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幕あいラウンジ バックナンバー

  2003.9/24
「忘れ去られて行く昔のバレエ」

 私は1930年に産まれ、1948年バレエの躍手になった。バレエの世界に入るきっかけは1946年8月旧帝国劇場で上演された「白鳥の湖」全幕初演を観た事にある。第二次世界大戦の終わった後の東京は、現代の若者たちには想像も出来ぬ焼け野原であった。大変申し訳ないが10年前の神戸の大震災の街まちを思い出し、尚その1000倍の広さを思い描いて頂ければ少し似た映像が見えて来る筈である。その廃墟の中で奇跡的に焼け残った旧帝国劇場は、まさにヨーロッパの国立劇場と同じ広々とした前庭を持った立派なバルコンの客席を持つ堂々たる劇場であった。バレエと云うものを知らずただ舞台芸術との出会いの為、神奈川県の藤沢から満員の汽車(勿論当時は東海道線もまだ蒸気機関車が走っていた)に乗り(ぶらさがり)ようやく着いた有楽町の帝国劇場にたどりつき、初めて入った ー豪華な西洋式劇場(歌舞伎座には戦火が迫る前、最後歌舞伎公演“石橋”を観に行った事があった) ーオーケストラの生演奏(生のオーケストラについては、戦時中母校玉川学園から日比谷公会堂でのベートーヴェンの第九をロウゼンシュトック指揮の日本交響楽団の演奏会にコーラスの一員として参加した事はあった) ーそして美しい照明の中を踊る夢のような白鳥姫たち。外の無残な世界と対照的な劇場内の美に唖然となり、冷房など皆無な暑い舞台で文字通り情熱的に舞う踊手たちの手先からしたたる汗の滴、私はただひたすら感激の渦に引き込まれて行った。終演後外に出た私は「バレエの踊手になろう」と決意していた、この2時間で人生の曲がり角をまがってしまったのであった。そして同じ同志が居た、やはりこの「白鳥の湖」によって後に日本バレエ界の牽引者となられた関直人、故有馬五郎先輩達であった、ちなみに関先輩は東北の白河から2回も観に来られたとの事で「どうして田舎の白河で白鳥の事を知ったのか?」の私の質問に「新聞があるわな」と答えられたのを強く記憶して居る。
 この「白鳥の湖」は小牧正英先生(後の私の師匠)が上海バレエ・リュッスからの戦後引き上げ者として帰国、バレエ評論家又シャンソン評論家として著名な芦原英了先生が、同じ頃帰国された東勇作、島田廣、服部智恵子、貝谷八百子、松尾明美、藤田繁の諸先輩に語りかけ、東宝株式会社の後援を得「東京バレエ団」を創立し、小牧正英の演出・振付により上演された事は有名な話である。小牧正英のバレエの原点は満州国ハルピン(現在の中国長春市)バレエリュッスからと伺って居る。後に上海バレエリュッスに移られ首席ダンサーに成られたときに体験されたものであったと推察する。これは後に続く「シェラザード」「コッペリア」「プリンス・イゴール」「ペトルューシュカ」との数多く作品発表にみる事ができる。「白鳥の湖」の配役は、オデット・オデール=貝谷八百子、松尾明美。王子ジーグフリード=東勇作、島田廣。悪魔ロットバルト=小牧正英。家庭教師ボルフガング=藤田繁であった。音楽に関しては小牧正英が上海から帰国のとき持ち帰った楽譜はピアノスコーアであった為、音楽指揮の山田一雄が新たにオーケストラ用楽譜を編曲されたそうであり、大変な御苦労であったと想えるがほとんど原曲のとうりで有ったと記憶している、演奏は東宝管弦楽団であった。又、舞台美術はパリの画壇で著名な藤田嗣治画伯との事で、後に冗談にこの原画が世に出たら大変な価値で(恐らく数億円)あろうと話しあった。
