D×D

舞台撮影・映像制作を手がける株式会社ビデオが運営するダンス専門サイト

 

ニュース・コラム

舞踊評論家・日下四郎氏の連載コラム「ダンスレビュー」

80

この夏ピリリと光った現代舞踊の試み:*8月公演から異色作をピックアップしてみる

日下 四郎 2013年9月4日

猛暑の夏だった。その息抜きというわけではないのだが、今月は数多く演じられ
た8月中の現代舞踊作品の中から、小粒でもピリリと気の利いた、そして何らか
の意味で“いま”を感じさせてくれるダンス企画のいくつかに触れてみたい。観終
わって何も残らない、それゆえ暑さを倍加させるだけの規格品は、余計な体力を
消耗させるだけでも勘弁してほしいと思うからだ。その前に例によってちょっぴ
り蛇足ながら、いささかの理屈と考察の一端を、最初に加えさせていただく。

現代舞踊―――コンテンポラリー・ダンスという呼び名が一般的になったのは、
70年代にフランスでダンス・クラシックに対抗して急上昇した、あのヌーベ
ル・ダンス以後のことだと思われる。それまでは日本でもモダン・ダンスのほう
が、この種のダンスに対する呼び方としては普通だった。もっともそのカウン
ターパートとしての日本語の現代舞踊という言葉は、実はうんと遡って戦時中に
登場するのだが、それを詳述すると話が複雑になるのでここでは触れない。

いずれにしても今日では、現代舞踊がコンテンポラリー・ダンスの翻訳語であ
り、歴史的にもやはりその辺から来たのだろうと一般的には信じられているよう
だが、実はここで問題にしたいのはもっと別の視点からの斬り込みだ。それは芸
術舞踊の1ジャンルとしてこの種のダンスが担っている、あるいは担うべき役割
についてであり、かねがね筆者はそれがバレエや日本舞踊、あるいはブトーとも
本質的にいささか別種の要素を備えていることを強く信じている。

そもそもヌーベル・ダンスとかモダン・ダンスという言葉を口にする場合、人は
それを表現上の新しさ、つまりテクニックの問題としてとらえている。そしてそ
れは過去におけるこの種のダンスの発生と経緯を見ただけでも、充分に正しいこ
とがわかる。前者は長らくフランスのダンス界を支配してきたバレエ芸術の歴史
に“ノン(NON)”をつきつけた活動であり、後者は同じくヨーロッパ全域に広
まったダンス・クラシックのメソードをよしとしない、自由であたらしい自己表
現の現出だったからに他ならない。

しかしながらこれが時代と経験を経て、さらに一段と高所ないし包括的にコンテ
ンポラリー・ダンスなる一般呼称で呼ばれるようになってくると、その役割と周
囲からの期待はいつしか変的変化をとげてくる。すなわち現代と呼ばれる“いま”
と対峙する芸術、そしてそれを身体を通して表現しなければならないという新たな
課題の付与だ。現代芸術の一つであることを主張する以上、何らかの意味で“い
ま”との接触を避け、単に娯楽を目的とする創作では、失格の烙印を押されかね
ないという状況だ。

ただ幸いなことに一般にコンテンポラリー・ダンスの創作の場合、その表現と主
題の選択には、左右上下に想像以上の大きな揺れ幅がある。つまり身体を中軸に
しながら、演劇や美術、あるいは音楽・音響作品との境界線が極めてフリーかつ
微妙という、いわゆるボーダーレスあるいはクロスオーバーの言葉がピタリの、
自由闊達な創造世界なのである。これは現代舞踊の創作にあたって、他にない大
きな魅力だと言えるだろう。

ところがただひとつ、これが逆にマイナスに作用するケースが往々にしてある。
いやそんな結果に終わる方がむしろ多いと言ってもいいかもしれない。それほど
このジャンルはある意味一般の好事家やシロウトにとっても接近しやすい世界な
のだ。その結果おびただしい数のニセモノが生まれる。ひとりよがりのお遊び、
意味不明の内容。時間で区切っただけの規格品、奇異をむさぼる只の身体ショー、
etc.etc.。

そんなわけで自称現代舞踊の中から、数少ないホンモノを見分ける作業は、一見
客はいわずもがな、専門家でもなかなか油断はできない。キワモノほど事前にフ
ライヤーや組織を通して、大げさなPRが事前に届いていて、実態との落差が大き
いからいやになる。因みに筆者の場合、評価は次の2点できびしく区別してい
る。それは、① 作品がいかに上述したような意味での“いま”と接点を持っている
かどうか。②には、その創作があくまでも身体という基本の実体を軸に、しっか
り練り上げられたものかどうか、それがクリティカルな分岐点となる。

そうした観点で見ていくと、高い点数を与えられるのは大げさな舞台やお祭り風
の作品の集合体よりは、単独でささやかな試み、意識と目的のはっきりした小さ
な行事にかえってピカリと光るもの、現代舞踊の良さなり役割を果たしている例
が多い。そんな意図から今回はこの8月中に、ある意味ひっそりと行われた、し
かし演じる側の志がよく読み取れ、心に訴えるものがあった以下の企画と作品
を、上演順に以下に取り上げてみる。

