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Interview
インタビュー

森 嘉子 Garden vol.22

森 嘉子 地面を感じなければアフロは踊れない。そして音楽を自分の血にすること、肉にすること

変わらないのは美しい身体のラインだけではない。
森嘉子氏は、静かに湧き上がる情熱で内から音楽を生みだして、今も私たちを魅了し続ける。

師・彭城秀子との出会い

森さんはこれまでずっと素晴らしい舞台で客席をうならせていらっしゃいますが、まず踊りとの出会いをお話しいただけますか。

自宅から5分ぐらい行ったところに幼稚園があって、そこに私の師匠、彭城秀子先生が出稽古にみえていたんです。私が窓越しに毎日のぞいて見ていたら、そんなに見たいのなら中に入ってきなさいと言われたのがきっかけです。

それからお稽古にいらして。

母が踊りが好きだったものですから、応援してくれて。当時はスタジオがなかなかなくて、大森のその幼稚園の一軒だけでした。身体は弱かったのに踊りは好きだったから、踊っていくうちに丈夫になったんです。とにかく小学校の1年の間のうち半分ぐらいしか学校に行ってないの、年中具合が悪くて。

初舞台はいつですか。

1939年に彭城に入門しまして、1944年が初舞台なんですが、それが戦争中ですから軍の慰問で国内を、日本の軍という軍は全部行きました。

どのような作品を踊られたんですか?

「小山の杉の子」とか。洋楽を使わないで、ハンガリーのダンスを踊ったりするのはものすごい至難だった。

つまり日本の音楽を使って、ハンガリアン・ダンスのステップを採り入れて踊るという。いわゆる民族舞踊など外国の踊りやステップに早くから慣れ親しんでいらした。

彭城先生はダンサーとしては本当に素晴らしい人でした。とにかく先を、先をという具合に見ていた。お父さんがチェリストでお母さんがピアニスト、音楽一家の中の舞踊家だったんですよ。
だから音楽的にはとても豊かで。軍の慰問に行ってもお母さんがピアノかアコーディオンを弾いて、お父さんがチェロを弾いて。ブラームスの子守歌とかで踊らされたんですよ。
それだけは軍でも音がきれいしドイツ音楽だから許された。

ずっと踊っていらしたんですか。

日本が香港を攻めてガタガタ揺れている昭和17年の1年間だけ、先生がどうしても疎開しなければならなくなって旭川に行かれた。それでその1年だけ私は踊りを休んだんですよ。

森さんは疎開はなさらなかったんですか?

私は東京、大森にずっといました。防空壕の中にいるとその上から焼夷弾が落ちてきたり。
だから戦争が終わった時は、ああ、これで踊りが踊れると思った。彭城先生を尋ねて旭川まで連れていってもらって、そのあとうちの自宅を開放して彭城先生に来てもらってそこで稽古したんですよ。

他の生徒さんもいらした?

いえ、あとになって先生の所をやめる時に初めて4人ぐらい生徒さんがいらしたのを覚えています。その生徒さんのなかにいたのが、雑賀淑子さんなんですよ。

それで雑賀先生とは今でもずっとジョイントで楽しい舞台を見せてくださって。彭城先生とは、どのくらいご一緒に活動をなさったんですか?

戦後の何年かな、今度は米軍のキャンプめぐり。だから頭の中は混乱ですよ(笑)。昨日まで日本の軍隊で、今度は米軍か、と。

踊る時には身体の奥にしまい込んでいるものを出して歌わないと、音楽に負ける

森さんはいろんなダンスを教えてもいらっしゃいますが、特にアフロ・ミュージックは日本では初めてじゃないですか?

