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コラム:幕あいラウンジ・うわらまこと Vol.63:ダンス・舞踊専門サイト(VIDEO Co.)
Vol.63
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”オリジナル”の持つ意味
ーヒア・アンド・ナウの芸術のもつ魅力ー
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●舞踊作品の完全復刻は可能か
先日、たまたまTVのチャンネルを回していたら、多分放送大学だと思うのですが、次のような話が目にとまりました。それは音楽にかんする講座で、古典音楽の演奏についての問題のことでした。問題はいくつかあるようですが、そのひとつとして、なにが真のオリジナル作品かということがあります。
私のように舞踊にかかわっているもの、そしてもともといいかげんな性格のものにとっては、たとえば、クラシックバレエの『白鳥の湖』の真のオリジナルとはなにか、ということについては、たとえばプティパの振付に絞ったとしても、厳密にはありえないと、あまり気にはしていません。それは大きくは2つの理由からです。一つは、なにをもってオリジナルとするか、とくに古典の作品は振付者自身が振付だけでなく、音楽にさえたびたび手を加えるのが普通ですし、また踊るダンサーによっても変わることがよくあります。そしてもうひとつは、かりに初演時のものをオリジナルとする、と決めたとしても、その正確な記録は残っていないからです。舞踊譜や振付メモ、あるいは記憶の継承はあるにしても、楽譜ように決定的なものではありません。
●オリジナルがたくさんある?音楽
音楽の分野では、作曲者による楽譜がきちんと残っているのが普通ですから、楽譜上はオリジナルがはっきりしていると思っていました。ところが必ずしもそうばかりともいえないようです。
それは次のような意味でした。そこではショパンの『幻想即興曲』を例にあげていましたが、すくなくとも2種類あるというのです。ひとつは現在まで一般的にショパンの『幻想即興曲」として認められている楽譜。もう一つはこの場合アルトゥル・ルヴィンシュタインが演奏しているバージョン。ショパンがみずから手をいれてある女性に贈ったものを彼は演奏しているのだそうです。たしかに、楽譜でも、実際の演奏録音でも、その違いはそう大きくはありませんが明らかです。音楽では作曲家が自分の作品に楽譜の上で加筆、修正することは、上の例にかぎらず十分ありうることですし、それぞれが後々に伝えられることもあるでしょう。この場合、そのすべてが、説明つきでその音楽家の作品ということになるのです。つまり、ひとつの曲にいくつものオリジナル(ほんもの)があるということになります。たしかに、その極端ものとしては、同じ曲の何年版というのが明確に認知、普及しているケースもありますね。
もちろん、楽譜は同じでも、演奏家、あるいは指揮者などによって強弱、速度、あるいは楽器編成などが変わるのはこれは別の問題です。
音楽の場合、これは文学でも同じでしょうが、未発表の楽譜や原稿が発見されるといったこともあり、問題はその真偽ということになります。美術作品も同様です。でも、舞踊の場合には、ある振付者のこれまで知られていなかった作品の上演記録が発見されたということはあっても、それがどのようなものかは分かりません。もちろん、ある程度のデータがあれば推定することはできますが、それをはあくまで、~であろう、~のようなものと思われる、にすぎません。
●舞踊に真のオリジナルはある?
