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幕あいラウンジ バックナンバー

 
第1回 2005年5月23日
 
 

「良い先生 楽しい先生 変な先生
   悪い先生 困った先生  その他」


たいていの先生は、このどれかにあてはまりますね。
いろいろミックスの場合もー

今回は我が師「小牧正英先生」のことをお話ししましょう。
小牧先生は、これ等ミックスの上に、更にプラスアルファー「ワカランチン」がつきます。

私たちバレエ団員は、レッスンやリハーサルが終わると、みんなで「菊水」というあまいもの屋になだれ込み、氷いちごやあんみつを食べながら、二時間位先生の悪口を云いました。
「本当に無理が通れば道理が引っ込むんだからー」
「ねぇおじさん、四角いお盆で氷持ってこないでよ。先生を思い出しちゃうじゃない!!」
「丸いお盆にのせて来てよ!!」
等々、ワイワイガヤガヤ・・・
あきずに毎日やりました。
(小牧先生の顔は四角形なので、私たちは影で小牧先生の事を「真四角サン」と呼んでいました。)
   
私が入門した頃、けいこ場は銀座の交旬社ビルの中にありました。
学生のためのクラスは、女学生クラスABCとあって、まずCに入ってだんだん上って行きます。
その頃、Cの受持ちは岸清子さん、Bが笹本公江さん、Aが関直人さんでした。
私はCに入り、レッスンの後は銀ブラをし、あんみつをたべて帰るーと云う気楽な生徒でした。
けいこ場が洗足会館に引っ越すことになりました。
私を小牧バレエに引っ張って行った学校の同級生のミタニはやめてしまいましたが、私はなんとなくついて行きました。
Bクラスでは、やさしい笹本公江さんに可愛がってもらい、やがてAクラスに進級。受持ちの関直人さんは、私たちより二、三才年上の若い先生。しなやかで、バネがあって、すばらしいダンサー。全員のあこがれのプリンスでした。

17才位だったと思いますが、女学生Aクラスを卒業。バレエ団員にして頂きました。
小牧先生が事務所の机の前に座っていらっしゃると、大きく息もすえない感じでおそれていた私でしたが、舞台や旅でごいっしょする様になり、「息がすえない」なんて云ってられなくなりました。
昔の旅は、鈍行列車の三等で二晩車中ですごして北海道ーとかが普通なので、今の方たちには想像もつかないでしょうね。
もちろん、身体をのばして、大の字になって寝たい、とか思いはしましたが、若かったからそんなにつらくありませんでした。
   
  えらい先輩たちは、小牧先生にとなりに座られたくないので、みんなできっちり詰めて座ってしまいます。
と云うわけで、先生は入りたてでボーッとしている私たちぺーぺーのところに来て座ってしまいます。
でもこのとき、先生の思い出ばなしや、いろんなこと、いっぱいきいたりしました。又、私たちの質問にもちゃんと答えて下さいました。
私のひどい質問のひとつ
「先生はどうしてあんなにすてきな谷桃子先生を振ったんですか?」(この頃、先生は谷先生と別れ、太刀川さんが奥さまでした。)
当時、週刊誌などはありませんでしたが、月刊の婦人雑誌に、谷先生の手記がのったり、様々な記事がのりました。
記者たちが大げさに書きちらしていました。「小牧は悪魔の様な目で私を見た!!」なんて云うタイトルのインタビュー記事をおぼえています。
若くてパーだったから、先生にあんなひどい質問出来たんですね。
先生はびっくりされた様でしたが、ていねいに答えてくださいました。谷先生が、日常のことにうとい芸術家タイプであることをいくつかエピソードを話して説明してから「それは桃チャンは、原節子みたいな美人だしすてきな人だよ。だけどね、いっしょに暮らすの、大変だよー。僕、つかれちゃったのよー」
雑誌には「悪魔」って書いてあるのに、変な先生、と思いました。


後年、やはり先生は「僕の一番の弟子は桃チャン」と度々云っておられました。ただ、小牧先生は東北出身の情の濃い男性。愛が強いだけに、先生の心の中のコントロールがきかなくなったとき、シリメツレツな態度になって現れるのでしょうか。昔、有馬五郎さんが、その頃のことを話してくれましたが、小牧先生のコントロールがきかなくなって、ワカランチンになるご性質は、少年時代からなのでしょうか。
夜汽車の中できいたお話をここに。

家出ー僕はみんなにきらわれてて、鼻つまみの少年だったのよ。それでねただ一人の理解者だった叔母さんがお金くれたので家出したの。家出するとき、やさしい弟がただ一人見送ってくれたの。正英って云うんだよ。だから僕、彼の名前を芸名にしたのよ。
   
上海ー上海経由でパリに行って絵かきになろうと、日本を出たけど、そこでバレエみて、どうしてもやりたくなって、主役やってたオードリー・キング女史の所に行って、数日座り込んで弟子にしてもらったんだよ。
   
   上海ではね、すごいロシヤ人の美女のつばめやったこともあるよ。彼女はスパイでね、大金持ち。金ののべ棒、何本か持ってたよ。

小牧先生はその後、ハルピンのライシャム劇場で、スターとして踊っておられましたが、日本が戦争に負けたので、引き揚げ船でかえってこられました。
「白鳥の湖」と「眠りの森の美女」のピアノスコアをカバンにつめてー
そう云う生活で、なお複雑になった先生の性格は、私たち生徒でもつき合うの大変でした。
ましてや外部の人たちとの間に立って、オロオロしたものです。

夜汽車にゆられながら、先生のお話をきいていた私たち。トンネルに入るたびに、すすが車内に入り込んできます。先生も私たちもだんだん顔がすすで黒ずんでー

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