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(2014.2.25 update)

森山開次 Garden vol.26

森山開次の舞台は、強い引力で私たちを虜にする。それはいつも新鮮、なのにどこかなつかしい。強靱でしなやかな身体があらわした苦悩や悲哀がやがて希望や喜びに転化されていく時、知らず私たちの心も浄化されていく。今回は、そんな彼の舞台裏について聞いた。

Interview,Text : 林 愛子 Aiko Hayashi
Photo : 川島 浩之 Hiroyuki Kawashima
協力 : アーキタンツ

 

新たな覚悟と決意を持って

ここではできるだけいろいろなお話をうかがって森山さんの言葉をご紹介させていただきたいと思います。いきなりで恐縮ですが、運動がお好きで小学生から体操選手を目指して練習を受けていらした頃に交通事故に遭われた。しかもそれがひき逃げというかたちだったそうですが。

小学校5年生ぐらいだったと思いますが、最初の夢が体操選手になることでした。1年間はけっこう一生懸命やっていて、そういう時に事故に遭ってしまって。怪我が治ってからも継続すればよかったんでしょうけど、子供の頃はその時々でいろんなふうに感覚が変わるもので、夢がポンと終わってしまった気になったのです。今なら、それはそれで受け入れられると思いますが、当時は進学するにも自分がどこに行けばいいのかわからなくなって、事故がなければもう少し前に進んでいたのかなという思いはありました。兄は体操を続けていたのでその姿を見ながら、小学校の高学年で、夢だけではなく気持ちまでぷつんと切れちゃったんですね。あとは何をしても手につかなくて。

思春期の多感な年頃ですね、小学校高学年は。その頃はどんな少年だったのですか?

なんかこう一歩出るのが怖くなっているという、あんまり積極的ではない感じ。何においても下がりぎみの少年というか、自分の意志を強くもたない感じでやっていたかもしれませんね。

でも大学にいらした。

はい。ただ、入学できる大学をみつけて国際関係学部というところに入りました。たまたまそういう流れになってしまったというか、高校もそうですが、どちらかというとなんとなく、でした。

その頃にミュージカルに出会われたのですか?

それが音楽座の「マドモワゼル・モーツアルト」でした。モーツアルトは女性だけど男性のふりをして演じるなかでいろんなキャラクターになるんですが、精霊が出てきてそれがモーツアルトのオペラのなかの彼女、彼の心を代弁したり守ったりという演出でした。僕はほとんど演劇を見たことがなかったので、すごいなぁ、と。あとで聞いたら、演出家が1枚の白い精霊が描かれている絵を見てモーツアルトの登場人物としてイメージしたそうで、踊りのシーンも多かった。そんな踊りの要素にも惹かれたことはあったかもしれないですね。

 

それで音楽座に入ったんですね。

はい。でも、ミュージカルに入って、大半の人はまず踊りたいというふうには思わない。どちらかというと歌や演技がメインだったりするので、僕も入った時は歌いたい、お芝居したいという思いがありました。勢いでその研究所に入ってみて、学費が思いのほか高く、大学を中退した以上親に甘えるわけにもいかないと自分で払っていたので、はじめからけっこう大変でした。

両親の愛情に守られて

お身体のほうはもう大丈夫だったのですか。

交通事故の影響は2、3年ありましたが、それ以降は、まあ心身古傷が痛む(笑)っていうぐらいは言ってましたけど(笑)。

舞台を拝見してもそうですが、こうしてお会いしてみて改めて感じるのは、森山さんの深さ、優しさは生まれ持ってのものでもある、と。

父や母の影響が大きいのかなと思います。僕は小さい頃からいつも怪我ばかりして心配かけて。交通事故に遭った時も母さんごめんねって心の中で思っていたことを思い出しますけど、そういう母が4年前に膠原病で亡くなって。

お母様、おいくつでいらしたんですか。

六十です。

お若かったのですね。

あれは音楽座に入った時かその前後でしたか、母が病気なのにこんな世界に入っていいのだろうかという葛藤がありました。

 

それは、どこかに勤めてきちんと働いたほうがいいのではという思いですか?