では、舞踊作品の場合、オリジナルという考えは意味がないのでしょうか。たしかに、この数年の間に、19世紀に初演されたロマンティック、クラシックバレエ作品のオリジナル、あるいはプティパなど歴史的な大振付家によって再振付されたもののオリジナル復刻版といわれるものが、国内、海外の舞踊団によって上演されています。20世紀前半の近代作品でも、ロプホフの『ダンス・シンフォニー』は大仕事でしたし、昨年秋に兵庫県西宮市でニジンスキーの『春の祭典』オリジナル版が上演されたのは記憶に新しいところです。
これらも率直にいって、もとの作品と振付についても全く同じとはいえないと思います。
音楽は楽譜上は同じであったとしても、楽器やその編成は違いますし、衣装も生地から違うでしょうし、照明は電気でさえなかった作品もあったはずです。
でも、それはそれで面白かった。歴史的、懐旧的意味は確かにあるでしょう。しかし、それと同時に現代の目で見てもいろいろと興味をひかれました。たとえば芝居の部分、というよりロマンチックバレエの時代にはドラマの側面に力が入れられているところ。つまり、そこからダンスとマイムが分離され、ロシアなどではさらにダンスがますますテクニカルになる一方でマイムの部分が変形され、芝居が排除されてきたわけですが、昔のものには踊りと芝居が融合しているところがみえて、かえって新鮮だという感じを受けました。たとえば『エスメラルダ』や『コッペリア』などがそうです。
●重要なのは、面白さと感動
もちろん、抽象的なもの、象徴的なものがあってもいいし、ダンサーを記号的に扱う作品にも面白いものがあります。ただ、現代に作られたものであっでも、いわゆる古典的な手法にもとづいた舞踊劇(バレエ)であれば、踊りと踊りの合間をマイムでつなぐのでなく、いわんやマイムの代わりにあまり意味ない動きを挿入するのでなく、作品全体がドラマのために組み立てられ、意味をもつという、ノヴェール(ジャン=ジョルジュ・ノヴェール、18世紀の舞踊家、指導者。「舞踊とバレエについての手紙」で知られる)の意識に帰って欲しいと思います。
つまり、話を戻しますと、私は少なくとも舞踊作品については、それが忠実なオリジナルの再現かどうかよりも、それが作品として面白いか、感動させられるかどうかが重要なのです。過去の作品に意味があるのは、もちろんそれが芸術的歴史的財産であるということはありますが、完全な継承が不可能な以上、むしろ、それが古典の現代版、あるいは新しい作品の創造にとってどのような意味をもっているかであり、さらに私の場合にはその多くが今見ても新鮮で大変に面白いということです。
べつの言い方をすると、研究者にとってでなく、一般の観客にとっては、それがいつ作られたものかでなく、現在見て面白いものかどうかが重要なのです。
●コンクールでの振付とは
ここで一つ具体的な問題があります。それはコンクールにおいてです。創作を認めるバレエコンクールもありますが、ほとんどはスタンダードなクラシック作品のヴァリエーションという指定になっています。場合によっては作品が決められています。
問題は、この場合の具体的な振付です。同じ作品でもずいぶん振付が違うものがあります。たとえば、『コッペリア』、『くるみ割り人形』(これには、金平糖の精とクララあるいはマリーが踊る演出とがあります)。さらに『眠れる森の美女』の第1幕(いわゆるローズ・アダージョ)では、基本的には同じでも、一つのポイントである、中間部分の下手手前からアン・ドォールのビルエットを繰り返しながら上手奥に下がるステップ。このプレパラシォンには何種類もあるのです。
こういうものにいちいちオリジナルと違うとか、よく知られた振付者の版でなければいけないといわなければならないか、難しい問題です。審査の場でこれが議論されることがあります。
私はそのときこういっています。[事前にテープででも振りを公開してやれば不可能ではないかもしれないが、一曲に限定するわけにいかないから手間はかかるし、混乱もするので細かく指定することはできない。あとは審査員の考えと判断だと思う]。私は基本的にこう考えます。まず、これはダンサーの能力を判断するものであること、作品がどうかは次の問題とします。したがってダンサーがクラシックの基礎やステップ、さらに身体の方向や、動きの繋ぎは重視する。また児童は別としても、ジュニアやシニアクラスの場合には、その作品あるいは役がきちんと表現できる振付を踊っているかどうかが重要になる(たとえばいくら正確であっても『ジゼル』で回転の速さや回数を売りものにしても駄目であろう=これは実際にあったのです)。つまり、これはスポーツではなく、芸術だということです。オリジナルかどうかの評価はこのなかで判断すれぽいいと思います。
この辺は音楽のコンクールとは違うところかもしれませんが、クラシックバレエだけでなくまさにヒア・アンド・ナウ(ここで、いま)の芸術である舞踊そのものの面白さであるといえるのではないでしょうか。 |
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うらわまこと(Makoto Urawa)
舞踊評論家
本名 市川 彰。慶応義塾大学バレエ研究会において、戦後初のプリマ松尾明美に師事、その相手役として、「ラ・フィユ・マル・ガルテ」のアラン、リファールの「白鳥の死」の狩人役を日本初演。企業勤務の後、現在大学で経営学を講義しながら舞踊評論を行っている。 各紙・誌に公演評を寄稿するほか、文化庁芸術選奨選考委員、芸術祭審査委員、多くの舞踊コンクール審査員、財団顕彰の選考委員などを務めている。