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Interview
インタビュー

鈴木稔 Garden vol.27

親しみやすい物語バレエからエッジのきいたコンテンポラリーまで、鈴木稔氏の作品づくりは驚くほど幅広い。スター・ダンサーズバレエ団のバレエ・マスターとして若手の育成にも力を注ぐ鈴木氏のスタートはまずダンサーだった。その例にもれず素顔は少年のように若く、感性にあふれる語り口はみずみずしく快活だ。

Interview,Text : 林 愛子 Aiko Hayashi

鈴木版「くるみ割り人形」の誕生

2012年にバレエ団が初演した鈴木稔版「くるみ割り人形」もこれまでになかった演出と振付で話題になりました。どのようなきっかけでこれを作ることになったのですか。

僕はかなりアバンギャルドでマニアックなものを作るのも大好きで、そちら側の作品に高い評価を与えてくださる方々もいらっしゃる。ちょっと乱暴な言い方ですが例えるなら「左手側」の作品。しかしそれらはごく限られた範囲で、幅広い観客層に見ていただくというのは少々無理がある。そこまで専門的な知識を必要としない作品、例えば一般的なグランドバレエにしてもこの域を出ない場合があります。バレエ団が近年はじめた「小中学校や養護施設などでバレエを見てもらう」という文化庁からの委託公演をするようになって、それをより強く感じました。大都市からちょっと離れた環境にあるそれらの場所で「バレエを生で見た事がある人は居ますか?」と聞いても、大して手は挙げてもらえない。

それは地方で?

東京でもあまり状況は変わらない。子どもたちが一生のうち何回バレエを見るかわからないけど、バレエの楽しいところ、見やすいところを凝縮した分かりやすいバレエを作ろうと。バレエを身近に親しんでもらうために、例えば生のオーケストラのコンサートで、小さなスペース、短い時間で全幕バレエを見てもらうとか。学校での公演も含めてこちらは「右手側」の作品と言えるかと。

「ドラゴンクエスト」や「シンデレラ」のようなエンターテイメント性のある作品ですね。

はい。スターダンサーズ・バレエ団は大きな規模ではないし、「ドン・キホーテ」や「白鳥の湖」の全幕をやることを望んで発足したバレエ団でもないので、あるていどコンパクトでなおかつ楽しんでもらうことを念頭において、僕のなかで先ほどの右と左、両方で刺激しあってまず「シンデレラ」をつくってみた。そして次は、となった時に、クリスマスには欧米では各バレエ団が“くるみ”をやりますね、それでどうせやるなら、「くるみ割り人形」を、と。でも“くるみ”はいろいろ突っ込みどころが満載なんですよね。

そうですね(笑)、一番突っ込めるかも。

掘り下げていけばいくほどわけがわからなくなる(笑)。バレエの原作のおどろおどろしいところからスタートして、やれコッペリアの砂男とか、ホフマン物語のいわば錬金術の時代、科学と魔法の端境期みたいなところから、無から有が出てくるという背景がある。でもバレエでは、なぜお菓子の国に行くだろう、と。

いわゆる古典の“くるみ”では、1幕と2幕がまったく違ってしまうという流れですね。

バレエ団はピーター・ライト版の「くるみ割り人形」も上演させていただきましたし、僕もそこからたくさん勉強させてもらいました。しかし西洋ではやはりクリスマスは特別な行事で、彼らの宗教感とも密接している。いわゆる古典は僕ら日本人からすると違和感とまではいかなくても、なんだか不思議な感じがする事がある。流れが違うなと感じても、あまりつっこまない方が良いのかなということもある。同じピーター・ライト版「ジゼル」もバレエ団のレパートリーですが、その中で母親ベルタはおそらくジゼルと同じように貴族にだまされて娘を生んだのであろう、だからアルブレヒトに対してはジゼルの父親と同じ匂いがあるので彼を警戒する、という解釈と演出があります。これによってストーリーがとても骨太になる。バレエにとって必然が一番大切なことではありませんが、観客に分かりやすく親しみやすくと考えると、こんなふうに改訂演出してみるのも良いのかと思います。

