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コラム:幕あいラウンジ・うわらまこと Vol.6:ダンス・舞踊専門サイト(VIDEO Co.)

うらわまこと 2012年8月11日


Vol.6

2003.11/27
「古典復元の意味するもの
 ー古典の現代化に思うー」

 前回の私のページで、ロシアの研究者による、古典バレエの復元についての講義(私はその一部しか聞かれませんでしたが)についての感想を書かせていただきました。その時も述べたのですが、その講義の紹介でなく、そこから私の考えたことを展開して書かせてもらっています。それはなぜか、たしかに当時の状況を正しく知ること、それを正確に復元することじたい、意義があります。しかし、率直にいうと、それだけでは研究者や一部の愛好家には大変参考になり、また嬉しいことだとは思いますが、わが国の舞踊界や一般のファンにはどれだけ意味があるか疑問です。一般に、過去を発掘する、歴史を学ぶとは、昔を知ることそのものが興味があるということと同時に、それをもって今を知ること、これからの参考にすることが重要だと思うのです。つまり、歴史に学ぶのです。脱線しますと、今のA国のB大統領はまったく過去に学んでいないですね。それはさておき、今回のヴァハレフさんたちの、古典に関する研究結果を発表し、実際に復元する活動も、単なる懐古趣味でなく、これを現代に生かすために行っているものでしょう。
 私自身は、現代作品とともに、古典作品も現在上演されればそれは現代作品であり、そこに創造性や独自性が必要であると思っています。したがって、オリジナルを知ることは、その本質や特性をいかに現代人に理解してもらえものにするか、あるいは個性化、精緻化すらか、さらに現代の感覚や手法で再構成するために重要なのです。もちろん、原型を知らなくても、現在上演されている作品が、どのように現代人の共感を得、感動を呼び起こすかが重要なことは言うまでもありません。
 今回の私のテーマは、古典作品の復元が現代の古典上演にどうかかわるかを考えることです。いいかえれば、古典作品を上演するには、演出家はそれをどう扱うか、それにはどういう方法があるかということです。
 その材料として、先日ノボシビルスクバレエ団が上演した、ヴァハレフさん復元の「コッペリア」と「くるみ割り人形」を取り上げてみましょう。「コッペリア」はもともとはサン・レオンの振付けですが、プチパが改訂したものの復元、そして「くるみ割り人形」はこれもレフ・イワノフのオリジナルは雪の場だけで、その後のワイノーネン版が復元されたもののようです。
 正直のところ、これが本当にオリジナルの復元かどうかは分かりません。舞踊譜があってもそれは不完全なものであること、初演後振付者自身もたびたび手を加えているであろうこと、そして同じ作品でもダンサーによって振付けが変わることもしばしばあったこと、などからです。この点、音楽は楽譜がありますから、指揮者や演奏家によって多少の解釈の差はあるにしても、基本的には作曲家のオリジナルを再現することはほぼ可能です。しかし、舞踊では上の理由などから百年以上も前に初演されたものを完全な形で再現するのは不可能に近いと思います。
 したがって、今回のヴィハレフさんの復元も、当時の踊りの構成や雰囲気、演出のスタイルがうかがわれると考えたほうがいいような気がします。もちろん、それでも研究者にとっては大変に貴重なものであることはいうまでもありません。
 ただ、これが現在のさまざまな振付者、演出家によるバージョンと比べてどうかということは別の問題で、それも興味があります。たしかに、この2作では、「コッペリア」のほうが「黄金のマスク賞」をうけただけあって、古い時代のオリジナルであっても、なかなか見応えある作品でした(といっても演出上の不満はありますが)。
 それに比べて「くるみ割り人形」のほうは、今見ると相当大味というか、ルーズな演出でした。もちろん、これはヴィハレフさんのせいでも、バレエ団、ダンサーたちの責任でもありません。むしろ復元という意味では大きな成果をあげたといってよいのでしょう。
 大味というのは、たとえば物語との関係では、プロローグでドロッセルマイヤーの甥が急にいなくなり、それがエピローグでくるみ割り人形であったことが分かるというのですが、舞台をみていてもそれはまったく分からないのです。また雪の森の場ではたしかにイワノフの振付けは面白いのですが、クララとくるみ割り人形はまったくとってつけたような存在でしたし。お菓子の国では、たまたまその日がパーティーで、お菓子たちはクララやくるみ割り人形とは関係なく踊っていたりするのです(クララたちに見せるという意識はありません)。
 これに比べると、現在ではわが国の発表会でも(ダンサーの質は別として)分かりやすく、楽しくするためにいろいろな工夫がこらされて、それぞれ独自性を主張しています。これは演出的には精緻化されているといってもよいと思います。マイムも昔はきわめて形式的でしたが、最近では形のなかに心も表現されるようになっています。むしろ、ロシア系のほうがこの点では伝統的におおまかなような気がします。日本人は工業製品についても、細かいところに気を使い、いろいろと工夫し、改良するという面では優れているのです。たとえば、自動車を発明したのはアメリカ人ですが、使い勝手のよい、乗り心地のよい自動車を作るのは日本人だといわれています。芸術でも同じですね。
 話を戻しますが、古典バレエの演出は、ある方(舞踊史家の薄井憲二さん)のいわれるとおり、バレエ・ダクション、すなわち舞踊劇から離れてはいけない、というのはそのとおりだと思います。というのは、いわゆるマイムの部分をカットしたり、踊りに変えてしまうと、形式が崩れてしまい、グラン・パ・ド・ドゥなどの存在する意味がなくなってしまうのです。つまり、これを徹底すると、チューダーのようにすべての踊りが意味を表現するか、あるいはバランシンのように全て具体的な意味をもたないダンスによって構成される作品になってしまうでしょう。
 たしかに、マッツ・エック(たとえば「ジセル」)やマシュー・ボーン(たとえば「白鳥の湖」)のように、音楽や物語は一応借りるとしても、動きや構成の上でまったく異なるコンセプトの作品を作るのであれば、形式の決まったマイムを使う必要はないでしょう。こうなると古典の改訂ではなく、まったくの現代作品と言うことになります。
 これ以外に古典作品の改訂には、政治的な意図をもったものもあります。この点については、前回書きましたが、そのために意味をねじ曲げたり、一部をカットしたりするのはあまり望ましい方法ではありません。ただし、一つ問題となるのは、それ(オリジナル)が差別とか、侮蔑に通じるようなものであった場合です。現在では生活の場においては差別は許されません。では芸術の場ではどうでしょうか、これがよく問題になるのは文学においてです。人種や障害者については、現代作品では十分な配慮が必要です。しかし、舞台芸術の分野で古典作品を現代に発表する場合はどうでしょうか。これは難しい問題ですが、少なくとも演出の段階で、それを強調することは避けるべきだと思います。この点については、みなさんのご意見も伺いたいと思っています。。

 
 

うらわまこと(Makoto Urawa)
舞踊評論家

本名 市川 彰。慶応義塾大学バレエ研究会において、戦後初のプリマ松尾明美に師事、その相手役として、「ラ・フィユ・マル・ガルテ」のアラン、リファールの「白鳥の死」の狩人役を日本初演。企業勤務の後、現在大学で経営学を講義しながら舞踊評論を行っている。 各紙・誌に公演評を寄稿するほか、文化庁芸術選奨選考委員、芸術祭審査委員、多くの舞踊コンクール審査員、財団顕彰の選考委員などを務めている。

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