D×D

舞台撮影・映像制作を手がける株式会社ビデオが運営するダンス専門サイト

 

ニュース・コラム

ロンドン在住・實川絢子の連載コラム「ロンドン ダンスのある風景」

ロンドン ダンスのある風景

Vol.9英国ロイヤルバレエ団『アズ・ワン/ラッシーズ/インフラ』

 
 今回のロイヤルバレエ団のトリプル・ビルはいつもと少し違った。大抵トリプル・ビルでは、新旧の作品が組み合わされたプログラムになっているのだが、今回はなんと、上演された3つの作品全てが、2008年以降に発表された新しい作品という画期的なプログラム構成。チケットの価格も、慈善家からの寄付のお陰で、一番良い席でも37ポンド50ペンス(約4700円)という通常の半額以下の低価格に抑えられており、現代バレエにかけるロイヤルバレエの意気込みが伺える公演となった。
 
 
   
 プログラムの中での注目は、弱冠25歳のロイヤルバレエ団のダンサー、ジョナサン・ワトキンスによる振付作品『アズ・ワン』。ロイヤルバレエ学校時代から振付を始め、最近ではロイヤルオペラハウス内の小劇場、リンバリー・スタジオで作品を発表してきたワトキンスだが、今回が念願のオペラハウス大劇場デビューとなった。これだけ若く、まだ現役で活躍中のダンサーの振付作品が大劇場で上演されるということは異例中の異例で、それだけでもロイヤルバレエ団がワトキンスに多大な期待をかけていることがわかる。
 
 
 
 テーマは、タイトルからも伺えるように、現代社会における〈個人〉と〈集団〉。一人ひとり違う個性を尊重しあうことによって、調和の取れた共同体としての存在を作り出そうという、非常にオプティミスティックなメッセージがこめられた作品である。
 
 
 
 このテーマは幕開きから明瞭に提示される。舞台は一人の女性ダンサーが黒い背景を前に踊るところから始まるが、いつの間にか背景幕に開いた穴が拡大し、そこから多数のダンサーが現れ、個人の踊りが集団の踊りと化す。集団の踊りの背景となる巨大スクリーンに映し出されているのは、集団住宅の映像。一つ屋根の下で多数の個人が全く異なる生活を送っている集団住宅は、今回のテーマ〈個人〉と〈集団〉のわかりやすい象徴となっている。
 
 
 
 5つのシーンでは、ひたすら気ままに享楽の時を過ごすパーティー集団、テレビの前のソファーに座りながらお互いとコミュニケーションの図れないカップル、路上にしか行き場のない若者たち、沢山の人が待つ待合室の中の孤独な女、そして株価に翻弄される強欲なビジネスマンが描かれる。そして、予測どおり最後の場面で全キャストが舞台上に集結し、一人ひとり違う、一見係わり合いのないように見える人間同士でも、結局は皆が共同体の一部としての生を生きているということがもう一度強調される。
   
 
 
 キャストには、テクニカル面で評価の高い面々が揃い、ビジネスマン役で目を見張る高さの跳躍と連続回転を見せたスティーブン・マックレーと、パーティーシーンでの雀由姫の切れのある踊りが特に傑出していた。しかし、肝心の振付は、テーマに注意を払いすぎたのか、ワトキンスらしさと言えるようなステップがまだ確立されていないような印象を受けた。それぞれの場面構成も、例えば舞台上の四角い枠の中で、一人ひとり次々と違うポーズをとりながら、段々と一枚の絵のような印象効果をもたらしていく場面が、ベジャールの『バレエ・フォー・ライフ』を彷彿とさせるなど、あまり新鮮味のない場面が続き、振付はテーマ、アズ・ワンの文字通りの説明に終始してしまっているように思えたのが残念だった。また、ワトキンスが描こうとしたはずの、普通の人々のそれぞれの〈個性〉の違いもそこまで明瞭に示されなかったため、〈集団〉との対比もうまく浮かび上がってこなかったように思う。
 
