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Interview
インタビュー

中村祥子 Garden vol.32

さわやかでオープンな性格、前向きな思考で世界的プリマの道を歩んできた中村祥子。
彼女の話は華やかな舞台と同じように私たちを惹きつける。

Interview,Text : 林 愛子 Aiko Hayashi

今、一番コンディションのいい時に日本の舞台で
――2013年、NHKバレエの饗宴で「黒鳥のパ・ド・ドゥ」を踊られたのを拝見しました。パートナーはご主人のヴィスラフ・デュデックさん。お二人の共演はなかなか見られないので観客の皆さんも喜んでいました。活動の拠点を日本に移されたのですね

1年になります。日本に帰る前にはハンガリーで多くの作品を踊らせていただきました。次の年を迎える時に、やっぱり今一番コンディションのいい時に日本に戻って、自分の舞台をお客様に見ていただきたいという思いがあったので。
子供のことも考えて、主人にも相談して決断しました。

ご主人はすぐに賛成なさったのですか?

その時はもう彼もダンサー生活にピリオドを打ったというか、もう自分は十分踊ったから祥子が一番踊りたいところに一緒にいくのは問題ないと言ってくれました。

これからダンサーとして一番脂ののった祥子さんの舞台が見られるのはほんとにうれしいことです。独特のスケールの大きさと繊細さの両方をお持ちで、その繊細さはやはり日本という土壌で培われたのではないでしょうか。

私自身、そのことに気づいたのは海外にいたからだと思います。アームス、首、目線、角度。ちょうどウィーン国立歌劇場バレエで「白鳥の湖」を踊る時でした。
まだプリンシパルでもないし、主役自体、踊るのも初めてで大きな壁にぶつかって。まわりがみんな海外の方というなかでの主役だったので、なんとか乗り越えたあとにいただいたのが皆さんからの言葉でした。「あんな繊細な白鳥を初めて見た」と。その時に、そうだ、日本人らしい繊細さを自分の踊りとして表現していくことができるんだと思いました。
芸術監督のレナート・ツァネラにチャンスをいただかなければ、そこにたどりつくことはできませんでした。今回、日本に帰ってきたことも今までいろんな出会いに恵まれてきたおかげです。

新たなものをつくり続けていきたい

やはり“白鳥”には特別の思いがありますか?

そうですね、自分の人生の積み重ねが生きてくる感じがしますね。初めて踊ったときは恋愛もしてないし、子供も生まれていないし、私は黒鳥のような経験をしたこともありませんでしたけど(笑)、人生での出来事や感じたことが重なり、これまでの経験がプラスになって表現に結びついたということはいえます。こういう自分もいるんだという新しい発見もあって、踊るたびにおもしろくなってきています。
バレエには終わりがないとよくいわれますが、常に満足することなく新たなものをつくり続けていって、それをお客様にも楽しんでいただければうれしいです。

財政的な問題もあって、ドイツなどでは全幕物の上演が減っていますね。

そうなんです。クラシックはなくなって欲しくないですね。クラシックを踊るとネオ・クラシックやモダンがわかる。また逆にモダンを踊ることによって、クラシックの理解が深まるということもできるし、ダンサーにとってはそういうクラシックとモダンの行き来をすることは必要だと思います。
私は小さい頃からずっとクラシックを踊ってきて、ネオ・クラシックやモダン作品との出会いがありませんでした。あとで出会って知ったことが沢山あります。クラシックに比べあまり決まりがないモダンでは自分から身体を動かし、自分で表現していかなければなりません。日本のダンサーもそういう機会が与えられることでもっと自分が踊れるということに気づいてもらえるんじゃないかと思います。
クラシックは決まりごとが多いので、日本人はどうしても教本のように踊るから、型にはまってしまっていて、もったいないなと感じることもあります。もちろんコール・ド・バレエはきちんとそろえて踊らなければいけないけれど、ダンサーには、もっと自由な世界もあるんだということに気づいてもらいたいなと思うことはありますね。

中村祥子

中村 祥子(SHOKO NAKAMURA)

