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ダンサーズクエスチョン2nd


プライベートな時間は、たいてい日本手拭いで
姐さん被りをして過ごしています。
次回作品「プラスター・ボードの見る夢は」
「掘削機は歌うよ」「寂しい姉」を構想中。
矢作聡子さんから木許恵介さんを紹介していただきました。
矢作聡子さんから木許恵介さんへの質問
これからの舞踊の未来はどうなる?
子供の頃、村の祭りになると、普段は野良で働いていたり、そこいらで酔っ払ってクダを巻いたりしている近所のオッサンらが、急に立派な装束をつけ烏帽子なんぞを被り、横笛を吹いていたり神楽を舞ったりしていて、その豹変した雄姿を驚愕と尊敬の眼差しで見ていたものだ。
大人とは、労働者や、遊び人や、ミュージッシャンや、はたまた神に仕えたりと、いろんな面を一人の身体の中に同時に併せ持つ複合体であり、それこそが当たり前の大人なのだと信じていた。
今の日本は確かに豊かになったけれども、周りを見回すに都会生活の中で人は余りに忙し過ぎて、朝から晩までひと色にサラリーマンであることに疲れ果てているように思えてならない。
ダンサーは不幸にして踊りだけでは食べてゆけない。他に副業を持つか、リハーサルの合い間にバイトに明け暮れるか。または良いほうで教えの掛け持ちや地方公演のゲスト出演etc…。目指す踊りのことだけ考えて生活出来ない環境をずっと不幸なことだと思っていた。
でも、一日のうちにいくつもの姿に変身し、バイト先で、レッスンで、リハーサルで、舞台でと、それぞれの局面でプロフェッショナルに振る舞うダンサーと云う職業は、貧しいけれどもひょっとすると実はとても豊かなのでは?とフト考えるようになった。
過酷な境遇を切り抜け、気の遠くなるほどのリハーサルを繰り返し、チケットを売り捌き、たった一度の舞台に賭ける。
現代舞踊と云う完成形の見えないモノを模索し続ける。
こんな金にもならないマイナーなジャンルに、他では味わえない面白い作品が有り、尊敬する先達・同胞がいて、そして優秀な若いダンサーたちが続々と入って来ている。
だから大丈夫。
これからも思わぬ才能が現われて、日本の現代舞踊は再生する。
蛇足ながら、最後に、つい先日の舞台の日の朝に書いた日記を公開して、この質問への答え、そして私の踊りへの決意表明と致しましょう。
アフリカの何処かの村で、マラリヤが大流行し、村人のほとんどが死に絶えた。ところが、或る一部の人々はマラリヤには罹患しない体質で、村を絶滅から救った。
世界中の学者たちが、この現象を不思議に思い調査したところ、その生き延びた人々は赤血球の形が鎌のように尖った変形種であることが判明した。
ところが、この変形種の赤血球を持った人間の、或るパーセンテージの人々には身体的な障害が出てしまう。
村は、その身体障害者たちと一緒に、普通に生活することによって、鎌型赤血球の人間の存続を可能にし、ひいては絶滅から免れた。私たち健常者と呼ばれる人間は、普段、身体的な障害を持つ人々のことを、社会的に弱い、保護すべき対象と見がちである。
しかし、この村の例で解るように或る極限の状態に陥った時、私たちが弱者だと思っている人々のほうが、俄然力を発揮し、強い生命力を示したのだ。
私たちは、身体的に障害を抱える人々の存在によって支えられ、生かされている。
私たちが彼らを守っているのではない、彼らの存在によって守られているのだ。こんな内容の話が、本番前の朝、まだ暗い闇の底で、枕元のつけっ放しのままのラジオから流れて来るのを寝呆けた頭で聞いていて、私は深く感動した。
私が若いダンサーたちに混じり、ヘドを吐くまで舞台で跳躍し駆け回る力は何処から湧いて来るのか?
取り敢えず思い浮かべるのは、身近な愛する人々の顔である。
その人たちのためになら、その人たちと一緒なら、その人たちが観ていてくれるのなら、どんな逆境にも耐えて踊れる。
しかし、私を突き動かし、しっかりと支えてくれる、もっともっと大きな力を感じる時がある。
私の体内の隅々にまで酸素を運んでくれる赤血球が、どんな形をしているのかは知らない。
だが、見ず知らずの人々、健常者も身障者も、いろんな人々がいてくれると云うことが、私と云うちっぽけなダンサーの存在を守ってくれているように思う。
一度もダンスなんか観てくれなくてもいい。
いろんな人がいてくれるだけでいい。
その人々がいる限り、私の体内には熱い血が駆け巡り、舞台を所狭しと暴れ回る大いなる力が湧いて来る。ヘトヘトの身体と、遠退く意識、滝のように流れ落ちる汗に耐え、何かに感謝しながら、踊ることが出来る。
木許恵介
子供の頃の将来の夢は?
私は3歳になる直前に父の生家のド田舎の大きな農家に引っ越しをしました。
2歳まで暮らした、小さな城下町の木造の市営住宅での生活が楽しくて堪らず、3歳になる時に、
「ああ、何も考えず無邪気でいられた幼き日々(!)の幸せな思い出よ。それと比較してこれからの人生は、たとえどんなことが起ころうとも、現在と云う時を体験している自分を常に意識しながら、醒めた感覚で生きてゆかなければならないんだな。
もうこれからは余生のようなモノか?」
と、漠然とそんなことを感じた記憶が有ります。
ん~、今を意識するが故に、却って今を生きられずにアガく幼児?