 
 2作品目は、2008年に初演されたキム・ブランドストラップ振付の『ラッシーズ』。副題に「失われた物語の断片」(Fragments of A Lost Story)とあるように、音楽にはプロコイエフが作曲した映画音楽の断片(映画は未完成に終わった)が、そして物語にはドストエフスキーの『白痴』の未発表の草稿が使用され、出版されている『白痴』の物語と違い、1人の男と、彼が追う女、そして彼を追う女をめぐる三角関係が描かれる。このモチーフは、『ジゼル』や『ラ・シルフィード』、『白鳥の湖』、『ラ・バヤデール』などでもおなじみだが、ブランドストラップが手がけた現代のバレエにおいては、複雑な物語を説明するためにマイム等は一切用いられず、抽象的な踊りのみで感情が語られていく。緩やかなリフト、滑らかなステップが、常にその向こうにある感情と物語をけだるい夢幻のように〈示唆〉していくのである。このように、〈断片〉というモチーフはダンスそのものにも表れ、そうした抽象的・示唆的な一つ一つの動きの背景や理由付けは、すべて観客の想像力に託されていく。そして、このどこまでも未完なダンスが、未完の音楽の断片、日の目を見ることのなかった物語と呼応しあう。ダンサーが舞台上で描き出す一瞬一瞬の物語そのものが、現実の〈断片〉であることを考えれば、この作品の手法は非情に巧妙であると言えるだろう。
 
 
   
 3人のキャストは皆、バレエ団を代表する個性的なプリンシパル・ダンサー。主人公の男にカルロス・アコスタ、彼が追う魔性の女にローラ・モレラ、彼に振り向いてもらえない女にアリーナ・コジョカルという強烈な個性の共演となった。しかしながら、舞台前面にすだれ上のスクリーンが配され、ダンサーたちはその向こうで踊ったため、実際には彼らの踊りの個性は半分ほどしか客席に伝わらず、3人のダンサーの影の踊りのような印象を与えた。観客もまた、踊りそのものを断片的にしか受けとれないしくみになっていたのである。
 
 
 
 圧巻は、最後のアコスタとコジョカルによるパ・ド・ドゥ。モレラ演じる女に愛を受け入れてもらえず哀しみの底にいる男が、ようやく彼をずっと見つめ続けていた女の存在に気付く場面。ここでもまた、2人のパ・ド・ドゥは、その悲しみが凝縮されているのではなく、底知れない哀しみの断片に過ぎないのだった。私はこの作品を初演時にも鑑賞したが、おなじみの物語を抽象的に、断片的に捕らえるその手法の鮮やかさ、そしてミステリアスな余韻の深さはいまだ色あせていないと感じた。
 
 
 
 今回の公演の最後のプログラム、『インフラ』は、ロイヤルバレエ団のレジデンス・コレオグラファー、ウェイン・マクレガーが2008年に振付け、英国批評家賞も受賞した傑作。英国の現代アートを牽引するアーティスト、ジュリアン・オーピーが手がけたLEDデジタル画面(デジタル化された人々がゆっくりと歩いている)が舞台上部に掲げられ、その下でダンサーがエッジの効いたダンスを繰り広げる。この作品の中には、『ラッシーズ』のような物語はない。ただそこには、人と人との関係性が展開されるだけで、その点では『アズ・ワン』に通じるテーマでもある。しかし、『アズ・ワン』との決定的な違いは、舞台の上のダンサーの身体によって、普段は仮面を被って生きている人々の裏に潜む、生身の感情がむき出しにされていたことである。愛、憎しみ、苦悩といった感情は、ダンサーの上に掲げられたスクリーン内の無表情なデジタル人間との対比によって、一層鮮明に浮かび上がった。
 
 
 
 なかでも私の心を打ったのは、エリック・アトウッドとメリッサ・ハミルトンによるパ・ド・ドゥ。肌の色に言及するのは〈政治的に正しくない〉類の言説となってしまうのかもしれないが、文字通り透き通るように白い肌の持ち主ハミルトンと、褐色の肌と筋肉の隆起がブロンズ像のようなアトウッドがともに踊る姿は、そうしたこと抜きに、息苦しくなるほどの美しい絵図を描き、強烈なインパクトを放っていた。特に、暗がりの中に浮かび上がるハミルトンによる、シルヴィ・ギエムを髣髴とさせる200度近くの開脚と、アトウッドの力強くも繊細なサポートが生み出す、ロマンチックでありながら苦悩に満ちたポーズの連続は、この夜一番私の目に焼きついたシーンとなった。
 
 
 
 最終シーンで、おびただしい人数の人の群れが舞台上を横切っていく中で、真ん中に取り残された孤独なハミルトンは、声にならない魂の叫びをあげる。このシーンは、『アズ・ワン』における単なる〈個人〉と〈集団〉の並列に留まらない、深い余韻を残し、この夜の3作品の中で、この作品が次世代に受け継がれるに値する名作であることを証明して見せた。
 
實川絢子
實川絢子
東京生まれ。東京大学大学院およびロンドン・シティ大学大学院修了。幼少より14年間バレエを学ぶ。大学院で表象文化論を専攻の後、2007年に英国ロンドンに移住。現在、翻訳・編集業の傍ら、ライターとして執筆活動を行っている。