佐賀県生まれ。6歳よりバレエを始める。1996年、ローザンヌ国際バレエ・コンクールでスカラーシップ賞/テレビ視聴者賞を受賞。同年より98年までシュツットガルト・ジョン・クランコ・バレエスクールに留学し、98年、シュツットガルト・バレエ団に入団。2000年、ウィーン国立歌劇場バレエ団に入団。同年、ルクセンブルク国際バレエ・コンクールで第1位を受賞。
2001年に準ソリスト、2002年ソリストに昇格。2003年、ヌレエフ版『白鳥の湖』で主役デビュー。2006年にはライト版『眠れる森の美女』でオーロラ姫を踊っている。2006年8月、ベルリン国立バレエ団に移籍。2007年、プリンシパルに昇格。2013年11月、ハンガリー国立バレエ団にプリンシパルとして移籍。2015年秋より日本に拠点を移して活動を開始。Kバレエ カンパニー ゲスト・プリンシパル。主なレパートリーはマラーホフ振付『眠れる森の美女』のオーロラ姫、『シンデレラ』のタイトルロール、『バヤデール』のニキヤ/ガムザッティー、バランシン振付『テーマとヴァリエーション』『セレナーデ』『チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ』『アポロ』『バレエ・インペリアル』『コンチェルト・バロッコ』『アレグロ・ブリランテ』、アシュトン振付『シルヴィア』、シャウフス振付『シルフィード』、ロビンス振付『牧神の午後』、ベジャール振付『これが死か』、フォーサイス振付『精密の不安定なスリル』『スリンガーランド・パ・ド・ドゥ』『ヘルマン・シュメルマン』、キリアン振付『Petit Mort』、プレルジョカージュ振付『白雪姫』、デュアト振付『ARCANGELO』、ツァネラ振付『Alles Walzer』『Beethoven OP.73』、『スパルタクス』、『ジゼル』のミルタ、『レ・シルフィード』、クランコ振付『オネーギン』のタチヤーナ、マクミラン振付『マノン』など。

Kバレエ カンパニーではこれまでに、熊川版『カルメン』のタイトルロール、『ロミオとジュリエット』のジュリエット、『白鳥の湖』のオデット/オディール、『海賊』のメドーラ/グルナーラ、『ドン・キホーテ』のキトリ/メルセデス、『くるみ割り人形』のマリー姫、バランシン振付『放蕩息子』のサイレーン、『シンフォニー・イン・C』第1楽章主演、プティ振付『若者と死』の運命の女、『カルメン』のタイトルロール、服部有吉振付『戦慄』を踊っている。
Kバレエ公式ホームページ:http://www.k-ballet.co.jp/company

 

(2016.10.14 update)

中村祥子 Garden vol.27

さわやかでオープンな性格、前向きな思考で世界的プリマの道を歩んできた中村祥子。
彼女の話は華やかな舞台と同じように私たちを惹きつける。

Interview,Text : 林 愛子 Aiko Hayashi

バレエの魅力を初めて感じた瞬間

共通の舞踊言語があるとはいえ、ドイツ語圏でコミュニケーションの苦労はありましたか?

まずシュツットガルトの学校時代はみんながしゃべれなかったんですよ、インターナショナルで。スペイン人、ロシア人、誰も通じない(笑)。それぞれが国の言葉しかしゃべれないからジェスチャーでお互いに伝え合って。逆にそれが良かったんですね。だからあまりとまどいもありませんでした。夢をふくらませて、向こうに行けばバレエだけをできると思って行きましたから。

バレエはご両親に勧められて始めたんですね。

両親が、女の子だから姿勢のいい子に育てば素敵だろうなと、という考えで、教室を探してきたのは父だったんです。それで姉妹で習いました。

よく聞かれると思いますが、バレエダンサーになろう、これでいきたいと思ったのはいつですか?

バレエの魅力を感じた瞬間というのはさいたまのコンクールでしたね。真っ赤な衣裳に真っ赤なバラをつけてパキータを踊らせていただいた。踊る前に稽古場で鏡を見た時になぜかそこには自分はいなくて、入り込んでしまっている自分がいて、これが私の道、ではないけれど、もうバレエの世界に一直線という感じで。踊るってなんて素敵だろう、と感じたんですね。

やはりバレエに選ばれた人なのだと、改めて感じます。

ほんとですか?昔は私自身は選ばれてない、と思っていました。教室では周りを見て、自分はバレエに向いていないのかなと思っていました。バレエダンサーの可能性がなければ、私からつかみに行く、選ばれにいくという気持ちでした。

早くから大きかったのですか

大きいほうではなかったんですけど、急に伸びたんですね。でも身長よりもバレエに向いた身体が欲しかったので、すごくコンプレックスを感じながら踊っていました。身体を大きく使おう、もっともっと広がるように、と意識し続けることによって、身体も変えてこれたのだと思います。

生活にリズムが生まれて

そのプロポーションは今や羨望の的です。私生活でもパートナーに恵まれて。

私の性格からすると文字通りバレエに夢中になってしまうので、彼のようにバレエを好きで知って理解してくれている人でなければ、ここまでやってこられなかったと思います。

バレエ漬けでも一日が終われば家庭がおありだから。

生活にリズムを作ることができますね。もちろん最初はどうなるのかなという不安はありました。子供を産むのは大変なことでもあるし。でもバレエダンサーだから子供をつくってはダメということはないし、バレエをやる前に女性であるから、生む機会を与えてもらえるし、子供ができたら自分自身も成長するんじゃないかなと。私自身もびっくりしているんですけど、実際成長させてもらっているし、子供がいることによって得たものも沢山あります。

お子さんはおいくつですか?

