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Interview
インタビュー

森山開次 Garden vol.26

森山開次の舞台は、強い引力で私たちを虜にする。それはいつも新鮮、なのにどこかなつかしい。強靱でしなやかな身体があらわした苦悩や悲哀がやがて希望や喜びに転化されていく時、知らず私たちの心も浄化されていく。今回は、そんな彼の舞台裏について聞いた。

Interview,Text : 林 愛子 Aiko Hayashi
Photo : 川島 浩之 Hiroyuki Kawashima
協力 : アーキタンツ

新たな覚悟と決意を持って

ここではできるだけいろいろなお話をうかがって森山さんの言葉をご紹介させていただきたいと思います。いきなりで恐縮ですが、運動がお好きで小学生から体操選手を目指して練習を受けていらした頃に交通事故に遭われた。しかもそれがひき逃げというかたちだったそうですが。

小学校5年生ぐらいだったと思いますが、最初の夢が体操選手になることでした。1年間はけっこう一生懸命やっていて、そういう時に事故に遭ってしまって。怪我が治ってからも継続すればよかったんでしょうけど、子供の頃はその時々でいろんなふうに感覚が変わるもので、夢がポンと終わってしまった気になったのです。今なら、それはそれで受け入れられると思いますが、当時は進学するにも自分がどこに行けばいいのかわからなくなって、事故がなければもう少し前に進んでいたのかなという思いはありました。兄は体操を続けていたのでその姿を見ながら、小学校の高学年で、夢だけではなく気持ちまでぷつんと切れちゃったんですね。あとは何をしても手につかなくて。

思春期の多感な年頃ですね、小学校高学年は。その頃はどんな少年だったのですか?

なんかこう一歩出るのが怖くなっているという、あんまり積極的ではない感じ。何においても下がりぎみの少年というか、自分の意志を強くもたない感じでやっていたかもしれませんね。

でも大学にいらした。

はい。ただ、入学できる大学をみつけて国際関係学部というところに入りました。たまたまそういう流れになってしまったというか、高校もそうですが、どちらかというとなんとなく、でした。

その頃にミュージカルに出会われたのですか?

それが音楽座の「マドモワゼル・モーツアルト」でした。モーツアルトは女性だけど男性のふりをして演じるなかでいろんなキャラクターになるんですが、精霊が出てきてそれがモーツアルトのオペラのなかの彼女、彼の心を代弁したり守ったりという演出でした。僕はほとんど演劇を見たことがなかったので、すごいなぁ、と。あとで聞いたら、演出家が1枚の白い精霊が描かれている絵を見てモーツアルトの登場人物としてイメージしたそうで、踊りのシーンも多かった。そんな踊りの要素にも惹かれたことはあったかもしれないですね。

それで音楽座に入ったんですね。

はい。でも、ミュージカルに入って、大半の人はまず踊りたいというふうには思わない。どちらかというと歌や演技がメインだったりするので、僕も入った時は歌いたい、お芝居したいという思いがありました。勢いでその研究所に入ってみて、学費が思いのほか高く、大学を中退した以上親に甘えるわけにもいかないと自分で払っていたので、はじめからけっこう大変でした。

両親の愛情に守られて

お身体のほうはもう大丈夫だったのですか。

交通事故の影響は2、3年ありましたが、それ以降は、まあ心身古傷が痛む(笑)っていうぐらいは言ってましたけど(笑)。

舞台を拝見してもそうですが、こうしてお会いしてみて改めて感じるのは、森山さんの深さ、優しさは生まれ持ってのものでもある、と。

父や母の影響が大きいのかなと思います。僕は小さい頃からいつも怪我ばかりして心配かけて。交通事故に遭った時も母さんごめんねって心の中で思っていたことを思い出しますけど、そういう母が4年前に膠原病で亡くなって。

お母様、おいくつでいらしたんですか。

六十です。

お若かったのですね。

あれは音楽座に入った時かその前後でしたか、母が病気なのにこんな世界に入っていいのだろうかという葛藤がありました。

それは、どこかに勤めてきちんと働いたほうがいいのではという思いですか?

