イキイキと輝いて、踊る喜び、楽しさを伝えるのは高い水準の表現力と技術を持つ子供たち。
”かやの木芸術舞踊学園”は常に観客の心をとらえる作品を発表し続けている。その学園長として舞踊界を牽引する平多宏之氏に児童舞踊の魅力を聞いた。
偶然に導かれて児童舞踊の道へ
日本独自の児童舞踊は長い歴史があります。今、バレエの指導者となっておられる先生にも児童舞踊を最初に習ってからバレエに進んだ方が何人もいらっしゃいますが、平多先生はどのようなきっかけで児童舞踊を始められたのですか?
私の生まれた木曽の上松は、昔は娯楽があまりなくて地歌舞伎、村歌舞伎が盛んで、私の父はその師匠で教育委員長も25年していました。私は小さい頃からそれを見ていて、姉も日本舞踊をやって御園座の舞台に立ったりしていまして。
厳格な教育委員長のお立場で、あの時代に日本舞踊を習わせるのはとても芸事に理解がおありだったんですね。
そうですね、両親は偉いなと思う。私も踊りが好きだっていうことは自分でわかってました。
平多正於先生のところで指導者になっていた平多武於という人がいまして、武於先生は上松町の先輩で、私が子供の時によく遊んでくれた人なんです。偶然なんですが、その頃私は畜産技術員で名古屋のほうで仕事をしていました。ちょうど上松の役場で技術員が1人足りなくなって、私が役場に入ることになった。その3日か4日か前に武於さんと会った時「あんた何しとるの?踊りやらんの?」という話になった。「どういう踊り?」と聞いたら、「子供たちの踊りでいろいろな講習もあるんだよ」と。
それで心が動きました。でも父に言ったら怒るに決まっているから母にちらっと話をした。
すると母が「人生は二度とない、あとで後悔するよりは、あなたがやりたいと思ったならやってみれば。やりなおしはいくらでもできる。でもお父さんには前の日まで言いなさんな」と。
それで荷物を全部送っちゃってから話をした。親父は怒りました。どれだけあんたにお金を使ってるか、と(笑)。畜産は器材がすごく高かったので。家には二度と入れん、敷居をまたがせん、と破門状態で出て行ったんです(笑)。
そして東京の平多正於舞踊研究所へ。
あとで父親が来て、平多先生のところが教育的なことをやっていて、講習会も小学校、中学校と広く活動していることがわかって、それならと敷居もまたがせてもらえるようになったんです(笑)。
平多正於研究所が全盛の時だったから、生徒が2000人いまして。もちろん日本で一番、教室は115ぐらいあった。昭和35年ぐらいのことでした。
戦後の日本が、少しずつ落ち着いて景気も上向いてきた頃ですね。
そうそう経済成長が始まった頃です。当時は平多正於のところにいた指導者は40人ぐらい。
東京新聞の児童舞踊コンクールでは正於先生が一位をとり続けていた。先生も厳しかったけど、そういう時にいられたのがラッキーだったと思います。全国講習では北海道から沖縄まで回っていましたし。
児童舞踊の起こり
児童舞踊の起こりってわかります?昭和の初めに島田豊という人が、学校で子供達が表現力がない、表情が暗いのをなんとか元気にしたいとお遊戯をあてぶりなんかで教えていると、それをやっかむ先生たちが教育委員会に言いに行った。
教育委員会は軍国主義の風潮のなかで「あなたは男の子にまで踊りを教えているそうじゃないか。教育をとるのか踊りをとるのか、どっちかにしろ」と。豊先生は、「私はそんなわからん教育委員会のもとで教育をやるつもりはありません、踊りをとります」と徳島から大阪に出て教えていた。
これは実際にあったことですが、昭和天皇が大阪に視察にみえて次の会場へ移動する時でした。豊先生が子供達を集めてSPレコードで音楽かけてやっていたら、陛下が通りかかってピタっと止まって2階へ向かって歩き始めた。
周りが陛下、陛下と止めましたが、天皇陛下が入ってらしたので、豊先生も子供達もみんなびっくりして直立不動になった。陛下は続けてくださいと言って20分間見てらした。