5歳になります。男の子でもうすぐ小学校です。今のところ、彼は私たちがバレエをやっていることは理解していて、仕事に行くときなどに「ママまたバレエ?」って言います(笑)。バレエにママをとられていると思っているかもしれないですね。

男の子はママが好きだから。(笑)息子さんにダンサーになってもらいたいと思いますか?

私たちはよく話しているんですけど、可能性があって本人がやりたいと言えばやらせてあげたいなと。私たちからしても、やっぱり大変な世界なので可能性がないと思えばほかの道も導いてあげたいし、何より本人がやりたいと思うことを今は伸ばしてあげたいですね。

バレエダンサーという仕事のむずかしさ

このお仕事の大変さとは何だと思いますか?

自分自身に意志の強さがどれだけあるかということではないでしょうか。ダンサーは日々レッスンしているわけですが、その1時間とか1時間15分をただレッスンするのか、あるいは身体のラインや表現についてどういう意識を持ってやっていくのか。それを積み重ねていくことによって1年後2年後、大きく差がひらいて変わっていくのではないか、そういうむずかしさがあるのではないかと思います。

舞台ではダンサー同士、コミュニケーションもとらなければならないので、これも大変でしょうね。

大変ですね。特にパ・ド・ドゥは、昔の自分が表現を外に出せない人間だったから、怒ってるの、笑ってるの、悲しいの?それが見えないとダンサーとしてもマイナスになるから、もっとふだんからそういう表現をしなさいと学校時代によく言われていました。

日本人は喜怒哀楽をあまり表に出さないから。

ふだんから礼儀を考えたり、思っているけど言わなかったりというところがありますが、海外の方はやっぱり全然違う。ワーッと身体全体で表現して外に出してワーッと去るみたいな(笑)。でもそれだからこそ、言葉なしでも見えてくる。私もそうなりたいなと思った時期がありました。いろんなバレエ団の方、プロのバレリーナの舞台を見ると、そこではポーズもしていないのにすべてがわかるんです。

これも有名ですが、学校からシュツットガルト・バレエに入って上り調子の時に怪我をなさって、ほんとうによく乗り越えられて、あとのご活躍がまた素晴らしい。

やっぱり母の力ですね。私は若かったし、あの時はあきらめかけていた。もうバレエはできないと。でも母は、やってみないとわからない、あとからあきらめればいいじゃないとずっと言っていた。それで歩いて冷やして、腫れて冷やして歩いてと、そういう日々を母と一緒に過ごしました。痛いと泣いたり悩んだりしているのをそばで見ながら支えてくれるのは、母にとってもつらかったと思います。回復してシュツットガルトに戻ったけれども、監督からはもう仕事はないと言われて。でもなんとかここまでやってくることができました。

dream

Q. 子供のころに思い描いていた夢
子供の頃に描いていた夢は、バレエダンサーになりたい!という風にはまだ思えていなかったと思います。
ただただバレエが上手になりたい…と。
若い頃は、バレエダンサーというものをきちんと理解していなかった部分もありますしどこまでいけば、バレエダンサーなのだと言えるのかもよく分かっていなかったような気がします。
そんな風に過ごしているうちに、いつの間にか自分自身がバレエダンサーと呼ばれるようになっていました(笑)。

Q.これからの夢
今は、とくにこれ!という夢を掲げられるか、といえばないに近いです。
自分の舞台を出来る限り素晴らしいものに仕上げて、たくさんの方に見ていただき喜んでいただきたい。
そして、プライベートの面でもみんなが充実できるよう、自分の力を尽くしたいと思っています。

photo location

思い出の品

協力:ディゾン (DIXANS)

東京都千代田区西神田2-7-11
TEL:03-6256-8417
http://www.dixans.jp/

(2016.10.14 update)

中村祥子 Garden vol.30

さわやかでオープンな性格、前向きな思考で世界的プリマの道を歩んできた中村祥子。
彼女の話は華やかな舞台と同じように私たちを惹きつける。

Interview,Text : 林 愛子 Aiko Hayashi

バレエを続けたおかげで広がった世界

踊り続けてよかったと思われることは何ですか?

一番大きいのは、自分を変えられたことでしょうか。海外ではツアーにも出て得難い経験もしました。バレエをやっていなかったらいろいろな方にお会いすることもできなかったし、一人の人間として精神的にも自分の世界を広げることもできなかったと思います。

さて日本には、Kバレエ カンパニーの舞台を楽しみにしている大勢のファンがいます。カンパニーの公演に出るようになったきっかけは?

