D×D

舞台撮影・映像制作を手がける株式会社ビデオが運営するダンス専門サイト

 

ニュース・コラム

舞踊評論家・日下四郎氏の連載コラム「ダンスレビュー」

90

10月の公演より

日下 四郎 2014年10月31日

【日本ジャズダンス芸術協会30周年記念公演「so all that Jazz」at新国立劇場(中)】

数ある芸術ダンスのジャンルにあって、いま名実ともにもっともやる気を見せているのがこの協会かも知れない。そもそものスタートは、今から30年前の1984年で、散在するいくつかのジャズダンス・グループが集まり、1か所でそれぞれ思いのショー・ダンスを披露する任意公演のひとつだったが、1992年に芝メルパルクへ進出したのを機に、あらためて日本ジャズダンス芸術協会としてレベルアップ、以後ひと味違うオリジナルなフェスティバルとしての年次公演を重ねた結果、2008年にはついに、「義経」「Jazz on Stage」の2部構成になる、初の文化庁芸術祭参加公演を立ち上げるまでに至った。

こうなると勢いは止まらない。さらにその3年後の2011年には、組織の上でも念願の一般社団法人としての資格を獲得、それを記念してやはりこの劇場の中ホールを借り切って、特別公演「Legend of Jazz」(2部構成:ジャズダンスのルーツから今)を発表、そしてその趨勢がそのまま、今回の30周年記念公演「so all that Jazz」へとつながっているという感じである。

出し物は1部が創作ジャズ・ダンスの「魁‐sakigake」、2部は協会メンバーであるグループが作ったそれぞれの作品を、オムニバス風に繋いで、多角的なジャズダンスの魅力を、1本につないで魅せようという総力リレー編。近年この協会が記念公演でとるいつものスタイルだ。それをマティネとソワレの2ステージで見せた。

さて前者は各パートが「獅子吼」、「懸思」、「花~華」と名付けた3章で構成されており、振付・演出・構成は現会長の任にもあるベテランの宮崎渥巳。ジャズ作品とはいいながら、出演者の多くは和装、そして今回は津軽三味線(高橋孝)を生演奏で加えるなど、全体を勇壮・華麗な日本的空間としてまとめた。その心は「日本の魂をジャズダンスで舞い描く」とプログラム・ノートにもあり、これは明らかに作者がここ数年手掛けて来た2本の作品、「YOSHITSUNE」(2006)や「義経」(2008)の延長線上に位置する、勝負を覚悟したトータル編と見た。

事実、幕が上がって展開する舞台進行の手際は見事なもので、タッパのある中ホールの広い空間も、ダンス作品にありがちな余剰のスペースを全く感じさせず、セットの上下移動や照明による富士山の描出、あるいはラベルのボレロに当てて、オリジナルなダンサーの動きを解発してみせるなど、演出力の発揮も充分で、そこはそれ底辺にショーダンスのエスプリを秘めるジャズダンス界のセンスがモノを言って、約40分の作品を最後まで飽かずに見せた。

思うにこのジャズダンスというジャンルの発祥は、19世紀にアメリカ合衆国においてアフロアメリカンがジャズ音楽を用いて踊った事績に由来するのだが、よくみるとテクニックとしてはむしろバレエ技法が中心で、近年そこへストリート・ダンスやヒップ・ホップが加味されて行われるダンスショーだと解釈してほぼ間違いない。したがってそこへ日本舞踊の型を加えるなど、考えようによってはきわめて陽性で観客へのサービスを忘れない、わかりやすい現代舞踊のひとつとして位置付けても、あながち牽強付会のこじつけとは言えないのである。

そして現代との接点だが、例えば第2部で柳昭子ジャズダンスシティのメンバーが、スパンコールの光る揃いの原色衣装とハット姿で、ひたすら威勢よくラインダンスを踊る光景などを見ていると、ひたすら無条件な平和の到来を謳歌した戦争直後の空気がよみがえり、その反時代的なインパクトが逆に戦争前夜を危惧させる今の日本を想起させる、強い時代色となって不思議な効果を与えたりもした。それもこれもいい意味でジャズダンスが並み居る観客の心に、なにかと溶け込み語りかける大衆性を常に堅持していればこそであり、この1点だけでもこの国における他の芸術ダンスにとって、何かと示唆のすくなくないこの協会の芸術祭参加公演ではなかっただろうか。(18日マティネ所見)