はい。同時に父も脳血栓で倒れたりして、両親とも調子が悪くて働けなくて。3人兄妹ですが、兄も妹もなぜかこういう世界に惹かれていて、いいのかな、いいのかなってみんなで思いながら、でも追いかけたい、追いかけたいと思ってやっていたんですね。

葛藤もご両親を思えばこそなんですね。森山さんからごらんになって、ご両親はどんな方々ですか?

おおらかだった母は歌が好きで、ものをつくるのが大好きで、料理好きで、洋服でも何でもつくっていた。父は九州男児の見本みたいな人で、寡黙で多くのことは話さないんですが、覚悟とか、強さみたいなことを教わった気がします。父は設計技師なんですけど、自分で図面を引いたり舞台美術を考えたりしていると、父や母の血を継いでいるのかなと思ったりします。

愛情深くて、アーティスティックなご両親に見守られていたのですね。ご両親は森山さんの舞台をご覧になっていらっしゃいましたか。

はじめは自分からこういう世界に飛び込んだんですが、いろいろ進めていくなかで母はじめいろんな人が喜んで、見に来て応援してくれて。そのことが、いつの間にか自分が踊っていこうという夢のモチベーションになっていました。大学時代にこの世界で何かを追いかけていこうと決めた瞬間は別として、そのあと数年ぐらいはなんとなく背中を押してもらっている感じがあり続けることができました。

能との出会い

森山さんは子どもの頃から踊っていたわけではないことが逆に魅力のダンサーですが、技術的なことについてはどう思っていましたか?

技術を身につけるのは遅かったですけど、クラシック・バレエのテクニックを学んで、ピルエット何回回れる、きれいに跳べるとか、いろいろ習得している時は楽しかった。もっともっと磨かなきゃいけないですけど、この世界に入った時が遅かったというようなデメリットが、少しずつ身体が柔らかくなっていく楽しさとか喜びに変わっていったんですね。

森山さんの舞台では「弱法師」が強烈でした。

あの時は新国立劇場の望月辰夫さんが声をかけてくださり、相手は加賀谷香さんでどうか、と。ミュージカルをやっていることからきていると思いますが、何か役を演じるという感覚が自分のなかにありました。僕のワークショップを受けていた小宮求茜さんという書家の方が「弱法師」のことを教えてくださって、写真や絵を見せてくださった。モダン・ダンスの加賀谷さんの踊りを見ていたので、盲目の男が、梅の花の匂いで一瞬開眼するような悟りをひらくような思いになるというストーリーにピッときて、梅の花の精を加賀谷さんにやってもらいたい、と。

彼女のイメージにぴったりですね。

加賀谷さんは木のような強さもあり、花のようでもありますから。でもほんとにお恥ずかしいですが、僕はそれまで能についての知識がありませんでした。「弱法師」で、小宮さん、写真家の森田拾史郎さん、津村禮次郎先生と出会うことができました。それからどんどん、どんどんもっと違う話を知りたいという思いがふくらんでいって。今でも知らないお能がいっぱいありますが、一つ一つ学ばせていただいて、自分なりにアプローチしていくことに挑戦させていただいています。

林 愛子 (インタビュー、文)
舞踊評論家 横浜市出身。早稲田大学卒業後、コピーライター、プランナーとして各種広告制作に関わる。そのかたわら大好きな劇場通いをし、’80年代から新聞、雑誌、舞踊専門誌、音楽専門誌などにインタビュー、解説、批評などを寄稿している。
川島浩之 (フォトグラファー)
ステージフォトグラファー 東京都出身。海外旅行会社勤務の後、舞台写真の道を志す。(株)ビデオ、(株)エー・アイを経て現在フリー。学生時代に出会ったフラメンコに魅了され現在も追い続けている。写真展「FLAMENCO曽根崎心中~聖地に捧げる」(アエラに特集記事)他。