陛下、時間ですといわれると、陛下は島田豊の手をとって「これから教育はこういうことをやらなきゃいかん」、そして習いに来ている子供達に手を添えて「楽しいですか?頑張りなさいよ」と。その子供達は一生自慢にした。僕がこうやって覚えてしまうくらいに豊先生から聞きました。
新聞には視察の写真じゃなく、豊先生と握手しているところが出た。そうしたら教育委員会は、全国の先生方に広めなさいと講習会が始まった。島田豊がずっと全国回って教えていると、全国の先生方が島田に続けとばかりに教職を辞めて、舞踊家に転向したんです。
それで児童舞踊は戦前は教育舞踊といわれました。
先生が、直にお聞きになった天皇のエピソードは有名ですね。
そして島田先生は大阪から東京へ出てきて当時で3億ぐらいのビルを建てました。
講習会ではどの会場も毎日何百名と集まった。私が大分で教えていた時、今日は集まりが悪いなと思ったら、島田先生のところとぶつかって向こうは600人、こちらは30人(笑)。お昼休みに島田先生が来て頑張れよと声をかけていただいたのを覚えています。平多正於舞踊研究所では、おかげさまで身体が柔らかかったもので、私は教えることも踊ることも好きで。
平多宏之 Hiroyuki Hirataかやの木芸術舞踊学園(舞踊ゆきこま会、平多宏之・陽子舞踊研究所)主宰。
※1970年かやの木芸術舞踊学園(舞踊ゆきこま会、平多宏之・陽子舞踊研究所)を中津川市に創設
※1971年より東京新聞主催全国舞踊コンクールに参加し数々の賞を受賞する
第1位、文部科学大臣賞、東京都知事賞(15回)協会賞(43回)指導者大賞(1回)団体奨励賞(12回)童心賞(6回)高田せい子賞(1回)入賞(102回)入選(54回)入賞敢闘賞(9回)入選敢闘賞(2回)
※2004年よりこうべ全国洋舞コンクールに参加
第1位(1回)第2位(2回)第3位(3回)第4回(2回)第5位(3回)第6位(2回)入賞敢闘賞(8回)入選(21回)
※毎年各地区(現在、中津川・瑞浪・多治見・関・小牧の5地区)にて定期発表会を開催
※ 各賞受賞
1984年 島田豊賞 (㈳全日本児童舞踊協会)
1989年 岐阜県芸術文化活動等特別奨励賞
1990年 特別賞(㈳全日本児童舞踊協会)
1996年 岐阜県芸術文化奨励賞
2002年 岐阜県国際交流顕彰
2003年 中津川市民栄誉賞 第1号受賞
2004年 岐阜県民栄誉賞
2005年 チャコット賞
2007年 教育賞(㈶松山バレエ団)
2011年 功労賞(㈳全日本児童舞踊協会)
舞踊評論家 横浜市出身。早稲田大学卒業後、コピーライター、プランナーとして各種広告制作に関わる。そのかたわら大好きな劇場通いをし、’80年代から新聞、雑誌、舞踊専門誌、音楽専門誌などにインタビュー、解説、批評などを寄稿している。
(2012.7/5 update)
イキイキと輝いて、踊る喜び、楽しさを伝えるのは高い水準の表現力と技術を持つ子供たち。
”かやの木芸術舞踊学園”は常に観客の心をとらえる作品を発表し続けている。その学園長として舞踊界を牽引する平多宏之氏に児童舞踊の魅力を聞いた。
コンクール経験が指導者・創作者としての自信をもたらした
もともとご両親のご理解も得て、先生は踊りと親しんでいらしたから。
はい、そうです。たまたま一回、都内の町田の教室へ小坂先生という方についていきました。
小坂先生がご主人の転勤で九州へ行かれて町田の教室はどうするか、となった。
「まだ早いけど、いいか」と新しく入ったばかりの私を指名してくれて、私は上を目指していたから「はい、やらせてもらいます」。吉祥寺ではそこの先生がショウダンサーを目指して辞めることになって、一気に2カ所で教えることになりました。幼時コンクールが昔あった時に私も出させてもらったんですが、あんた早いよ、先輩も出していないのにと言われました。でも運良く、町田も吉祥寺も生徒たちが入賞した。すると人間って不思議なものでそれが自信につながるんですね。