***************************************

A:(指を折りながら呟いている)「日本舞踊、バレエ、現代舞踊、フラメンコ、舞踏、コンテンポラリ、児童舞踊、ジャズダンス…」

B:「何を数えているの、真剣な顔つきをして」

A:「日本で芸術ダンスとよばれている踊りの呼び方よ。外国じゃこんな分類はありえないでしょ。どうして古典と現代の2つに割り切れないのかしら」

B:「この国の文化が古くから続き、おまけに感性がすぐれているからじゃないの。自慢にしていい点だと思うわ」

A:「ちょっと待って。それはグループ指向でタテつながり社会の落し物でもある。本質的な見方や分類が苦手なのよ」

B:「あるいはね。テクニックからみれば、例えば現代舞踊なんか、バレエから日本舞踊、舞踏、ヒップホップ、なんだって取り入れて作り上げている」

A:「なるほど。古典の型やルールさえ外せば、子供が踊ればそのまま児童舞踊ですものね。今日の創作ジャズの舞台だって、サウンドのリズム処理の一部を除けば、all that danceと呼んでも、少しも不思議ではない野心作だったといえるわ」

***************************************



【菊地純子with UNIT公演「~する女、される男~」18-9日at青山スパイラルホール】

JUNKO KIKUCHI with UNITの誕生は、今世紀に入ってから2005年の出来事である。だがそれを溯ること30有余年、70年代初頭にデビューした菊地純子といえば、当時その新鮮さには容易に他の接近を許さないものがあった。早々に全日本芸術舞踊協会〈現・CDAJ〉の新人賞を手に入れ、平行して新聞社の選定する年間ベスト10にも選ばれた。さらに2年後の72年には、バレエの大原永子らと並んで、その年の舞踊批評家協会賞の対象に選ばれる実力の持ち主となった。

彼女が踊り始めたのは健康上の理由からだったとか。そこで6歳の時から小澤恂子、次いで可西希代子にも手ほどきを受けたが、なんと言ってもデビュー時前後にもっとも強い影響を与えた実質上の師は、あのポストモダンの厚木凡人である。したがって彼女のいくぶん急激で幸運ともいえるこの世界へのスタートは、多少とも当時斯界で注目を浴びるに至ったこの新しいダンス界のトレンドと無関係では語れない。

そして75年の暮れには、当の厚木凡人らの尽力で、T.ブラウン、S.フォルティ、D.ゴードンなど、アメリカ現地のポストモダンの代表選手一行が来日、西武劇場で初めてその作品の実際を披露する。これに強い刺激を受けた菊地は、翌年あわただしく単身でアメリカへと渡り、本拠地での本格的修業を目指し、以来ほぼ20年近くの年月を、R.ジョフリー、A.ニコライ、M.カニングハムらの許にあって、ひたすら新潮流の体得に身をゆだねる。またその間80年代の前半には、間隙を縫って一時帰国、アメリカのモリッサ・フェンレイや日本の江原朋子らと共にポストモダンの実作を披露して大きな話題を呼んだ。

だがあらゆるトレンドには終わりがある。90年代後半になると、ニューヨークのジャドソン教会に生まれたこの非ダンスの趨勢も、ようやく現地では下火になるのだが、たまたまその頃になってアメリカ滞在を終えて帰国した菊地に、日本のダンス界がこぞって求めたものは、この代表選手の体得したに違いないポストモダンダンスの成熟したサンプルであり完璧のイメージではなかったか。

しかし考えてみるとそれは土台無理な注文である。なぜならポストモダンは本来の発生が、技巧に走るモダンダンスに対しての反措定であり、この思想の真髄は「ただ歩いて走ることが許されるだけ。もし踊ったら約束違反になる」(トワイラ・サープ)と言われたほどの、日常と自然の動きを最優先する身体の運動だったからだ。

かくして2001年に入った新国立劇場は、モリッサ・ヘンリーと菊地純子の2人を正面に据え、その“ダンスプラネット・シリーズ”のプログラムとして、ポストモダンの華麗なハイライトを企画する(9月28-30日)。だがもはやその舞台からは、企画サイドが予期したほどの感銘や熱狂は生まれなかった。当初から反技巧を一義とするこの身体運動に、ダンス自体の醍醐味を期待することは筋違いである上、そもそも日本には、かれらが挑戦のターゲットとする “完成しすぎた芸術ダンス”など、いっこうに見当たらなかったからである。思想だけで観客を喜ばせることはできない。かといってすでに中年を過ぎたダンサーの肌から、そこはかとないエロスの香りが滲み出ることもまた。