(2014.2.25 update)

森山開次 Garden vol.26

森山開次の舞台は、強い引力で私たちを虜にする。それはいつも新鮮、なのにどこかなつかしい。強靱でしなやかな身体があらわした苦悩や悲哀がやがて希望や喜びに転化されていく時、知らず私たちの心も浄化されていく。今回は、そんな彼の舞台裏について聞いた。

Interview,Text : 林 愛子 Aiko Hayashi
Photo : 川島 浩之 Hiroyuki Kawashima
協力 : アーキタンツ

阿修羅像の魅力

ところで、有名な興福寺の阿修羅像がありますね。人々がこの像に惹かれるのは、少年でも少女でもあり、大人でもあり子供でもあり、そのいずれでもない、この世の者のようであり、超越した神でもあるというミステリアスな存在感を放っているからだと思いますが、森山さんの舞台からはそれを連想します。

多田富雄先生がたまたまお能のつながりで見に来てくださった。「弱法師」をやる前ですが、僕の公演を見て、「伝」という能の雑誌に詩を書いてくださったんですね。それから何度か見にいらしてくださって、次はこのテーマで踊りなさいといろんな課題をいただいた。実はまだ達成できていないテーマもあります。僕にとって能との出会いはとても大きくて、その阿修羅っていうのも多田先生がおっしゃった。

多田先生は免疫学者でお能にも深く通じておられる方。先生はすでに感じていらしたんですね。私は森山さんの舞台を見て、生身でこういう人がいるんだと驚きました。

ありがとうございます。自分でもあの阿修羅の姿を見ているとシンクロできる部分もありました。自分の表情のなかにも、何かを守るものであったり何かを責めているような目であったり、何かを憂いているような目であったり。そこにはひとことでは言い表せないいろんな思いがあるんだなと。

新しい発見

一方、あのNHK教育テレビの「からだであそぼ」では、子供さんと戯れるという感じでしたね。あれはまた違う森山さんだったと思いますが。

まさか自分が子供のために踊るなんて思ってもいませんでした。ちょうど自分に子供ができたときに、子供に対してのテーマをいただいて、コスチューム・アーティストのひびのこづえさんやいろんな方に出会って、それまで自分が出せていなかったものを引き出してもらうことができました。でも思い返してみれば、あれは僕自身です。僕そのものかもしれない。コミカルに演じたりすることも、実は僕もそういう面があることを思い出させてくれました。

森山さんの舞台で、もう1つ強烈に印象に残ったのは、“獣みたいな、鳥みたいな、天使みたいななにか”という「スケリグ」でした。

僕もあの作品はすごく思い出深いものですね。ダンスをしながら台詞を喋るという機会もいただいた。ミュージカルを目指している時にまず自分の声と向き合って、声で表現したいという思いも小さい時からあったものですから。

お聞きしていて心地よくなる、とてもいいお声ですものね。

昔から叫びたいという願望もあったんです。手をあげて意見を言えない子供で(笑)、人前で意見を言いたいと思っても言葉が見つからなかったり、見つかってもしゃべれなかったり。演劇に入って大きく声を出す機会をもらって、発声練習ってなんて気持ちいいんだろう、歌いたい、しゃべりたいという思いが強かったです。
ただミュージカルでは決められた台詞を滑舌よく喋らなければいけないとかいろんな制約もあって台詞もすぐもらえません。もらえても「いらっしゃいませ」みたいな、ウェイターのバイトでさんざん言っていたもので(笑)。童顔で低い声だったから、その声は合わない、もし歌で主役をやりたいのならもっとハイ・トーンが出ないとダメだと。踊りのほうに行ったのはある意味、言葉から逃げた部分もあったんです。踊りのほうが言葉をしゃべらなくても伝えられますし。

筋肉やプロポーションといった身体的条件にも恵まれていらっしゃるし。

森山 親からもらったんですが、手を伸ばせば、なんか人よりは長いなぁという…。決して足は長くはないけれど、少しずつ踊っていく中で発見をしてのめりこんでいったのも事実です。でも言葉から逃げたのも事実かもしれない。