振付家は水槽に水を張るだけ、ダンサーはそこで泳げばいい

鈴木版では、まずクリスマスの市が立つ広場が舞台で、クララの夢では、彼女がドロッセルマイヤーの持っている人形芝居の小屋に忍び込む。雪片の踊りもコンテンポラリー風で。スターダンサーズ・バレエ団らしい独自性を打ち出して、ダンサーたちの資質がとても生かされていました。

もともとスターダンサーズバレエ団は上演作品に対して、適材のダンサー達をバレエ団の内外を問わず出演させるというスタイルでした。ここ20年はバレエ団所属のダンサーたちも育ち、僕の作品も多くなってきました。作品に人を当てはめるだけではなく、人材を生かした作品も作れるようになりました。例えば「ドラクエ」もそうです。先ほどの「左手側」の作品に強いダンサーたちも居て、だからくるみの雪片の踊りもああいう踊りになりました。また新しいダンサーたちが増えてきましたので次回作にも影響があると思います。

それは楽しみですね。「ドラクエ」の初演は西島千博さんの主役で拝見しました。これは再演が重ねられていますが、そこではまた違うダンサーがまた命を吹き込む。

そうですね。だから新しいキャストになって作品の感じがずいぶん違うなと思われることもあるでしょう。「私はこの役をこう踊る!」というダンサー。これがなきゃダメですよね。しかしダンサーはあくまで作品の中でのみ生かされるんです。バランシンの言葉ですが、自分は水槽を作って水を張る、君たちダンサーはその中で自由に泳げば良い、でも水槽から飛び出したら死んでしまうよ、と。実はこのやり取りが一番楽しい。振付家の醍醐味ですね。

鈴木稔

鈴木稔 Minoru Suzuki

1958年 東京生まれ。
1977年 小林紀子バレエ・シアターに入団。
1983年 渡米。ニューヨークのチェンバー・バレエ団に入団。翌年コロラド・バレエに移籍し、多くの公演に参加。
1986年 帰国。
帰国後は、多くのバレエ団に客演するかたわら、振付家としても盛んな活動を展開。
1993年 スターダンサーズ・バレエ団入団、バレエ
マスターに就任。
1999年 文化庁在外研修員としてウィリアム・フォーサイス率いるフランクフルト・バレエ団にて研鑽を積む。
2000年 帰国。

また、NHKニュイヤーオペラコンサート、日本フィル夏休みコンサート、藤原歌劇団オペラ公演などのバレエシーンの振付も手がけている。近年では、日比野克彦、ひびのこずえなどのアーティストとのコラボレーションにも、積極的に取り組んでいる。
日本バレエ協会振付奨励賞、音楽舞踊新聞村松賞、芸術選奨文部大臣新人賞など多くの賞を受賞している。

(2014.7.15 update)

鈴木稔 Garden vol.27

親しみやすい物語バレエからエッジのきいたコンテンポラリーまで、鈴木稔氏の作品づくりは驚くほど幅広い。スター・ダンサーズバレエ団のバレエ・マスターとして若手の育成にも力を注ぐ鈴木氏のスタートはまずダンサーだった。その例にもれず素顔は少年のように若く、感性にあふれる語り口はみずみずしく快活だ。

Interview,Text : 林 愛子 Aiko Hayashi

正式にバレエを始めたのは18歳

もともとはお母様がバレリーナで、お父様も舞台の制作関係で、舞台芸術の雰囲気があふれた環境で育ったんですね。

あふれていたけど、ある時期までイヤで拒否をしていて。甘ったれで母をバレエにとられちゃうという、情けない一人息子でした。父親については寝顔しか見たことがない、朝は寝てる、夜中しか帰ってこない、と。屈折しますよね(笑)。

レッスンはいつから始めたんですか?

ちゃんと始めたのは18歳です。あまりにもバレエが身近すぎたんですね。物心つくまでは踊っていましたが、でも聞かれるとマイナス7ヶ月からやっていたって答えていました。(笑)

お母様のお腹の中の頃から。(笑)