嫌なガキじゃね。
そのためか、何かになりたいなどと考えたことなどただの一度も無く、流されるままに諦めの「余生」を生きて来たら、アラ、気が付きゃ、いつの間にか今日まで過ごしてしまいましたよ。
うっかりしていた!
私は何になりたいのだろう?
ま、子供なんて無邪気でも何でもなく、抽象概念に囚われ悩むこともある。
それで却ってこんな出来損ないの人間が出来上がってしまった、と云う悪い例ですかね。
最近ハマっていることは?
月光浴。
地平線から昇る黄金の巨大な塊りと対峙する。
青い月の光に濡れながら、夜のプールで泳ぐ。
月を相手にビールを飲む。部屋の窓を開け放ち、一晩中、月の光に照らされて眠る。
夜明けに、薄っすらと水色に明るくなり始めた空に、最後の白い輝きを放ってやがて融けてゆく月を見て、別れを告げる。
また、糸のように細い月に驚く。
パチンと爪切りで切った、爪のカスみたいだなと笑う。
・・・
優しく強いエネルギーを全身に浴びながら暮らしていると、月よりの使者・月光仮面の気持ちが、だんだん解って来ました。
体内に月光の力を蓄め込んで、世界の、とまでは行かないので、御町内の平和と幸福のためにオッサンは今日も闘うのじゃあ!
おりゃあ!
好きなブランドは?
「ゴキブリ・ホイホイ」
服も持ち物も、ブランドなんて一切気にしたことも有りませんでしたが、このあいだ商店街で安売りしていた「激獲れ」とか何とか云うゴキブリ獲りを買って来て仕掛けたところ、何~んも効きゃしない。奴ら、んなモン蹴っ飛ばして歩き回ってやすぜ。
私の部屋のブランド指向の?ゴキブリ君たちには、由緒正しき老舗の「ゴキブリ・ホイホイ」じゃなきゃ駄目みたいですよ。
好きな言葉は何ですか?
ちょっと無理する。
今まででやってしまった、一番の失敗といえば?
つい先日の舞台。
20分間、汗を飛び散らせ猛烈に踊り狂った作品の最後に、暗闇の中でポッと影絵が浮かび上がるはずが、私がスイッチを入れても電灯が点かなかった。
矢作ちゃん、皆さん、本当に御免なさい。
これからも舞台の魔物、自分の中に棲む魔物と闘い、踊り続けます。
“最後の晩餐”で食べたいものは?
きびなごを丸のまま生姜で炊いたん。
名前を変えるとしたらどんな名前がいいですか?
ジュヌビエーブ。
オススメのお店を紹介してください
内緒。
私は、居心地の良いそれらの店の片隅でヘラヘラ笑っているのが好きなので、残念ながらお教え出来ませんのよ。悪しからず。
なんや、店の人たちも、あんまりお客さんが来過ぎるの、好きじゃないみたいだしね。
好きなミュージシャンとその理由
亡くなってから急にブームになってしまい、今、口に出すのは憚られるんですが、忌野清志郎。
私より10歳年上で、私は彼の後を追い掛け、彼のアーティストとしての変遷を、自らのことのように身体に刻印しながら成長しました。
ハード・フォーク・トリオからロック・バンドへと形を変えても、あくまでRCサクセションの中の忌野清志郎が好き。
私が踊っているのは、若い頃の或る日に、たまたま、RC(と、それからケート・ブッシュ、ん~と、ショパンも)の音楽に出逢ってしまったからだと思います。
詩人としても、私の心を撃ち続ける世界の三大詩人は、エドガー・アラン・ポーと萩原朔太郎と、それから忌野清志郎です。
今後の活動予定を教えてください。
昨年94歳で亡くなった、師匠の石井みどりの追善公演を、来春3月13日(土)6時より、芝のメルパルクで行います。
石井みどりの代表作「魂魄/レクイエム」などを上演。
彼女の舞踊の神髄に迫ることはあまりにも困難で、今年の秋冬はもう石井みどり一辺倒!
外部出演を極力お断りして、稽古に精進致しております。
石井・折田舞踊団の長い歴史に関わった、いろんな世代のダンサーたちが総結集して、今こそ輝きを放つ石井みどりの身体論に挑みます。
12月6日(日)日暮里サニー・ホールで、あの「ウーマンズ・カフェ」のメンバーたちが還って来る! 死んだはずのサモアのケーちゃんも復活?!
藤原悦子作「ウーマンズ・カフェ2」
2月21日(日)浦安WAVEで、今春の金沢21世紀美術館での興奮を再び! 中西優子作品を上演。
など、ちょこちょこ、興味深い公演にも参加します。
木許恵介 Keisuke Kimoto
大分県生まれ。
学生時代、京都でブラブラしていた時に宮脇翠によってモダン・ダンスへの道を啓かれる。
上京後、サラリーマン生活を経て石井みどり・折田克子に入門。師匠母娘に30歳から徹底的に英才教育を叩き込まれる?!
同舞踊団員。
また、村田裕貴子とタッグを組んでダンス界に殴り込みを掛ける。
平成14年に文化庁に派遣され渡仏。3年ほど踊り三昧。あれこれダンスを模索して帰国。
平成18年、藤ちゃん、猫みみさんと「虫のいろいろ」を踊って、全国舞踊コンクール創作部門2位。