青山劇場のローザンヌ・ガラに出たのを、熊川さんが見にいらして声をかけてくださった。Kバレエに初出演してから11年になります。

この秋には、熊川版「シンデレラ」と「ラ・バヤデール」の主役を踊られますね。

10月の26日が「シンデレラ」11月に「ラ・バヤデール」とつながっています。

熊川版は劇的展開がわかりやすく、人物造形も深くキャスティングも配慮されている。そのうえ「シンデレラ」はエンターテイメント性もあり、「ラ・バヤデール」も起伏に富んでいる。熊川さんはほんとに舞台をわかっていらっしゃる方ですね。

表現に関しての指導をいただくときも、ここを理解して考えてほしいという指摘にいつも納得します。
ご自身もロイヤル・バレエにいらして、ダンサーとして人としていろんなことを経験して吸収してらっしゃる方なので説得力があります。こちらとしても自分の表現を深めていけるので、言ってくださるほうが有難いですし必要なことです。もちろん自由に踊れる部分もありますが、私自身もさらに成長していきたいので感謝しています。

私たちは物語を展開させるために舞台に立っている

どちらの作品もマラーホフ版で踊っていらっしゃいますね。
今回も、現代トップのアーティストによる改訂版を踊られるのはとても興味深いです。

振付もいろんなバージョンによって、表現も変わってくるのでほんとにおもしろいです。
熊川版のシンデレラは今、振りをもらっているところなのでまだ深いところまではいっていないんですけど、映像で見させていただいただけでも、なんだか自分までがそのまま夢の世界に入っていきそうで、シンデレラというファンタジーが目の前に広がります。

ハッピー・エンディングのシンデレラ、「ラ・バヤデール」は悲劇の主人公ニキヤと違うタイプですね。

それぞれ取り組みがいがあります。相手役は「シンデレラ」が遅沢佑介君、名古屋では宮尾俊太郎君、「ラ・バヤデール」では遅沢君です。相手の方が出すものによって、こちらも返すものが違ってくる、すると雰囲気が違ってくる、舞台にはそういうおもしろさがあるから今から楽しみにしています。

カンパニーには早くから溶け込んでいらっしゃいますが、本番までもっていくのにどういうことを心がけていますか?

パートナーとして踊るにあたって、想いをすべて伝えます。やはり何も伝えないことには相手にわかってもらえない、だからリハ―サルでも私はこういうふうにやりたいということを言います。それが彼にとっていいか悪いかは話し合いながら、細かく重ねてつくっていきますね。祥子さんはうるさいって言われますけど(笑)。
そうやってお互いを理解してこそ、信頼感も生まれ、すべてを出せるのだと思います。
私が学んだことは、やっぱり舞台上のことは舞台上で起こせばいい、ただ真正面の平らな演技じゃなくて、全体の空間で踊ってみんなと演じ合う、するとそこで起こっていることが見えてくる。私たちはただきれいなポジションを見せるために舞台に立つのではなく、物語を展開させるために舞台に立っているのだということなんです。そのためにレッスンやリハーサルを重ねているのだと思います。

Tetsuya Kumakawa K-BALLET COMPANY
Autumn 2016「シンデレラ」

・主催
東 京:TBS/Bunkamura
名古屋:CBCテレビ/中日新聞社

・会場
Bunkamuraオーチャードホール/
愛知県芸術劇場大ホール

・日程
2016年10月26日(水)~11月9日(水)

 

Tetsuya Kumakawa K-BALLET COMPANY
Autumn 2016「ラ・バヤデール」

・主催:TBS/Bunkamura

・会場:東京文化会館大ホール

・日程:2016年11月18日(金)~11月20日(日)

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こだわりの品

これは中国のデザイナー、アナ・スイの指輪です。その頃、蝶々が好きで、気に入ったデザインなので日本で買いました。私が怪我して回復したあとに、初めてプロとしてギャランティをいただいた舞台に立ったんです。それは福岡の藤野先生の教室で、ゲストとして声をかけていただきました。
そのギャラで、今まで支えてくれた母と妹、そして自分に同じものをプレゼントしました。指輪を手にし、身に着けると、初心に戻れるというか、だからこそ今の自分がいるんだということを思い返すことができるんです。

 

林 愛子 (インタビュー、文)
舞踊評論家 横浜市出身。早稲田大学卒業後、コピーライター、プランナーとして各種広告制作に関わる。そのかたわら大好きな劇場通いをし、’80年代から新聞、雑誌、舞踊専門誌、音楽専門誌などにインタビュー、解説、批評などを寄稿している。
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