スケリグには新たな発見もあったんですね。

自分でイメージしたスケリグというキャラクターの声をそのまま出せばいい、と。声を出すことも実は踊っている時とすごく感覚が近くて、スケリグの身体がリウマチという設定でしたから、少年に向かって「何が望みだ」って身体をこわばらせながら僕がしゃべる。その言葉がいつもまとわりつくように自分に向かってしゃべっているようでもあった。「何を望んでいるんだ」って。   その時、考えました。たまたま母がリウマチ系の膠原病だったこともあって、身体って重たいな、でもスケリグは軽く跳ばなきゃいけない。きっと技術だけじゃなくて、ゆがんだ身体であっても表現できることがある、その年齢によってできることがある、と。

人を立てつつ引いて目立つ

ご自分を外に開放して遊んだり、深く、深く集中していったり、「曼荼羅の宇宙」のように、大気や空気に溶けこんで舞ったり。森山さんはほんとうに自在ですね。

それは表現のいろんな機会をいただいていろんな人に出会うからだと思うんです。自分が次男坊で家の中でもバランスをとって仲介役みたいに、母の声を聞き、父の声を聞き、兄の声を聞いて。友達同士でも同じです。それと僕のカラーかもしれませんが、なんとなく自分がいつも透明でいよう、と。もちろん自分の感情をコントロールできなくて怒ったりすることも時々ありますけど、自分を遠くからみているみたいな感覚もあります。
ソロダンスの発表をしながらいろんな作品に出てきましたけど、ジャズダンスでもなんでも自分をそれに染めていくみたいなことが好きだし、おもしろい。今度はこういう自分にしてみよう、と。人を立てつつ引いて目立とう、というのが好きなのかもしれませんね。

だからいつもコラボレーションが成功しているんですね。

津村先生は僕の目標なんですが、タブーかもしれないことまで挑戦してくださって。僕は怖れも知らず、じゃ先生、上半身脱いでいただけますか(笑)、先生倒れてください。先生は「能にはないんだけどね」とおっしゃりながら受けてくださる。津村先生の師匠である津村紀三子先生も開拓精神とかチャレンジする精神がおありだった。だから、先生もそれを受け継いでいらっしゃるんだなと思って。

津村先生とのコラボは拝見していていつもほんとにおもしろいですね。振り返って二十代の頃は、踊りつつ発見という感じでしたか。

そうやって旅をしてきたという感じですかね。時々戻る時もありますし、止まっちゃう時もありますけど、踊り始めてまだ18年、19年。僕、昨日で四十になったので、まだ四十歳かぁ!って感慨深く思っていました。それまで賞について考えたこともありませんでしたけど、昨年いろいろな賞をいただいて、多くの方が見ていてくださったんだな、と気づき、深く感謝しました。

dream

Q. あなたが子供の頃に思い描いていた『夢』は何でしたか?
小学生高学年頃は、オリンピックの体操選手になることを夢見ました。
中学生の頃は、歌手になりたいとも思ったこともあります。

Q. あなたのこれからの『夢』は何ですか?
ずっと踊り続けてゆくことかな。

favorite

思い出の品

“こだわりの品”
これはもともと母が作ってくれたものを真似して妻が作ってくれました。僕が小学校の時、社会見学で鎌倉に行き、リングの中にガラスがはめてあって透かして見ると仏様が入っているというものを買いました。そのガラスの部分をなくしてしまい、母が「なんだかバチが当たりそうね」と、リングだけとっておいてくれて、そこに古ぎれを使って3つの玉をつけてくれたんです。実は、海外に行った時、僕はそれをはずして飛行機の中に置いてきてしまいました。母が亡くなったあとでしょうか、僕が悔やんでしょげていたら、妻が作ってくれたんです。
僕は亡き故人の思いをもって生きていくことを大事にしなければと思っています。それが死者を蘇らせる一つのやり方でもあるか、と。伝統芸能に生きていないので憧れもあり、1人で自由だからあえて伝統芸能からモチーフを引っ張ってくるのかもしれません。この円のリングに対しても思いが強くて、能舞台は四角ですが、円のリングから発想して「HAGOROMO」でも使いました。