母が妊娠3ヶ月で、あなた、今踊ったら流産しちゃう、だめでもいいならやりなさいと言われて舞台に出ていた。あやうく殺されるところでした(笑)。

結局それは踊る運命にあったということで。

4歳ぐらいまではわからないからやっていると、幼稚園で、なんだ、男なのにバレエなんかやって、となるじゃないですか。だからレッスンはやめちゃった。でもいやだろうがなんだろうが公演は見せられまた。祖母に手を引かれて、「3幕になると黒い衣装着てママ出てくるからあんた見ていなさい」と。また黒鳥かー。ジゼルの一幕なんかは上野の文化会館のらせん階段のところで待っている。「2幕になるとママは白いの着て出て来るから、」。ミルタかよーまた見るの?そういう時期が小学校低学年まであって。(笑)それからもことあるごとにバレエ公演は見させられました。おかげさまで子供なのに目だけはこえちゃいましたね。(笑)

今は、男の子が踊るのを新聞もテレビも紹介してくれますね。

バレエだけじゃなく、80年代後半からはマイケル・ジャクソンみたいな存在も大きかった。かっこ良く踊るっていうところを示してくれましたから。

それ以前は男の子が踊ることに抵抗を持つ人がけっこういましたものね。18歳でバレエをやろうと思ったのは、踊りの良さを見いだしたということですか?

単純に何をやっていいかわからなかったんですね。それで、さあ高校が終わる、なんか働かなきゃいけないんだろうなと漠然と思っていて、で、はじめは裏方なんです。おやじの仕事のほうがおもしろくなっちゃった。

それも貴重な経験ですね。

そうして、バレエをいざやり始めると簡単にはいかなくて。母からはほとんど習ったことはなくて、どうせあんたは私の言うことはきかないだろうしスタジオを継ぐわけないし、ダメでもともとなんだから、と。最初に行ったのが小林紀子先生のところだったので、アカデミックなことは厳しく教えていただいた。スタートは遅かったけれど、小林先生に感謝しています。服部智恵子先生もご尊命で何回か教えていただいたんですけど、当時、先生の言葉が抽象的でわからなかった。でも覚えているんですよね、跳ぶときには床を上げるんだ、とか。服部先生が「バレエ花伝書」をお書きになっていますが、それが今、自分にもとても役立っているんです。

舞台は自分が楽しまなければできない

海外にも行ってらっしゃいますね。

ニューヨークのチェンバー・バレエ団とコロラド・バレエ。小林先生にはロイヤルスタイルで教えていただいたけど、どうも踊りたいと感じたのはそっちのほうで、不義理をして飛び出して行きました。3日でしっぽ巻いて帰ってくるか、3年もつかといわれて、3年になった。それは大きな体験でした。

行きたいと思われた一番の理由は何ですか。

僕の頃は同い年でバレエやっている男子は、坂本登喜彦とか樫野隆幸とか5人しかいなかった。いいことも一杯あって、谷先生とか友井先生、松山先生という大先生の方々に可愛がっていただきました。でもそこから逃げたくなったんです。たいしてうまくないのに期待値だけは大きくなるし、ハッタリだけで舞台に立ってましたし(笑)。自分の実力はどれぐらいなんだろう、まったく僕の舞台を見たことがない人たちの前で踊るとどう評価されるんだろうという思いがありました。

アメリカでの経験で、今、ご自分で生かしていることはありますか?

一番はやっぱりプロとしてやるっていうことですかね。僕のこと何も知らないお客さんにストレートに喜んでもらえることがありながら、最初は自分が日本人だからストイックにやっていた。でも、君を見ているほうが緊張してしまうからやめてくれ、それじゃつまんないって言われて(笑)。もちろん舞台は自分が楽しまなければできないんですが、僕はシンフォニー踊るにはまじめにやらなければと思うわけです。一方でバレエはパフォーミングアーツだから、今日のショウは何時からって言い方をする。それでああ、ショウなんだ。それを芸術として感じる人もいれば、エンターテイメントとして感じる人もいるということで舞台は成り立っているんだな、と。自分が楽しむと言っても手を抜いてヘラヘラするということではなくて、楽しんでもらう立場の人が楽しそうでなければ、見る人たちは楽しめないということでしょうか。

