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ニュース・コラム

幕あいラウンジ バックナンバー

藤井 修治
Vol.82「ニッポンのバレエを見ました」
2003年7月4日

 このごろのテレビのコマーシャルで印象に残ったものの一つに、背の高い外国の女性が日本の旅館の美人女将になりきって大活躍していて、「日本人には、日本が足りない」という字幕が出てくるのがありました。つづいて「日本の国を知ることが国際交流の第一歩です」とかいう文句も出て来ました。何のコマーシャルかわからなかった!のですが、とにかくメッセージは伝わって来ました。
 この外国人女性は、実際にアメリカから留学して来て、日本の旅館の御曹司が好きになってしまい、ついに本物の女将さんになってしまったとか。彼女の立居振舞がバタくさい容姿に似合わずいかにも日本的で微笑ましく、おかげで旅館も大繁盛だとか。これは外国の人が日本旅館の女将をやっているという違和感がプラスに働いているわけでしょうか。違和感がマイナスにならないのは立派です。
 日本の国技である大相撲の世界では現在のところ横綱は二人とも外国人、そして外国人力士もずいぶんふえているようで、国技とはいえなくなってくる心配さえあります。野球やサッカーなどの国際的スポーツでは国際交流は当然のこととなっています。スポーツはとにかく強さが大切ですから文句はいえません。ところが文化面でも国際交流はめざましく、時に問題も生じる場面もあるのです。
 現在、新国立劇場のオペラ部門で摩擦が起きているようです。各部門を通じて初めての外国人芸術監督に予定されているオーストリアのノボラツスキー氏と日本側の偉い人々との意見の対立です。氏は日本のオペラの向上のためにはとにかくレベルの高い舞台を上演することが先決で、そのためには主役には海外からの超一流のスターを招いて、数回の公演を一人だけのシングルキャストで上演しようと主張しています。それに対し日本側の人々は従来どおり日本の優れた歌手をも登場させて、日本人のレベルアップを図り、日本のオペラ全体を向上させて行こうというものです。
 日本人の出番が少なくなると日本人歌手の育成にはつながらないし、外国のスターの一人だけの連続出場は負担が大きいのも心配です。日本のオペラ関係者、オペラファンの長年の陳情が実ってようやく劇場が建設されたので、この劇場が日本のオペラの唯一の殿堂だといった思い入れもあります。
 そうこうするうちに結局はノボラツスキー氏が次期芸術監督になることになりそうで、氏の意思が反映されることになるでしょう。どちらの意思も日本のオペラのレベルアップと聴衆サービスを考えてのことでしょう。しかし正直のところ、外来の華やかなスターの周囲を、小柄な日本の歌手がとり囲んでいるのばかりではちょっと淋しい気もします。
 いっぽう、新国立劇場の舞踊部門では、開場以来、大規模なバレエでは外来のスターと日本のスターが交代で出演する場合が多いのです。日本の踊り手も外国勢に負けない実力を身につけており、観客も自分の見たい人が主役を踊る日を選んで劇場に向かうようで、こういうことについての問題は少ないようです。
 新国立劇場のバレエ公演、先日は「ラ・シルフィード」と「パキータ」が上演されましたが、全5回の上演で内外の実力者たちが交代しています。僕は初日の6月27日に見に行く予定だったのですが、急に他の公演に行くことになりました。おおかたのバレエファンや批評家のかたがたは新国立劇場に行かれたようで、僕もここの優れたダンサーやゲスト陣が踊る華やかで美しい舞台を見たかったのですが、結局は北トピアさくらホールでの小林恭バレエ団の公演を見に行ったのです。ところがこの舞台が面白くてすっかり楽しんだうえに感動もしてしまいました。
 今回の公演は日本を舞台にした小林恭の作品が並んでいました。プログラムの表紙に「こんな日本・あった・あった・あったよね!! 泣いて・笑って・考えて!! 小林恭が贈る・詩情あふれる日本調バレエ!!」などと書いてあり、5つの演目の題名も並んでいます。いかにも小林流で愉快です。表紙を開くとまずは小林恭さんのごあいさつと「思いつくまま」といいながらも思いを込めた文章です。