はい。同時に父も脳血栓で倒れたりして、両親とも調子が悪くて働けなくて。3人兄妹ですが、兄も妹もなぜかこういう世界に惹かれていて、いいのかな、いいのかなってみんなで思いながら、でも追いかけたい、追いかけたいと思ってやっていたんですね。

葛藤もご両親を思えばこそなんですね。森山さんからごらんになって、ご両親はどんな方々ですか?

おおらかだった母は歌が好きで、ものをつくるのが大好きで、料理好きで、洋服でも何でもつくっていた。父は九州男児の見本みたいな人で、寡黙で多くのことは話さないんですが、覚悟とか、強さみたいなことを教わった気がします。父は設計技師なんですけど、自分で図面を引いたり舞台美術を考えたりしていると、父や母の血を継いでいるのかなと思ったりします。

愛情深くて、アーティスティックなご両親に見守られていたのですね。ご両親は森山さんの舞台をご覧になっていらっしゃいましたか。

はじめは自分からこういう世界に飛び込んだんですが、いろいろ進めていくなかで母はじめいろんな人が喜んで、見に来て応援してくれて。そのことが、いつの間にか自分が踊っていこうという夢のモチベーションになっていました。大学時代にこの世界で何かを追いかけていこうと決めた瞬間は別として、そのあと数年ぐらいはなんとなく背中を押してもらっている感じがあり続けることができました。

能との出会い

森山さんは子どもの頃から踊っていたわけではないことが逆に魅力のダンサーですが、技術的なことについてはどう思っていましたか?

技術を身につけるのは遅かったですけど、クラシック・バレエのテクニックを学んで、ピルエット何回回れる、きれいに跳べるとか、いろいろ習得している時は楽しかった。もっともっと磨かなきゃいけないですけど、この世界に入った時が遅かったというようなデメリットが、少しずつ身体が柔らかくなっていく楽しさとか喜びに変わっていったんですね。

森山さんの舞台では「弱法師」が強烈でした。

あの時は新国立劇場の望月辰夫さんが声をかけてくださり、相手は加賀谷香さんでどうか、と。ミュージカルをやっていることからきていると思いますが、何か役を演じるという感覚が自分のなかにありました。僕のワークショップを受けていた小宮求茜さんという書家の方が「弱法師」のことを教えてくださって、写真や絵を見せてくださった。モダン・ダンスの加賀谷さんの踊りを見ていたので、盲目の男が、梅の花の匂いで一瞬開眼するような悟りをひらくような思いになるというストーリーにピッときて、梅の花の精を加賀谷さんにやってもらいたい、と。

彼女のイメージにぴったりですね。

加賀谷さんは木のような強さもあり、花のようでもありますから。でもほんとにお恥ずかしいですが、僕はそれまで能についての知識がありませんでした。「弱法師」で、小宮さん、写真家の森田拾史郎さん、津村禮次郎先生と出会うことができました。それからどんどん、どんどんもっと違う話を知りたいという思いがふくらんでいって。今でも知らないお能がいっぱいありますが、一つ一つ学ばせていただいて、自分なりにアプローチしていくことに挑戦させていただいています。


 
 
林 愛子 (インタビュー、文)
舞踊評論家 横浜市出身。早稲田大学卒業後、コピーライター、プランナーとして各種広告制作に関わる。そのかたわら大好きな劇場通いをし、'80年代から新聞、雑誌、舞踊専門誌、音楽専門誌などにインタビュー、解説、批評などを寄稿している。
川島浩之 (フォトグラファー)
ステージフォトグラファー 東京都出身。海外旅行会社勤務の後、舞台写真の道を志す。(株)ビデオ、(株)エー・アイを経て現在フリー。学生時代に出会ったフラメンコに魅了され現在も追い続けている。写真展「FLAMENCO曽根崎心中~聖地に捧げる」(アエラに特集記事)他。