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Interview
インタビュー

平多実千子 Garden vol.33

平多正於舞踊研究所を率いている平多実千子氏は、持ち前の明るさとエネルギーでいつも人を惹きつける。
今年70周年を迎えた研究所の記念公演を控えた忙しさの中、語ってくれたエピソードの数々をご紹介する。

Interview,Text : 林 愛子 Aiko Hayashi

支部生になったとたんに知ったダンスの楽しさ

先生はどのようなお子さんだったんですか?

5人きょうだいの末っ子です。昭和30年生まれなので覚えていますが、昭和36年ごろから泥道が舗装化され、東京オリンピックに向かって景気も良くなっていった時代でした。私自身はものに執着がないというか、ものを欲しがらない子供で、何食べたいのと聞かれても、なんでもいいと答えるような子でした。

そういうお子さんがダンスを始められたきっかけは?

私が通っていた幼稚園の園児さんの中に、町田の支部に通っていた方があり、相模原でも教えてくれないかということになりました。平多宏之先生が指導員で、私は昭和36年の開所と同時に入所、自分から手をあげたのか母が勧めたのか覚えていませんが、やってみたらおもしろくてすぐに発表会に出させていただきました。それがコマドリ芸術学園の15周年記念の年。縁があったのでしょうか、毎週1回のお稽古が楽しくて10年間ぐらいはお休みしたこともなかったんですよ。

もちろん児童舞踊を習っていらしたんですね。

はい、スキップやツーステップ、ギャロップをやったり。当時、正於先生はビクターで児童舞踊のためにたくさん作詞していたんですね。東京新聞の現代舞踊展でも発表させていただいた「踊らにゃそんそん」のなかで“チュウちゃんのお洗濯”のネズミ役と、もう1つ「餅花かざろう」という曲を、6歳の時に踊らせていただきました。宏之先生は各地の指導で忙しく、教える時は1から100まで出来上がっていて、立つ位置まで決まっていました。発表会前にならないと帰ってきてくださらないので、重たいSP盤を録音してくださるところがあって、私たちはそのレコードで練習しました。

私も小学生の時に、そういう曲をとり入れた学芸会でダンスの指導を受けた覚えがあります。

やはり舞踊曲になっているので踊りやすかったということでしょうね。今年は研究所70周年記念と正於先生の生誕100年でもあるので、正於先生が作詞した曲と、今の曲を踊ってもらいました。正於先生の曲は、前奏、一番、間奏、二番といった具合でわかりやすく、テンポもとりやすい。子供たちが踊りやすいのです。正於先生は文学青年で原稿400字だったら下書きなしでピタッと終わるし、つくることがお好きだったのでしょう。私はそういう曲で育てていただきました。

子供たちを教えるには

研究所の60周年の時に、ご高齢の房子先生がたいへんお若くて指導者としてのお話にとても熱と説得力がありました。

平多正於先生も房子先生も小学校の先生で、正於先生は学芸会をよくなさっていて、もっと勉強したいとNHKの放送センターで語りなどのお勉強もされ、教育舞踊家の島田豊先生に出会い、創作を江口隆哉先生のもとで学んで本格的に創作の世界に入っていきました。房子先生は体育の先生。2人の出会いは学校です。正於先生のお母さんが房子先生を見初めて、体格もいいしあの子にしよう、と。それ で2人は結婚したそうです。

いつも感じますが舞踊家で指導者の先生方はいつまでもお若い。小さい子から大人までのお弟子さんと接しているからでしょう。でも教えるのはたいへんなことですね。

自分たちもそうやって育てていただいて、今は育てる立場になりました。三歳児ぐらいだと言葉がよくわからないところから始めますが、小学校2、3年生と一緒に踊る時、三歳に目が行くのです。もたついていますけど(笑)、初々しさというかその年にしかない素敵さがある。三歳で初舞台を踏んだ子が次の年にはもう違っている、ちゃんとやらなきゃというふうに。(笑)やはり小さいお子さんの場合は、この子たちでなきゃできない振りをこちらが探してあげる、5歳になればもう少しテクニックを入れて、7歳になれば足腰もしっかりしてきますし、さらにテクニックを加えれば活発な踊りになるというふうに年齢に応じたものができていく。そうすると子供たちも楽しんでできるのです。テクニックの向上と踊る楽しさは別のものなのです。