 読んで見ますと、彼は日本人として日本人の役柄で舞台に立ちたいと書き始めています。彼は若い時から日本人の役で舞台に出たことが稀だったそうで、日本人の役は彼が独立して自作自演するようになって踊ったとのことです。今の彼の心境をいい当てているのは「和魂洋才」という言葉だそうです。バレエは外来文化の一つで、内容や技法は外国のものです。ですから、日本人が踊るバレエは、日本人の容姿で西洋人として登場しなければなりません。スポーツは成績がよければよい。音楽でも歌唱や演奏が上手ならばけっこう。しかしバレエは視覚的なものだから問題が起こります。ロミオとジュリエットの一方が外国人で一方が日本人であっても国際恋愛の悲劇にとられてしまいそうですし、2人の両親がいかにも日本人的だったらこれも変でしょう。
 ところが、黒沢明監督が映画でシェークスピア劇の舞台を日本に置きかえれば、こういった違和感はなくなりましょう。ところがバレエでは日本人が西洋人として出演している限り無理がでてきます。いつも何かがずれている。小林恭さんはこんないらだちがあって、日本の作品を創って日本人として出演したいと思いつづけていたとのことです。そして彼はもう30年以上も前に独立してから、少しずつ自分の考えを実現させています。そして今回の舞台ではそれが実を結んでいるように感じられたのです。
 今回の公演の5演目はいずれも古い日本に題材をとって公演全体に統一感をもたらしています。まずは「開幕所作舞い」として藍色の共通の衣裳の人々が揃っての祈りを込めて踊る様式的なオープニングです。つづく「茶っ切り節」は日本人には耳なれた「チャッキリぶし」に乗って、富士山が見える駿河の国(静岡県)での茶摘み娘とその恋人の若者の踊りを中心に、お稲荷(イナリ)さんの狐や道ばたのお地蔵さんがお供えのおにぎりを食べたりするという微笑ましい一幕です。
 つづく「おかめ・ひょっとこ」は村祭りでの里神祭で上演されるおかめとひょっとこの役の男女と村人たちがからみます。ここでは若者たちが踊っている前を2人のおばあさんが行きつ戻りつするのですが、その一人がなんと小林恭さんでした!申し訳ありませんが違和感がなさすぎてとにかく愉快でした。こんどは村から町へ。「大工一代」は大工さん夫妻の愛情あふれるやりとりや町の人たちの様子を面白おかしく描きます。この二作は主役のグラン・パ・ド・ドゥの合間に群舞が狭まるという古典的形式にのっとっていますが、随所に日本的な手振りが加えられていて、様式美と現実味がうまくブレンドされているので楽しい見ものになっていました。例えば大工さんのソロではカンナをひいたり、釘を打つ時に指をたたいてしまい痛がる様子などがあり、女房のソロでは風呂屋さんからの帰り道で、風呂桶に手ぬぐいを使っての色っぽい振りが付いているなど、具象性を前面に押し出して形式化を避けていたのが巧妙でした。
 最後は「銭無し平次捕物控」です。年長者にはおなじみの野村胡堂の名作捕物小説「銭形平次捕物控」をもじっての楽しい作品です。人情味溢れる目明かしの平次を中心に、恋女房と子分の八五郎も大活躍。3人の子どものために団子を盗んだ未亡人を罰しないでのさばけた裁定。そして神田明神のお祭りでの賑やかなディヴェルティスマンなど、見事な場面展開です。そして恭さんは盲目の座頭で実は目がちゃんと見える盗賊の首領という悪役で貫禄を見せますが、その首領も実は武士にあやつられているのです。この面白おかしいバレエは社会派のバレエとして不条理の世の中を告発していたのです。これは現代の世界にもつながっていると考えさせてくれます。
 以上5つのバレエは日本の庶民の役を日本人が演じているので異和感は全くありません。コマーシャルの話は違和感の面白さですが、日本中の温泉旅館で外国人の女将が多くなったらもう面白くはないでしょう。
 小林恭バレエ団公演は、日本人ダンサーが日本人の役で踊るということで、ごく自然に舞台を楽しむことができたのです。客席からの笑い声も舞台を素直に楽しんでいることを実証していました。しかしこの手の和風作品はパレエ公演では本当に珍しいのです。こんなバレエがもっと生まれたら日本のバレエも楽しくなるかとも思います。もしかして新国立劇場でもとりあげられたどうでしょう。でもこういう舞台はやはりハングリーな境遇にあったほうが共感が大きいような気もします。外来芸術であるバレエで、外国に舞台を求めず、日本を題材にした和魂洋才のバレエが今後どのように発展できるのか。日本のバレエの将来についてちょっと複雑な気持ちで見守るつもりです。




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