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ニュース・コラム

舞踊評論家・うわらまこと氏の連載コラム「幕あいラウンジ」

幕あいラウンジ・うわらまこと

2004.10 / 20
「本当の作品の価値を理解する

ーH・アール・カオス公演に思うー」


 先日、世田谷パブリックシアターでH・アール・カオス公演『白夜』を見てきました。H・アール・カオス、Hはヘヴン(天上、天界の陶酔)、アール=アート(芸術)、カオス(ケイオス=混沌、ただし単なる混乱ではなく、秩序を予感させるもの)。ご存じのとおり、わが国だけでなく海外でも高い評価を受けているダンスカンパニーです。
 ここでは公演評でなく、例によって独断と偏見で話しを広げていこうと思います。
 このカンパニーは大島早紀子さんの演出・振付、白河直子さんのダンスを柱とした作品に特徴があり、適宜他分野のアーティストを含めて出演者を選んでいます。メジャーデビューは1990(or 91)年、新宿スペースゼロでの『シニフェ シニファン 人魚姫』といって間違いないでしょう。それまでは都心周辺でこじんまりと活動していて、89年に先の2人でH・アール・カオスを設立、その第1回公演だったと思います。この公演は大変な衝撃とスキャンダルを巻き起こしました。スキャンダル(もちろん個人でなく芸術表現上の)をもってデビューする、これは非難されるべきでなく、むしろ勲章です。私はその時、このグループ(コンビ)は時代を創ると確信しました。偉そうなことをいうようですが、その年の注目すべきダンサーのアンケートにそう答えた記憶があります。今考えても、その後のこのカンパニーのもつ、哲学性、時代への洞察、そして照明、美術など舞台要素の統合、そして動きの基本要素がこの作品にすべて含まれていたような気がします。
 それから十数年、ほとんどの作品を見続けてきました。しばらくは公演場所にも苦労をしていたようですが、上演のたびに新しい観客は新鮮な衝撃を受け、ファンは改めてその世界にひたり、芸術的にも営業的にも成功を続けています。ここでいささか皮相的に説明しますと、芸術的とは受賞、営業的とは発表の場、それぞれが増えてきたということです。
 このような活動は、つねに独創的であり続けなければなりません。率直にいって、マンネリになったこともあります。(たとえば宙吊りへの過剰な依存、他分野の芸術家の安易な起用法)。それを直接大島さんにいったこともあります。しかし、彼女たちの偉いのは、基本的なアイデンティティのもとで、しかし斬新な発想、手法で作品を創造してピンチを乗り越え、新しい境地を開いてきたことです。その核となったのは新しい手法や道具の開発です。ソロ(1人2役)による『ロミオとジュリエット』のTVセット、バスタブが役に立つ『春の祭典』そして世田谷パブリックシアターの高いタッパーを駆使した『神々を創る機会』、さらにクッションの利いたベッドを使っての動きの多様性の追求、みなそうです。もちろんこれらの重要性は、目先の面白さ、目新しさにとどまらない、その使い方にあります。

 ここでひとつ、つまらないことを考えてみましょう。命題[H・アール・カオスはモダンか、コンテンポラリーか]。答え:ほんとにくだらん。どちらでもいいではないか、要は見て共感し、感動すれば。

 たしかに、モダンか、コンテか、ということにこだわることはあまり建設的ではありません。しかし、巷では、この2つを区分したがる人も少なくないのです。なぜか、そこにはモダン=古臭い、つまり見るに値しない、コンテ=新しい、すなわち価値ある、という思い込みがあるからです。そして、一般にモダンダンスとは、現代舞踊協会系の舞踊家、舞踊団を指すようです。つまり、定義があって分類するのでなく、舞踊家や舞踊団の活動を自分の好みで分ける、もっと率直にいうと自分に面白いのがコンテ、つまらないのがモダン、みたいな。現代舞踊系にも面白いものがたくさんありますよ、それはコンテになっちゃうわけ?
 この点については、このページで以前に独断と偏見で判断項目を十いくつか上げたことがありますが、ここでは次のような点からの分類もできると考えているということを述べておきましょう。ひとつは活動のシステムです。つまり、ひとつはお稽古場をもち、生徒を育てながら、それをベースとしておさらい会とともに公演活動を行っていく。これは日本舞踊などに共通する伝統的なシステム、もうひとつは創造や公演を主体としてダンサーを集めて活動する。前者の観客は出演者や生徒関係者が主体、後者はファンや他ジャンルのアーティスト・研究者などが中心になります。現実にはその中間というか、両方の要素をもっているところが多いわけですが、前者がモダン、後者がコンテで、H・アール・カオスは後者の性格が強いです。もう一つの分け方は、作品コンセプトです。モダン系は、哲学的な、あるいは象徴的な概念(またはストーリーが)あって、それをダンサーその他の要素を使って作品化、舞台化しようとする。したがって舞踊家はいくら個性が強くても作家にとっては手段であり、指定された役を果たす。それに対して、コンテでの舞踊家はきわめて日常的な状況のなかで本人そのものでありつづけ、何かの役(たとえばダンサーという役でさえ)演じない。こういっても分かりにくいかもしれませんが、例えば珍しいきのこ舞踊団やコンドルズを見れば理解できるでしょう。もちろん進行上の決まりはありますが、見るほうからするとステージにいるのは演じられた役でなく、それぞれ~ちゃん、~くん本人なのです。こう考えるとH・アール・カオスは前者、モダンダンスなんですね。しかし、ここはその思想(作品テーマ)を一旦抽象化し、舞台で演じるかたちに(作品化)するプロセスが極めて緻密で、手法が個性的、独創的なのです。見せ方に特徴があるといってもいいでしょう。
 H・アール・カオスというか、大島早紀子さんの作品の特徴の大きな一つに、そのテーマの時代性があります。これまでも、ブルセラ、遺伝子、クローンなど今日的な問題をあつかってきました。今回の『白夜』では、情報過多社会、監視社会に対する危機感というか、問題提起です。彼女は心理的に圧迫を感じるような狭く冷たいスペースを設定、そこで人間(白河さん)が、映像での文字や数字、携帯電話、そして監視カメラなどの強制、襲撃を受けます。読んでいる書物も取り上げられます。彼女の書物へのこだわりは前にもありましたね。その襲撃者が3人の女性ダンサー。もちろん吊されたワイヤープレイはあるのですが、ワイヤーの先にライトが付いていてそれにしがみついたり、ワイヤーを感じさせないように工夫したりと、初期の見せ場としての使い方から、今回に限らず次第に作品の意味に合わせて利用するようになってきています。激しい動きもありますが、抽象化された概念実現だけでなく、具体的なドラマの一場面を思わせるような部分もあって、肉体と概念をあわせて表象する卓越した表現者である白河さんを中心とした、このカンパニーの将来像を垣間見せるものでした。
 最後の降り積もる白粉、白あるいは赤の粉片も彼女のキーオブジェです。客席は盛り上がり、ブラボーもスタンディングもありました。大変結構なことです。ただ、率直にいって、彼女たちのもつ危機感、問題意識を本当に理解し、賛同しての喝采でしょうか。もしかしたら末端神経を刺激されただけの反応に終わっている人はいませんか。独断ですが、乗り物の中で、また劇場でも客電が落ちてもぎりぎりまで携帯メールをやっているような連中には評価してもらいたくありません。大丈夫でしょうね。大島さんはどう思っているのかな。