だがこれはある意味で、日本の生んだポストモダンの旗手だった菊地純子の新たなスタート地点にもなったようだ。その成果の実例を、たまたま私は2010年の、菊地純子with UNITによる作品「Bench」で見せつけられることになる。それは舞台前面のプロセニアムに沿って置かれたベンチに腰かける、一人ぽっちの人物の後ろ姿にはじまり、やがてその前を様々な男女の群れが、ホリゾントに沿って何回かにわたって通過する。ただそれだけの構成だ。ところが1時間に近い時間をかけたその繰り返しの中に、いささか怖ろしいような人生の真顔が浮かび上がってきたのである。ここでははナチュラル・ムーヴメントの反復を身上とするポストモダンの鉄則が、たくみに転用されて作品の思想に反映するという一石二鳥の効果が生まれていたのだ。

今回の「~する女、される男~」も、その構想は基本的に「BENCH」と同じパターンで作られていたようだ。ホリゾント前に吊るされたカーテンをバックに、薄暗い空間の中に女のソロ、デュオ、そしてジェンダーを意識した男女別のグループが、主としてピアノやマリンバの単体楽器の伴奏で、筋書きもなくアトランダムに次々に登場する。照明もまたそれらをスポット・ベースでこまめに追い、時にはカーテン奥にシルエットを挿入しながら、何回かのブラックアウトで区切って見せていく構成だ。

したがってただ黙って観ていると、少なくとも進行の前半までは、何という事もない身体表現の羅列にすぎないように一見思われる。ただユニットのメンバーは、妻木律子、ハンダイズミ、山形順子、開桂子など、男性では松本大樹、池野拓哉、Tsubasaと、いわば錚々たる斯界の中堅実力者で占められている。振付こそシンプルで群舞はユニゾンと、あまり細かい技巧は見られないが、そこがまたなんともポストモダン風の残香をただよわせていて菊地ユニットらしく、しかし身体表現そのものの点では、みなしっかりとプロ級の実力を見せていて頼もしい。

ところがそれらマッスで捉えたような男vs女の二極風景の振付が、いつしか空間的、物理的レベル域を超えて、この地球プラネット全体をカバーする両ジェンダーの位置関係、実存・生物的であると同時に社会・宇宙的な視点でとらえた闘争図絵へと質的移行をたどって、もういちど新たなイメージとしてよみがえるのだ。そしてその瞬間、ポスト・ポストモダンの作家菊地純子が声なき声で高らかに叫びをあげる。“命令し仕掛けるのは常に女であり、所詮男は命令される側のジェンダーにすぎない”のだと。

ただ一つ注文を付けるなら、この作者の主張は今少し明快であっていい。見者のイメージに賭ける韜晦さを今少し脱して、多少の深みは犠牲になっても、わかりやすさで1人でも多くの観客を引きつける才知とサービスへの努力は、決してマイナスには作用しないと思われるのだが。JUNKO KIKUCHI with UNITの次回作を待ちたい。(19日所見)

日下四郎
日下四郎(Shiro Kusaka)
芸術文化論・ダンス批評・演出
 
本名:鵜飼宏明 京都市出身。
東京大学ドイツ文学科卒業後、東京放送(現TBS)へ入社、ラジオ・テレビのプロデューサーとして数々の番組を送り出す。1979報道制作部長職を経て退社、 故・三輝容子とダンス・シアター・キュービックを設立、13年間にわたりトータル・アッピール展の創作(台本・演出)にかかわる。90年代は淑徳短期大学、日本女子体育大学大学院にあって非常勤講師、主にドイツ表現主義芸術を論じた。現在はフリー・ランス。著書:「モダン・ダンス出航」「太陽と砂との対話」「竹久夢二」「現代舞踊がみえてくる」「東京大学学生演劇75年史」「ダンスの窓から」「ルドルフ・ラバン」(翻訳)など。他に、ビデオシリーズ「日本現代舞踊の流れ」(全6巻)の完成があり、その全テキスト・演出を担当した。