次の年から児童舞踊に出させてください、というと正於先生がいいよ、と。教える側がこれだと納得して、感応できて、そして子供たちの教育になる。
私は人間形成に児童舞踊っていうのは最高の基幹であると思います。
東京新聞のコンクールでは、その幼時舞踊が復活しました。
復活させたのは私なんです。というのも児童舞踊のレベルが上がってしまってみんな出せなくなった。それで幼時コンクールを復活させてほしいということになって東京新聞の馬越さんと一年がかりで考えた結果、出場者をはずすことはしないで、入賞敢闘賞、入選敢闘賞、敢闘賞、おみやげはみんなにあげることにしました。今年からは賞状も全員に一枚ずつあげることになりました。
今、私は3つほど幼稚園の生活発表会をやってますが、ちょっと手を加えてあげるだけで、子供達の踊りが全然変わるんです。先生のところはよっぽどしごくんでしょう?と聞かれることがありますが、しごくのではなく、どうやってやる気を起こさせるかということ。うちで習っている子供たちが学校でもどんどんリーダーになってクラスを引っ張って通知表もよいので、どういう教育をしているのかと校長先生、教頭先生が見に来て、頷けましたというお手紙をいただいています。
うちの生徒で舞踊家にしようなんていう家族は一人もいません。かやの木芸術舞踊学園、舞踊ゆきこま会ではまずどうやって人間形成をしていこうかというのがあるんです。
親も子も一緒に作品づくり
児童舞踊でむずかしいと感じられることはおありですか。
子供たちを、当人も観客も感動させるまでもっていくにはどうしたらいいのか。上手な子は一杯いるんです。バレエ志向の先生方が教えているように、キチっとした基本を持っていてうまいんです。うまいんだけど、内容が。
現代舞踊でもタイトルはついているけれども時々その内容と合わないものがある。実はその踊りはどんな題名つけても合う。そうじゃなくて、タイトルつけた以上はそのタイトルの作品をやらないと。
現代舞踊を見ていると、確かに踊るお子さんがテーマを理解できずにいるために客席にも伝わって来ない場合もありますね。
児童舞踊は民族舞踊からバレエから全部集約されて、子供の成長に合ったものを、とやってきました。今は少子化で、塾に行かせてその子に賭けてしまう。とにかく学校の勉強さえできればいい、と。かやの木芸術舞踊学園では、自作自演で子供たちが親とスキンシップで作品づくりに没頭することになります。これは人生でものすごい力になると思う。
「家族でああでもないこうでもないとケンカしながら、なんとか作りあげた。前はただ揉めていただけだったのがお互い相談できるようになりました。」 逆に、「口もきかなったのが、いい意味でケンカできてコミュニケーションがうまくいくようになりました」と保護者の方々から言われます。
実際どのように作られるのですか?
たとえば今年の東京新聞のコンクールに出た「カニッ、カニッ、カニ」ですが、とことんカニとはどんな生き物かを幼稚園の生徒たちみんなで川に観察に行って絵を描いたりして調べてくるんですよ。そういうやり方で興味を持たせる。それでカニの生態がわかる。でも振付を覚えるのが大変で(笑)、手脚からじょじょにやっていく。さてカニは泡を吹く。この泡をどう表すか。するとお母さんたちがおしゃぶりはどうですか?と。ではおしゃぶりを糸で2,3個つけて動きを出して。カニは穴から出てきて手旗信号って昔からいいますね。じゃ手旗を持たせよう、とだんだん発展させていったんです。子供達は喜んで踊って、自慢話のようで恐縮ですが、あのカニはどうなってるの、ダントツだったと審査員室が初めて沸きました。
本当に振付過程も楽しそう(笑)。かやの木の作品は多彩ですが、先生はミュージカルもつくっていらっしゃいますね。
正於先生の研究所に入った時、先生の作品づくりを見て勉強しながら、自分独自のものを作らなきゃだめだな、と。東京にいる頃、同僚と2人で「ウェストサイド・ストーリー」を見て、感動して立ち上がれないことがあった。その時からいつかミュージカルをやろうと心に決めていたんです。