まず4日(日)の15:00時から19:00時にかけて、目黒区五本木にあるJKダンスア
トリエで、「ダンス9条・舞木の会」のメンバーを中心に、研究発表会が行われ
た。同所は舞踊家であり、同時にダンス評論家でもある堀切叙子氏のけいこ場
で、護憲9条をタイトルに掲げた同会は、すでに発足7年になる由だが、特に昨
年からは〔たたかうダンスⅡ~ダンスと社会〕という副題を掲げ、前半を会員・
関係者による小研究、レポート、報告の発表、続いて招致したゲスト(石井かほ
る、神永宰良、中野杏理)を介しての報告と実技、そして後半をプログラムの意
図に沿ったJKダンサーたち数名のソロ発表で締めくくるように構成されている。

この種の催しは、基本的に言葉を媒体としないダンスにとってはもっとも苦手と
するところであり、まして政治的プロテストが絡んでくるとなればなおさらだ。
しかしこの領域はイデオロギーとは関係なく、現代芸術として舞踊がかかわるべ
き最も大切な課題の一つであることに違いはなく、あえてこのジャンルの融通無
碍さを自家薬篭中のものとして、JKグループがこの年次会合を毎夏開いているこ
との意義はすこぶる大きい。

討議の項目としては「ダンスができること」と題するその後のアメリカでの振付
家デビッド・ゴードンにまつわる活動報告、横浜バンカーとスクールで受講した
『ダンスリテラシー・学校教育編』の中身と報告、前線慰問にみる石井漠の踊り
と兵隊たちの反応、ベアテ・シロタさんの映像を踏まえての反戦プロテストなど
があり、評論家西田留美可などを交えたダンス人たちのユニークな集いとなった。

次いで22日(木)に市ヶ谷のルーテル教会ホールで行われたサイガバレエの「弦
楽器の歴史」。なるほど集団名はバレエでも、多種にわたるダンサーたちの登場
や作品構想の面白さは、悠々コンテンポラリー・ダンスの一種に数え上げて少し
もおかしくない。雑賀淑子本人が自ら弾じく琵琶の響きに乗って、団員たちが踊
る今風サルカニ合戦のバレエと、続いて塩高和之氏による琵琶の歴史の話と演
奏。披露された作品2曲には、前衛派日本舞踊の花柳面が、密度の高い振付で動
きを添える。

これが第1部で、後半は東西の代表弦器としての三味線(藤本並梨絵)とヴァイ
オリン(今村高子)が登場。これに合わせて花笠音頭から民謡(江戸子守唄など
5曲)、続いてカンツォーネ(唄とギター:青木純)が、再びサイガバレエの実
演付きで披露され、バラエティとお勉強の点でもサービス満点の構成だ。以上を
和服作業衣の雑賀が、自演からナレーション、琵琶との馴れ初めのお話と、加え
て舞台監督の役割まで兼ねて、実に手際よく進行させていくのだ。変わらぬ才女
ならではの精力的な異色公演だったと思う。

最後は31日(土)に中目黒GTホールで行われたパフォーミング・ステージ、
《ら・水族館》の不定期公演「ふたつのフォリオ(2葉)」のこと。声楽家のア
ベ・レイと日本舞踊の花柳かしほ(KASHIHO)が、発声と身体の振りという2つ
の要素だけを武器に、微妙な絡みを通して空間に丁々発止の造型をつづける。も
ともとこの両人は、30年まえのパフォーマンス黎明期に結成したこのユニークな
集団のオリジナル・スターターで、その後モダンダンサーや美術作家などの参加
を得ながら、いわゆる前衛的なパフォーミングアーツの創作舞台を随時発表して
きた。今回も「歌う事と舞う事が同義語であった古の舞台に思いをはせ」「1枚
の紙を二つ折りにして綴じられた、それぞれのフォリオ」(あいさつ文)を、
ジャンルを異にするの両パフォーマーが、正味45分を1分のスキなく、最後まで
高い緊張の裡に演じ切った。先端と原形がピタリ重なり合う典型的な一例だと言
えるだろう。

(8月中の所見から)

日下四郎
日下四郎(Shiro Kusaka)
芸術文化論・ダンス批評・演出
 
本名:鵜飼宏明 京都市出身。
東京大学ドイツ文学科卒業後、東京放送(現TBS)へ入社、ラジオ・テレビのプロデューサーとして数々の番組を送り出す。1979報道制作部長職を経て退社、 故・三輝容子とダンス・シアター・キュービックを設立、13年間にわたりトータル・アッピール展の創作(台本・演出)にかかわる。90年代は淑徳短期大学、日本女子体育大学大学院にあって非常勤講師、主にドイツ表現主義芸術を論じた。現在はフリー・ランス。著書:「モダン・ダンス出航」「太陽と砂との対話」「竹久夢二」「現代舞踊がみえてくる」「東京大学学生演劇75年史」「ダンスの窓から」「ルドルフ・ラバン」(翻訳)など。他に、ビデオシリーズ「日本現代舞踊の流れ」(全6巻)の完成があり、その全テキスト・演出を担当した。