たまたま私の主人が学生の頃は6大学にいてジャズをやっていて、結婚する前からクラブで演奏してるのを聞きにいったりして。赤坂のクラブで素晴らしい演奏する人がいるなと覗いたら、それがテナーサックスを演奏していたうちの主人でした。彼は谷啓さんや石橋エータローさんなんかと一緒で。
お友達の石橋エータローさんのことを「あいつは少し変わっているんだよ」というから「両方変わった者同士だから合うのよね」と。
石橋さんも主人も酒飲みだから、朝まで飲みながらよくジャズ談義をしていましたね。

日本のジャズのパイオニアとして活動してらしたご主人やクレージーキャッツの谷啓さんや石橋エータローさんとの出会いがきっかけで、森さんは黒人の音楽がお好きになった。

そうですね、そしてもともと興味があって、私は黒人音楽のルーツが知りたかったの。アメリカに行って、教会に行ったりして、黒人音楽っていうのは心の底に流れているものだということを見つけたんですよ。

アメリカの音楽は、まさにそういう黒人音楽の影響を受けて発展してきたんですね。

ニューヨークでジャズ、ブルース、ゴスペル、いろいろ聞きました。本当は行っちゃいけないあぶないブルックリンの端のほうまで出かけて、その時は1人でしたけど、怖い思いはしなかったですね。聞いているとただ派手に聞こえる曲もあるけど、ブルースなんて泣けてきちゃうんですよ、心が痛むんですよね。私自身、戦争中もいい時もあれば悪い時もあったものですから、そういうことを思い出して泣けてくるんですよ。

そういうブルースなどのアフロ・ミュージックは初めて聞いた人でも泣けてくるし、ストレートに入ってきてわかりやすい。音楽そのものが力を持っているから、生意気な言い方ですが、それを踊ると音負けしてしまう。でも森さんは決してそういうことがありません。いつも音楽よりパワーがあって。

踊る時はね、自分で歌わなきゃだめ。身体の奥にしまい込んでいるものを出して歌わなきゃ音楽のエネルギーには負けちゃうんですよ。

難しいことだと思います。森さんだから観客を感動させられる。そういう作品を最初に発表なさったのはいつ頃ですか?

あれは18歳の時ですかね。その時は「ブードゥー組曲」を現代舞踊教会の新人公演かなんかで発表しました。私は感覚的に舞踊協会の人たちと合わない部分があって、30年間やめていたんですよ。
亡くなった美咲安里さんが毎回私の公演見てくれて、あなたね、いろんな人がいないと困るから意地張ってないで協会に戻りなさいよって(笑)。

美咲安里さんのおっしゃるとおり、いろんな舞踊家の方がいらっしゃらなければ舞踊協会も活性化されませんから。

最初、私がいた頃の協会は分け隔てがありましたね。江口系、石井系、高田系。高田せい子さんのお弟子が私の先生だった。
高田先生も一本気な方で、そういうこと言う人はうっちゃっときゃいいのよ、と。ジャズを踊ると、あれはショウダンサーだとかさんざん言われて、私はそれがいやで協会をやめたんです。
そうしたら私がやめてからジャズを使って踊る人がいっぱい出てきたの(笑)。

森 嘉子

森 嘉子 Yoshiko Mori森嘉子モダンダンスカンパニー主宰。
1939年 故彭城秀子舞踊研究所入門。
1954年 マーサ・グラハム高弟、チャナック女史にモダンダンスを師事。
後にカルメン・シターロメロ女史に出
会いアフロダンスの指導を受け、本格的にアフロダンスの世界に進む。
1981年 アルヴィンエイリーダンスカンパニーにてモダンダンスの指導を受ける。
1952年 第9回東京新聞社主催全国舞踊コンクール創作部門第1位 文部大臣賞、彭城秀子作品「自画像」共演。
1998年 六本木俳優座劇場にて”マイロード Vol.1″ソロ公演。同公演により第30回舞踊批評家協会賞を受賞。

林 愛子 (インタビュー、文)
舞踊評論家 横浜市出身。早稲田大学卒業後、コピーライター、プランナーとして各種広告制作に関わる。そのかたわら大好きな劇場通いをし、’80年代から新聞、雑誌、舞踊専門誌、音楽専門誌などにインタビュー、解説、批評などを寄稿している。
長谷川香子 (フォトグラファー)
ステージフォトグラファー 日本写真芸術専門学校 広告・肖像科卒業後株式会社エー・アイに入社。飯島篤氏のもとで舞台写真を学ぶ。幼少時より習っていたクラシックバレエを中心にコンテンポラリー等多くの公演の撮影を経験。現在フリーで活躍中。