(2014.2.25 update)

森山開次 Garden vol.26

森山開次の舞台は、強い引力で私たちを虜にする。それはいつも新鮮、なのにどこかなつかしい。強靱でしなやかな身体があらわした苦悩や悲哀がやがて希望や喜びに転化されていく時、知らず私たちの心も浄化されていく。今回は、そんな彼の舞台裏について聞いた。

Interview,Text : 林 愛子 Aiko Hayashi
Photo : 川島 浩之 Hiroyuki Kawashima
協力 : アーキタンツ

今はとにかく鼓舞激励をしたい

震災以降、今の日本には漠然とした不安感も漂っているような気がするんですが、こういう時代に森山さんは舞踊についてどう感じますか?

そうですね、はじめはただかっこよく踊りたいと思っていましたが、とにかく今は鼓舞激励をしたいという思いが強いですね。踊るにしても人前に立つ以上は激励をしたい、そういう作品をつくりたいとは思っています。その表現は直接的なものばかりではないかもしれませんが、観にきてくださったお客様を力づけたいという気持ちが根底に強くあるのは事実です。

今の若い人たち、悩める若いダンサーたちにアドバイスをいただけるとしたらどのようなことでしょうか。

僕、アドバイスできる立場にないですけど、一言ではなかなか言えないんですが、とにかく、一つ一つの出会いを大事にすることしかないかもしれない。でも、はじめの頃を思い返してみると、とにかく自分にハッタリをかましていこうと思っていましたね。大学に行きながら生活のためのバイトに追われ、全然勉強する時間もなかったけど、これはたまたま大学の先生が言った言葉だったんです。

自分に対してのハッタリということですか。

はい。自分が自信をなくしている時だったので覚えていたんだと思うんです。その後ダンスのレッスンを受けているときに、僕は、この先生に3年で追いつく、1年でここまで到達するとか、人には言わないけど自分のなかでハッタリをかまして。そうして自分を奮い立たせていた。自分にハッタリってヘンな言い方ですが、自分が頑張れる言葉や方法を見つける。見つけるのはそれぞれ自分だし、それは物でも何でもいいと思うんです。

作品では、つい最近「LIVE BONE」が話題になりました。

LIVE BONEはホネや内蔵をモチーフに身体をめぐる壮大な宇宙をテーマにしていますが、応援団をやるような気持ちでもあるんです。普段なかなかやりにくい“フレーフレー身体”“フレーフレー自分”“フレーフレーみんな”みたいなことを組み込みたくて、振付は応援団の例のこれ(両腕を前と横に振って)を、最後にやるんですけど(笑)。

おもしろそう(笑)。

中学生の時に応援団の副団長をやったことがあるんですけど、母親も僕に「私はおまえの応援団長だよ」っていつも言ってくれました。自分の子どもにもいつも大丈夫、大丈夫って言っていますけど、僕も子どもの応援団長でありたい。前に「狂ひそうろふ」という作品を発表しましたが、大事にしているのは狂うという言葉で、これは能の言葉で演じると舞うという言葉の同義語だと知りました。人前に立って意図的に狂う。狂って魅せるんです。それで鼓舞激励するんです。
人前に立つということは、人と会うということです。人に会うことで何かを発したり表現したりする。人である以上、それをし続けていくのが宿命かもしれません。そして僕達は常に人前に立つわけです。僕は昔、影の闇の中で光をみながら踊っているほうが気持ちいいなと思っていましたけど(笑)、今は、光をバーンとあててもらって、私、今から踊りますと、覚悟と決意をもって舞台に立とう。そんなふうに思っています。

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