabeniを相手に、譜希子の駆使する筋肉が、あえて師としての母親譲りのパターンをなぞって見せるときに、ことさら著しく際立つ。

それは拮抗するデュオの、同じレベルに若い肉体の発する挑発と攻撃によって、いっそうの効力を発揮する。本来優雅であるべき多佳子ギャラリー風のフォルムが、そのままの形を保ちながら、スピ-ドと変化を遂げる中に、ほとんど神技とでも呼びたくなるテクニックの開示へと移行する。その動態のプロセスこそが、本人の言う「電波小屋のような空間」(プログラム・ノート)の構築なのだと、はじめて納得させられた。(9月5日所見)

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A:「ダンス批評って、いったい何を云おうとしてるの?」

B:「要するに上手いか下手かのジャッジでしょう」

A:「クラシックが対象の場合はね。バレエでも日本舞踊でも、様式の決まった古典なら、あとは踊り手の表現力だけが勝負ですもの。でも現代舞踊になると……」

A:「ちょっと複雑だわネ。作品全体の狙いだとかそのための演出も問題になってくるし。お蔭でああでもないこうでもないと、やたら小難しいひねった批評が出回りはじめる」

B:「でなくても近頃は、舞台のあとにお客からアンケートをとるのが、ほとんど当たり前のようになった。文章の数だけ批評家がいるというか、一時的批評家の乱立というか」

A:「でも時には、そっちの方がホンネを吐き出して、よほど貴重だという意見もある。おもしろいか、おもしろくないか。お客はただそれだけを見届けにやってくるんだから」

B:「ダンスの介在しない現代舞踊、あるいはダンスの観えない批評家。ひょっとしてそのどちらもが多すぎるのかも」

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【東京新聞第50回記念 推薦名流舞踊大会公演 昼の部 創作「祭唄」他 国立劇場(大)】

おそらくこのコラムでは初めての日本舞踊をとり上げる。というのも筆者は本年初頭の本欄で、これからはもうすこし批評の対象を広げ、パフォーミング・アーツに該当するものなら、現代舞踊や創作バレエ以外にも可能な限り言及したいと公言した。にもかかわらず実際にはパントマイムと、ショー寄りのダンスの2・3に、いくばくかのスペースを割いただけで、あとはムニャムニャお茶を濁している。これは明らかに約束違反じゃないか。

だが今回筆者を、あえて初台ならぬ三宅坂へと走らせた理由は、もっと他にある。もともとパフォーミング・アーツとしてのダンスの面白さは、単にそれが“きれい/!/すてき/!/”だけではなく、一口で言えば≪脳と体≫の秘密が、この芸術のどこかに隠されていると信じるがゆえにだ。そしてその意味での代表選手は、やはり現代舞踊であり、またその際に働くキーワードは、単なるテクニックのうまい下手ではなく、その“創作性”にあることだけは確かだ。

そこで第50回目を数える東京新聞主催の、この推薦名流舞踊大会である。ただしそのコンテンツは、この種の舞台にみられる恒例のプログラム;清元あり、長唄あり、それに義太夫、荻江節がほとんどで、それら19の演目を、昼の部、夜の部を通して各流派から推薦された新進・実力者が次々に演じて披露する。しかし筆者の目に留まったのは、その中にあえて“創作”と肩書きされた1本の作品があり、それは三味線・鼓など定形の床台演奏を用いず、ひたすら録音テープを使って、大勢の群舞が踊る作品とある。そこでこの一風変わった日本舞踊を、ぜひ両の目で確かめたいと思ったのが、今回こちらへ足を向けた第一の動機だった。

演目は題して「祭唄」。振付・演出は、すべて旭流の家元である旭七彦の手による。まず使用するサウンドは、全国各地のお囃子や祭りの歓声、鐘や太鼓に声明も加え、三社祭の掛け声、風の盆唄の三味線、果ては沖縄のエイサーなどを自在に収録・編集、これに男性だけの10名の踊り手を配して動かす。自らも参加する揃いの羽織袴の全員が、白足袋のすり足で前後左右に入れ替わり、互いにかみあう形で構成してある。それが生みだす動と静止のリズムは、まことに歯切れよく、締めのポーズに至るまで実にダイナミックだ。そして見終わっての感想は、この作品の魅力はそのフォーメーションの巧みさと新鮮さにあることを強く感じた。日本舞踊にもこんなハイテンポでノンストップの美しい動き、空間の彫刻造形が可能だと言う、そのベストのサンプルを見せつけられた思いが頻りだった。

しかしながらその新しさにもかかわらず、これはやはり現代舞踊とは呼べないのである。なぜかというと用いられている四肢の動きは、やはりみな日本舞踊で決められた型へと還元した動きで組み立てられており、残念ながらその埒外へは一歩も出てはいないからである。日本舞踊だから当たり前だと言うかもしれないが、ちょうど古典バレエのパとポジションと同じように、決められた形の美しさで纏めた舞踊はやはり古典である。思想や哲学といった、身体を通した内面の表出とは無縁のままどこまでも進行する。

元来伝統は美しいものだ。それは長い歳月と訓練の結果、ようやく安定し定着した約束ごとだからである。ちゃんと踊りさえすれば、誰の目にも心地よく楽しい。それが証拠に、この日「祭唄」以外の伝統方式に依った舞踊は、技術の上手下手の差異は別として、すべて楽しく安心して観られた。そしてあらためて思ったのは、この国が生んだ日本舞踊の魅力は、とりわけ見た目の美しさとしての形にあり、同時にまたそれらの所作の基本は、言葉への当てぶりとしての、その文学性にあることを、あらためて知らされた思いだった。

しかしその点過去1世紀の間に海外からやってきた洋舞の発想、とりわけ古典の様式に背くことから出発した現代舞背踊のターゲットは、もはやそこから遠く離れた、ある意味では別種の身体芸術へシフトしていると考えた方がむしろ自然ではないのか。そしてそこで常に問い続けられる命題は、きっと“思想という名の身体”、あるいは“身体という名の思想”に違いない、と筆者はそんなことを考えながら、すでに暮れなずむ国立劇場を後にしたのだった。(9月23日所見)

日下四郎
日下四郎(Shiro Kusaka)
芸術文化論・ダンス批評・演出
 
本名:鵜飼宏明 京都市出身。
東京大学ドイツ文学科卒業後、東京放送(現TBS)へ入社、ラジオ・テレビのプロデューサーとして数々の番組を送り出す。1979報道制作部長職を経て退社、 故・三輝容子とダンス・シアター・キュービックを設立、13年間にわたりトータル・アッピール展の創作(台本・演出)にかかわる。90年代は淑徳短期大学、日本女子体育大学大学院にあって非常勤講師、主にドイツ表現主義芸術を論じた。現在はフリー・ランス。著書:「モダン・ダンス出航」「太陽と砂との対話」「竹久夢二」「現代舞踊がみえてくる」「東京大学学生演劇75年史」「ダンスの窓から」「ルドルフ・ラバン」(翻訳)など。他に、ビデオシリーズ「日本現代舞踊の流れ」(全6巻)の完成があり、その全テキスト・演出を担当した。