森 嘉子 Garden vol.22

森 嘉子 地面を感じなければアフロは踊れない。そして音楽を自分の血にすること、肉にすること

変わらないのは美しい身体のラインだけではない。
森嘉子氏は、静かに湧き上がる情熱で内から音楽を生みだして、今も私たちを魅了し続ける。

自分で決めた道は迷わず進むしかない

平成12年に芸術祭大賞を受賞した先生の作品「遠い道」は、見た人みんなが感動しました。
シリーズ化されている「マイロード」もあります。”道”は森さんの作品を語るうえでのキーワードですね。

自分で決めた道は絶対に迷わず進むしかないですものね。人からは古いっていわれるかもしれない。でも古さとか新しさっていうのは、踊る側の心にあると思うんですね。音楽にしても時代的には古い音楽でも私は古いと思わないんですよ。ジャズなんかでも。

だからスタンダードっていう言葉がある。永遠性がある。胸打つ音楽っていうのはいつになっても変わらない。

日本の童謡にしてもそうですよね。

森さんの舞台は踊りが進むにつれて、ぐいぐいと盛り上がっていって、見ているほうも引き込まれてこちらの気持ちも高まっていく。それは先生ご自身が振付の時点と舞台の上ではいわゆる精神というものが違っているということで。

そうですね、舞台では無になっているんでしょうね。
1時間前と今とではまた自分の精神が違う。だから照明の方が笑うんですけど、私は4回リハーサルをやらないと本番まで行けないの。ちゃんと通してやらせてください、ってどこも手抜きしないの。だからつきあう方は大変です。そのへんでいいんじゃないですか、いやそうはいかない、これができないなら私は踊りませんって(笑)。
舞台の袖から一歩出た時に、なんかこう目の周りに映るものが変わると、私ダメなんですよ。

つまり集中して目指しているもの、舞台を本番とするなら、そこに意識をもっていく時に、目指しているものと違うものが見えるというのは森さんにとっては。

いやなの(笑)。

いつもおきれいでお若くて。自分も含めてですが、年配で、森さんのようにボディタイツが着られるなんて考えられません。森さんは生まれつき筋肉の組成やコントロールする力が優れていらっしゃるんですね。

いやいやそんな、チビだし(笑)。

父の琵琶演奏は今でも踊りの助けに

どのようなお稽古をなさっているんですか?

水曜、土曜、日曜は生徒と一緒にバーレッスン全部やらないと、気がすまないんです。結局、踊ることが好きなんです。やはり母がいたから今の私があるんですね。私の父親は筑前琵琶をやっていたんですよ。女優の高峰美枝子さんのお父さんと同門で、馬込の高峰さんのところへよく連れていかれました。私、琵琶を聞くのが大好きで。雑賀淑子さんも琵琶をやるので、どこかに繋がりがあるのねといっているんです。

生まれた時から琵琶を聞いていらしたんですね。

ちょうど戦争の時にね、「壇ノ浦の戦い」を父が弾いているときに空襲になって。警戒警報が鳴っている真っ暗のなかで弾いていたんですが、結局その琵琶を持たないで防空壕の中に入った。そして焼けちゃったんですよ、家が。

森さんの音楽体験は本当に豊かで、もともとのベースは邦楽なんですね。

それが自分の今の踊りを助けてくれていると思います。彭城先生の影響で、私もお仕舞いをやったりいろいろ学んでリズムも






も違うことを知りました。

西洋舞踊、特にバレエは上に上にと、いかに地上から離れていくかを目指しますが、森さんの踊りは下へ下へと。

下ですね、大地を踏みしめて。振り付ける時に音楽をみんなに聞かせて、これをどういうふうにあなたたちは考えているの、メロディじゃなくて、その底にあるものをまず受け取ってちょうだいというんです。地面を感じないとアフロは絶対踊れないから。そして音楽を自分の血にしなきゃいけない、肉にしなきゃいけない。
アフロをやって、最近はファドやカンツォーネをやっていますが、どれもブルース系で心の音楽なんですね。ファドも黒人がポルトガルに行って、時代を経てできあがった。アフリカからの音楽が根底にあるものはどこかで結ばれている、そのなかに自分は入り込むなって見えていましたから、ファドもカンツォーネも、今、私の道の途上にあるんです。

舞踊家であると同時に自分でつくらなければならないのが現代舞踊ですが、振付のインスピレーションはどこから得るのですか?