おっしゃるとおりですね、テクニックをものにした時の多少の達成感はあるかもしれませんが。

ピアノの発表会だったら間違ったらもとに戻って演奏することができますね、でも舞踊は音楽がかかっているからもとに戻ることができない、振りを飛ばしてでも次へ行かなきゃいけない。練習を一生懸命やってきたのにたとえば片足で立っていられない一瞬でくずれちゃう。こちらは祈るような気持です。なんとかがんばれえー(笑)。それがその子のトラウマになってしまわないようにと、指導の先生方は皆さん同じ気持じゃないでしょうか。

中村祥子

平多 実千子(MICHIKO HIRATA)

1983年/平多正於・房子の養女となる。
幼少より平多正於舞踊研究所に入所。
全国舞踊コンクール現代舞踊一部にて、第一位文部大臣奨励賞受賞。
1984年/文化庁在外芸術家研修員として一年間米国留学。
1987年第一回村松賞受賞。
1988年公演にて「鶴女」を発表、厚生省・中央児童福祉審議会特別推薦。
以降、都民フェスティバルに主演他舞台主演多数。
全国舞踊コンクール現代舞踊二部審査員を経て、現代舞踊ジュニア部審査員となる。
2002年、童心賞受賞。
現在に至る。

 

(2017.7.14 update)

平多実千子 Garden vol.33

平多正於舞踊研究所を率いている平多実千子氏は、持ち前の明るさとエネルギーでいつも人を惹きつける。
今年70周年を迎えた研究所の記念公演を控えた忙しさの中、語ってくれたエピソードの数々をご紹介する。

Interview,Text : 林 愛子 Aiko Hayashi

「泣いた赤鬼」と「アンクル・トム」に衝撃を受けて

先生はいつ頃から踊りで行こうと決められたのですか?

「泣いた赤鬼」の初演が昭和40年。4年生で初めて本格的な公演を見させてもらって、こんな世界があるんだと衝撃を受けました。興奮して家に帰って、場面を思い出して踊ってみたり。翌年が「アンクル・トム」。芸術祭の賞をいただいた正於先生の作品です。ラストシーンで、白人の男の子ジョージが上手でアラベスクをスーッとして、亡くなるトムのところに駆け寄るんです。その時、ほんとに悲しくて涙が出ました。それが忘れられなくて、いつか大きくなったら自分もああいう舞台に立ちたいと思ったんです。でも当時は乗り換えが多くて研究所まで2時間近くかかりまして。(笑)。やっと高校生になって研究生として入会できました。

最初に出演なさった公演は?

「竜の子太郎」です。当時、坂本信子さんがトップダンサーで太郎の母親役、長野美子さんが太郎役で、村人の大群舞があってその1人で踊りました。お稽古の時からもううれしくて、うれしくて憧れの人と同じ板で踊れるなんて、こんな時が来るのかと本番になったら一秒でも長く舞台にいたくて踊っていたことを思い出しますね。(笑)
私自身、お稽古は大好きな子供で稽古の虫でした。でも度胸がなくて気が小さくて、本舞台になるとドキドキして上がっちゃって全然思うように踊れない、ですからコンクールでもどうやって踊ったのか覚えてないぐらい。総稽古では振りをフッと忘れちゃって、二階へダダーッと上がってワッと泣いて、降りてきてまたやらせてください、と。先生方やコンクールに出ている皆さん、保護者の方がズラーッといらしてる前で緊張してしまって。そんなことが年中あって、ついには舞台の上で忘れちゃったりして。(笑)