 1946年に上演された「白鳥の湖」は現在のスタイルと異なり第二幕の最初に王子の友人達が登場し白鳥を捜すところ。又、王子の友人 ベンノが二幕のグラン・アダージオにかなり王子のサポートを行っている。この例はかつてボリショイバレエ団よりもかなり早く東京公演を行ったNYシティバレエ団の演目にもあった「白鳥の湖第二幕」も小牧振付と同じ王子の友人達が多く登場した(この中に後のNYハーレムバレエ団創設者、若き日のアーサー・ミッチェルの姿を私は良く覚えている)。いずれにせよ最近はみる事が無くなったこの形式が、もしかしたらプチパ・イワーノフ版に近いのではと考えている。私の初舞台は1948年、大変嬉しい事に想い出も懐かしい旧帝国劇場と有楽座であった。この東京バレエ団の公演はジェニス振付「レ・シルフィード」貝谷八百子振付「サロメ」小牧正英振付「シェラザード」であった。これ以前は東勇作の「ショピニアーナ」が上演されていた(鎌倉市民会館で拝見した事がある)が、「レ・シルフィード」の題名で上演されたのは初めてであると思う、振付者のジェニスさんのフルネームの記憶がなくアメリカ人であった事のみで残念である。又、プリミエル・ランスールは多分東勇作であったと思うがこれもさだかではない。作品的にはミカエル・フォーキンの原振付と同じであったと記憶している。舞台美術・衣裳も定番通りであった。現在でもこの音楽を聞くと、はるか昔遊楽座の楽屋で支度をして居た頃の事を色々思い出す。貝谷八百子振付「サロメ」は音楽は日本人の作曲(名前がさだかでない)サロメ=貝谷八百子、首切り役人=中川鋭之介の一幕ものであり、貝谷八百子の野性的演技が印象に残っている。そして私の初舞台の作品小牧正英振付の「シェラザード」である。配役は主役のゾベイダ=服部智恵子、谷桃子。金の奴隷=島田廣、小牧正英。銀の奴隷=関直人、榎本誠、内田道生、他。銅の奴隷=鈴木武、他。そして最後尾に私はいた、小牧門下生になって3ヶ月目で有った。音楽リムスキー・コルサコフの「シェラザード」を使用、指揮は上田仁、演奏は東宝管弦楽団、原振付はミハイル・フォーキンであり、プロローグとエピローグに挟まれた一幕作品である。幕が開くと紗幕前に一人の老人(島田廣、小牧正英Wキャスト)と、年若い孫娘(尺田知路)がいる。老人は孫娘にアラビアンナイト(千一夜)の物語を話し始める。やがて紗幕を通して王(石黒達也=新劇の俳優)の宮殿の後宮(ハーレム)が見えて来る。王は宦官長(藤田繁)に男の奴隷達を閉じ込めてある扉の鍵を預け、沢山の女奴隷達を後に残し兵士達と狩りに出掛ける。やがて女奴隷のゾベイダは宦官長を金銀宝石で籠絡し男達の幽閉されて居る牢獄の扉を開け放つ。一番最初に金の奴隷、次に銀の奴隷、そして銅の奴隷と男達は次々と飛び出し踊り出し、女奴隷も加わり宴は昂ぶって行く。やがてゾベイダと金の奴隷の愛の絡み合いが最高潮に達した時、突然王が現れその場面を見怒り狂った王は、兵士達に全員の殺戮を命じる。男奴隷とゾベイダたち女奴隷は次々と殺されて行く・・・・・紗幕が静かに降りて登場した老人は嘆く孫娘に「これは千一夜物語の本の中のお話なのだ」と慰め、そしてこのバレエは終わる。
 この公演は私の初舞台のこともあり数々の想い出がある。今でも「レ・シルフィード」の音楽を聞くと急に当時の楽屋のざわめき、楽屋風呂の水のほとばしる音が甦る事があり、まだ食料事情が良くなかったがマチネーとソワレ公演の間の休憩時に楽屋で一杯10円の「素うどん」が販売され皆喜んで食した等思い出す。この頃は有楽座で1日2回を2週間、そして旧帝国劇場で同じ様な2週間の公演であったが、娯楽に飢えた人々により毎日が満席であり非常に恵まれた公演がこれからしばらく続いた、昭和20年代の頃である。
 
[この頃の公演の舞台に参加された方々もだんだんと年をとり当時の記憶は忘れ去られて行きます。当時のプログラムが無いので全て私の記憶に基づき記しました、文中諸先生方の敬称を省略させて頂きました、又人名等に間違いが有りましたらお詫び申し上げます]