創ることが好きなの。踊りを見るのも好きだけど、絵を見ること、お芝居を観ることが好きで、よく俳優座はお客で行くんですよ。あとは展覧会。絵画の色使いとか、陰影がすごく勉強になるんですよね。
絵は誰のでも見ますが、特にモネの色彩が大好きななんです。自分でああいうふうな絵が描けたらいいなと思ったこともありましたね。

健康維持のためには、何かなさっていますか。

自分ではヨガをやっています。昔、カルメン・シターロメロにアフロを習った時、彼女から、ヨガをやるといいと勧められて始めました。ほんとうにおもしろくてずっと続けています。40年前、腎臓を悪くしてネフローゼになって漢方薬を飲んで回復したんですが、今も腸の働きがよくないので漢方を飲んでいます。塩分はひかえめにして、運動をしたあとにいきなり脂ものを食べないように。気をつけているのはそのぐらいで、あとは特別なことはしていません。

Interview,Text : 林 愛子 Aiko Hayashi  Photo : 長谷川香子 Kyoko Hasegawa

森 嘉子 Garden vol.22

森 嘉子 地面を感じなければアフロは踊れない。そして音楽を自分の血にすること、肉にすること

変わらないのは美しい身体のラインだけではない。
森嘉子氏は、静かに湧き上がる情熱で内から音楽を生みだして、今も私たちを魅了し続ける。

苦しい時にいつも踊りがあったから救われていた

森さんも迷ったりめげそうになったことはおありでしょうか。

そういうときに、踊りがあったからよかった。踊ることで自分の心が落ち着くんですよ。私、主人が亡くなった時も、両親が亡くなった時もお葬式出した翌日が舞台でしたから、踊りに救われましたね。だから自分で動けるあいだはなるべく踊っていたいなとは、思っていますけど(笑)。

森さんからご覧になって、若いダンサーに求められること、アドバイスをいただけますか。

あんまり色気を出さないことだと思います。あれだこれだと、ひとつのものを極めていないんですよね、途中でいろんなことをやりすぎる。だからその人独自のスタイルを創り出すのがむずかしい。

創り出すまでには時間も勉強も必要ですが、その前にほかのことをやってしまう、ということですか。

それをよしと認めてしまう先生方が若い世代になったでしょう。先生もそうだから。
それと今、日本そのものが不安定で、人がみんな揺れ動いている。大切なのは、その人の心のあり方だと思います。いや、これは自分の心の中には置いちゃいけないものだと、決められる強さが必要ですね。

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思い出の品

このペンケースは、うちの生徒だった方からのプレゼントです。彼女はもともとジュン・キョウヤさんのところに稽古に行っていたのですが、私の舞台を見てファンになってくださってうちに来たい、と。私もキョウヤさんに、彼女がうちの稽古場に来ることになったけれどもいいかしらとお聞きしたら、よろしくお願いしますと言ってくださった。それで5、6年うちで稽古してらしたでしょうか。彼女は静岡から通っていらしたんですが、ある日ご自宅の窓辺で心筋梗塞を起こして亡くなられたんです。50代の若さでした。私はこのペンケースに爪切りなど身の回りのものを入れて、もう20年以上使っています。

dream

Q. 子供の頃に思い描いていた『夢』は何でしたか?
故 彭城秀子に1939年入門、初舞台が1944年戦時中の慰問舞台でした。早く戦争が終わればと思う日の中で子供心に師の舞台姿が素晴らしく憧れていました。私も負けないでいつかはと思い今日まできました。

Q. あなたのこれからの『夢』は何ですか?
舞踊を志して65年になります。
今までと私の行く道は変わる事なく、常に原点を大事に進む事が大切かと思います。

Interview,Text : 林 愛子 Aiko Hayashi  Photo : 長谷川香子 Kyoko Hasegawa
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