平多先生ご夫妻はそういうひたむきな実千子先生をずっとごらんになっていらしたんですね。

なにしろお稽古は十二分というぐらいにやっておく。それでもいざというと舞いあがっちゃってなにしてるのかわからなくなって。もう震えるような感じで(笑)。今は審査員をさせて頂いて、踊っている子ども達の気持が読み取れる。大丈夫かなぁー(笑)、グラッとくるともう支えたくなっちゃう(笑)。

名作は何度見ても感動する

歴史と伝統ある平多正於舞踊研究所は、それだけ名作の数もあるので、それらを継承していくのは大変なことですね。

そうですね。台本の吉永淳一先生、美術の有賀二郎先生、音楽の山下毅雄先生、この3人の先生方と正於先生の気持が通じ合って作品がどんどん生まれました。有賀先生は初めの頃は子供の舞踊なんて関心がないということもあったらしいのですが、正於先生の舞踊に出会って変わったと文章にされています。1つの公演が終わるとすぐ来年はなにをやるかと会議を何度もしたそうです。先生の考えで台本もボツになったこともあったようですし、正於先生がやりたいとなった時にはスラスラと良いものができあがっていったみたいです。
それらを再演する時、古い作品とは決して思えません。たとえば童話でも「スーホの白い馬」は何度読んでも感動します。2年前に「泣いた赤鬼」をやりましたが、初演から何十年たっていても子供たちは目を輝かせて見ている、客席の方たちも喜んでくださる。それは台本、美術、音楽、衣装、振付、構成のすべてが良いからなんですね。子供たちも、昔、私が感じたように、初めて見てこんな世界があったのかという子がいると思うんですね、そういう子が本格的に舞踊をやっていく存在になったらうれしいですね。

名作の再演の意義はそういうところにもありますね。先生はおいくつの時に養女に迎えられたんですか?

研究所の指導員になり、踊り手としても中心的存在になりつつ、主演等を頂くようになった頃、1983年に正於先生が舞踊芸術賞をいただきました。養女になったのはその頃です。受賞の記念に「エーデルワイスのうた」を上演することになり、大抜擢いただいて踊らせていただきました。稽古では、吉永先生からはすごくしごかれて毎日のように泣いていました。

厳しい方だったそうですね。

感情をどう表すか、スカートの動きひとつについても、もうちょっとゆっくり回るとスカートがきれいになるでしょう?!そういうところまで注意されました。お相手役は天上人のような江川明先生で、男性舞踊手の方と踊るのは初めてでした。江川先生は、舞台空間と客席という空間があって、自分が表現したことは客席の一番後ろの壁まで飛んでいってポンと自分に跳ね返ってくる、そういう踊りをしなくちゃいけないんだよと、さりげなく教えてくださった。その時は渋谷公会堂でしたから2500人のキャパ、ただ舞台の上でやっていればいいのではないと。それが心に残って、自分だけの経験にしないで研究所の人たちにも伝えていきたいです。照明の大庭三郎先生も、絶対この位置に入らなければいけません、僕たちはそのつもりで作っているんだよと。舞台が総合芸術であることを学びました。

dream

Q. 子供のころに思い描いていた夢
平多正於作品「泣いた赤鬼」のような本格的舞台に出演してみたい。
大勢のお客様の中で踊ってみたい。
でした。

Q.これからの夢
まだ踊りと出会っていない多くの人に、踊りを味わってもらいたい。
そして踊りの素晴らしさをしってもらい大好きになってもらいたい。

(2017.7.14 update)

平多実千子 Garden vol.33

平多正於舞踊研究所を率いている平多実千子氏は、持ち前の明るさとエネルギーでいつも人を惹きつける。
今年70周年を迎えた研究所の記念公演を控えた忙しさの中、語ってくれたエピソードの数々をご紹介する。