世界に一つしかないペンダントです。ハワイのアーティストがデザインした物です。(マッコウクジラの骨でできています)魔除け 福を招く と言われています。
Q. 子供の頃に思い描いていた『夢』は何でしたか?
たくさんありすぎて書けません。その時々で夢は変わりました。
Q. あなたのこれからの『夢』は何ですか?
かやの木芸術舞踊学園だけでなく舞踊界全体が市民権を取れるように、残された人生を努力して行きたいと思います。
(2012.7/5 update)
イキイキと輝いて、踊る喜び、楽しさを伝えるのは高い水準の表現力と技術を持つ子供たち。
”かやの木芸術舞踊学園”は常に観客の心をとらえる作品を発表し続けている。その学園長として舞踊界を牽引する平多宏之氏に児童舞踊の魅力を聞いた。
名作「あららぎは谷を越えてゆく」誕生裏話
中津川に戻って10年目からそれらしきものをつくっていました。たまたま中津川で和太鼓を作っているところがあって、子供たちと和太鼓の、世界にないミュージカルを創ろうと思い立った。みんなに相談すると女の子に太鼓を打たせるなんてと反対されるのわかっているから、だまって太鼓を注文した(笑)。
30年前です。家内がいない時をねらって呼んだ太鼓屋さんがびっくりして、こんなにお金大丈夫ですか?(笑) 計算すると1千何十万。稽古場に太鼓が積み上がってから、太鼓教えてくれる人いますかと太鼓屋さんに聞いたらまたあきれられて。太鼓やる人は一杯いるけどその音色になっちゃうから、楽譜がなくて記号で表すものだから、自分でやればいいと勧められました。
それで先生が教えて。
カセットにドンドドンドドンドド、カーッと、それを記号に起こして子供たちに。子供たちは記号を書きながら、先生こんなの覚えられんよ、って。こちらは、あんたたちこの太鼓をどうするんよと半分脅しながら(笑)。ほんとに今でも忘れられない。次の週に一人の女の子が覚えてきた。一人の時はみんな安心しているんですが、次の週に6人覚えてきました。子供達が慌て始めて三週目で全員覚えてきた。それからは早い、できるとなったらどんどん進む。それで1時間の作品「響き」が生まれました。
そして大作へと発展していくのですね。
ある時、吉永淳一先生に、実は私は太鼓のあるミュージカルを、それも子供たちから大人たちに訴えかけていく作品をつくりたいと相談した。変わったアイデアですね、ちょっと考えさせてと言う吉永先生から1週間もたたないうちに電話がきて「木曽の檜が定着するまでの地元に伝わる苦労話をミュージカルにしましょう」。それで郷土史や郷土芸能の研究家の先生を訪ねたら、木曽の檜を定着させたのは木曽人ではなくて尾張の人。だから夏は暑いから足袋と
袷
を添えて送ろうよというのは、尾張から歌われて木曽に定着したのだと。
私は木曽に生まれて木曽のことを全然知りませんでした。
檜笠の前というのがあることを教えてもらった。実は今は檜で作っているけれど、昔は檜を使ったら首が飛んだから代わりに一位の木で笠を作っていた。
飛騨の旅人があららぎに来て体を壊して助けてもらったお礼に一位笠の編み方を教えたという。
その飛騨で育った一位の木とはあららぎのことだと。その足であららぎに上がっていっておばあさんたちに聞くと、笠の編み方を教えてもらって、それが産業になり、時代が変わって檜笠になったということでした。これをもとに子供達が演じたのが「あららぎは谷を越えてゆく」なんです。
国内外で反響を呼んだ作品ですね。
飛騨で山津波にあって両親をなくした女の子があららぎの親戚にもらわれてきた。そこで子供から大人たちから村八分にあっていじめられる。でも女の子は村に入っていこう、入っていこうとします。やがてその子は一位笠の編み方を子供たちに教え、村の子供たちは太鼓の打ち方を教える。
これはおおまかなストーリーですが、子供達が大人より先に友情を育み、ものを創り出していく。どの時代にも合うテーマだと思っています。
子供達から友情や勇気を発信することは、まさに立ち直りが求められている今にふさわしいですね。長年、大勢のお子さんを見ていらしてご苦労はおありですか。
苦労というか、いつも思うのは、コンクールでも公演でもこの舞台で子供たちがどういう発見をしてくれるかなということですね。私は、やるんだったら理解できる、感動できる、それがないなら無に等しいということを平多正於から学びました。何にも感じないものを子供に踊らせてどうするのか。子供達もわかってて喜んでやる、見てる人達もそれに感動する。
親御さんにも子供たちにもよく言うのは、向かう人生は楽しい、逃げる人生は苦しい。
だから逃げちゃだめ。前向きに前向きに向かっていこうよ、と。舞踊家だから、ただ振り付けて踊らせればいい、ではなく、ほんとのコミュニケーションを大事にしていきたいと思うんです。
太鼓のあるミュージカル 連作 童んべたちの声 第一作 『あららぎは谷を越えてゆく』[日時]2012年8月17日(金) AM11:30開演/PM15:30開演
[会場]こどもの城 青山劇場
[チケット料金]指定席8000円/自由席6000円