Interview,Text : 林 愛子 Aiko Hayashi

「エーデルワイスのうた」での体験

つまり皆さん、師匠なんですね。

そうなんです、有賀二郎先生は愛情をこめて、舞台を贅沢なヤオヤにし、地がすりの美しい舞台空間は保存してあって、今回の70周年記念の公演でも使うことにしました。
実はあの時の「エーデルワイスのうた」の舞台では特別な経験がありました。オーケストラの生演奏、サウンド・オブ・ミュージックの音楽を小川寛興先生が舞踊曲にして下さいました。ドレミの歌のシーンで、私は踊っているのですがフッと踊っている自分が客席にいるのです。自分はどんどん踊っている、そして次の瞬間、客席が全部自分に集中しているのを感じたんです。今、思い出しても鳥肌が立ちます。なんともいえない経験で。

客席と舞台とが交信していたんですね。客席にいる自分とここで踊っている自分がいる、という。やっぱり劇場には魔力があるんですね。

ありますねぇ。身体は訓練しているからどんどん踊っている。その踊りが終わって、そのあと自分のソロがあるのです。お稽古場では、そこのイメージがどうしてもつかめなかった。ただ歩いてそこに行っている感じで。ところが本番では、拍手があり、子供たちを見送ってこの何歩でもない、時間にしたら何十秒の間にほんとうに幸せだっていう気持がわきあがり、ああこれだ、この気持だったんだということがわかってそのあとを続けて踊ることができました。私にとって「エーデルワイスのうた」は宝なんです。今、話をしていてよくわかりました。

忘れたくない、忘れないでほしい

その日の観客の皆さんは幸せな劇場体験をされたのですね。ところで、昨夏の現代舞踊展で発表された「あの日から」は詩情があっていろいろなこと想起させる作品でした。あれはどうやって生まれたのですか?

東北の3・11、平多浩子先生は、夏に会場を変更されながらも発表会を開催されました。発表会時には、いつもの方々がいつものように迎えてくださった。でも生徒さんのなかにはご両親を失くされた方もいらっしゃり、沿岸部はまだひどいと聞きました。世の中には怖いこと悲しいことが一杯あってもだんだん風化していってしまう。忘れたくない、忘れないでほしいという気持。幼稚園生から小学6年までの子供たちに聞きました。「8月6日と9日は何の日か知ってる?」「知らなーい」というので原爆の話をして、平和宣言の言葉の使用を広島の教育委員会に許可をもらって作品をつくりました。
9.11は在外研修でいたニューヨークでの出来事。関係された方はずっと忘れられないでいる。舞踊家として何かしたいと思いますが、すぐにはできなくて。時間がたって自分の気持が整理できてくると、やっぱりつくりたい。チャンスをいただけて発信できて、見ていただいた1人でも共鳴し忘れないと言ってくれる人がいたならば、幸せです。

子供たちと一緒

一方で、冨田奈保子さんみたいな素敵なダンサーも育てていらっしゃる。

今度、冨田が主役を踊ります。時には少数精鋭の舞台をつくりたいといって生まれたのが「エーデルワイスのうた」でした。内容は家族的な温かいものです。私にとっても思い出の作品です。思い切って生オーケストラの演奏で上演します。冨田の娘役にご期待下さい。

平多一門をまとめていかれるご苦労もおありだったかと。

平多舞踊を愛する多くの方々のご協力のお陰です。みんなに助けてもらっています。今は、子供たちと一緒にレッスンしている時が幸せです。

平多実千子プロデュースによる 2017年平多舞踊公演

・会場:メルパルクホール (東京都)

・日程:2017年7/29(土)

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こだわりの品

39年前に師匠である平多正於から写真のアルバムをいただきました。そこに師匠の言葉がつづってある手紙が入っています。時々、思い出しては手にとって読んだりして、私にとって力になっています。そしてこのインタビューで改めて気づいたのは、喜びと発見と驚きに満ちた経験をもたらしてくれた平多正於演出・振付による「エーデルワイスのうた」の舞台が大きな宝物であったということでした。

 

林 愛子 (インタビュー、文)
舞踊評論家 横浜市出身。早稲田大学卒業後、コピーライター、プランナーとして各種広告制作に関わる。そのかたわら大好きな劇場通いをし、’80年代から新聞、雑誌、舞踊専門誌、音楽専門誌などにインタビュー、解説、批評などを寄稿している。
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