favorite

思い出の品

思い出の品

バイクはバレエを始める前から乗っています。気に入った6台はBMが3台、あとはホンダとベスパですが、僕の場合、コレクションではなく全部に乗っているんです。実は子どもの頃からレーサーになりたいという夢を抱いたほどのバイク好きで、バイクの魅力は一人になるということ、走っていないと倒れてしまうこと。この哲学的なことはあとから認識したことですが。現代バレエでいうとたとえばベジャール作品で、なぜここにロックミュージックが入ってくるか。なぜなら人間の記憶は飛ぶから。それをモザイクのようにステンドグラスのようにつなげていく。その対極にあって1番遠い世界がバイクなんです。手を放せば、無茶すれば死ぬよ、というところが。バイクに乗っていると独特の空気感があります。風がなんとなく雨の味がするとか、もう夏になったなとか、冬になったなとか、その季節より前に感じられる。皮膚感覚でいえばバレエと変わらないんですね。稽古場にも乗って通っています。

dream

Q. 子供の頃に思い描いていた『夢』は何でしたか?
お医者様になりたかった。
幼い頃はとても病弱で、小学校を卒業するまで毎年延べ1ヶ月ほどは病院生活でした。
毎日毎日、痛~い注射をされていたので、いつか痛い目にあわす側になってやる!と思っていました。
(これは夢じゃなく願望的な妄想ですね…)

Q. あなたのこれからの『夢』は何ですか?
バレエに携わるものとしては、バレエの魅力、バレエの持っている力をもっと多くの人々に知ってもらいたい。
私の作品を見た人がバレエを好きになってくれること。
個人的には世界中の道路が続いているところ全てをバイクで走破したい。

(2014.7.15 update)

鈴木稔 Garden vol.27

親しみやすい物語バレエからエッジのきいたコンテンポラリーまで、鈴木稔氏の作品づくりは驚くほど幅広い。スター・ダンサーズバレエ団のバレエ・マスターとして若手の育成にも力を注ぐ鈴木氏のスタートはまずダンサーだった。その例にもれず素顔は少年のように若く、感性にあふれる語り口はみずみずしく快活だ。

Interview,Text : 林 愛子 Aiko Hayashi

答えを見つけたフランクフルト

鈴木先生の経歴はユニークですね。バレエ環境にお育ちなのに、一直線ではないという点で。

僕には踊りの神様が三人いるんですけど、一人はジョージ・バランシン、もう一人がウィリアム・フォーサイス、そして植木等さん。

植木等さんといえば「スーダラ節」の。

そうなんです。子供の頃クレージーキャッツの映画が大好きで、その音楽をかけて自宅の稽古場で踊って遊んでいたんです(笑)。むちゃくちゃなノリの、エンターテイメントのなかでのダンスですよね。ノリで体を動かす、踊りの原点を教えてくれた人。バランシンはいわずもがなで、バレエをひとつの極限まで引き上げた人。そしてフォーサイスさんはその極限をさらに膨らませ、さらにははみ出した人。

植木さんというのもやっぱりユニーク。なにごとも、これまでを打ち破って新しいものをつくるのはすごく大変なことで。発想やインスピレーションはどこから得るのでしょうか。

アイディアは常に身の回りにあるいろいろなことに目を配っていれば、気づくチャンスに恵まれると思います。ですからいろいろなものに興味を持つようにしています。でも発想やインスピレーションは突然どこからかやってくるものなので僕にも分かりません。クラッシックバレエには型(かた)や決まり事がありますよね。これはいわば多くの人が共通意見として「美しい」「心地よい」というものなんだと思います。ですからこれらに逆らっても無駄なんだという思いがずっとありました。バレエは奇麗か楽しければ良いと。しかし一方でそれにはストレスも感じていました。バレエ以外の踊りや日常所作、いわゆるバレエらしからぬ動きとのコンビネーション。これら自分の発想やアイディアを盛り込むと、しばしばこの「逆らう行為」に
なってしまっているのではないか?そんな疑問を持つようになってしまいました。97年から98年くらいにかけてとても悩んでしまい、振付けを含めバレエに携わること自体に疲れて、もう辞めてしまおうと思ったことがありました。そんな時期に縁があってフォーサイスさんのところに行かせていただける事になりました。99年から2000年にかけてフランクフルトバレエに関わって、フォーサイスさんの仕事を見ていると「ああ、なんだそんなことにとらわれなくて良いんだ」と。

新たな出会いと発見の年ですね。

はい、そうですね。構成力も構築力もあったうえで、それを全部ひっくり返しちゃって、その結果の一番いいところだけをもってくる技法はありなんだ、と。

大好評の作品に「デジメタ・ゴーゴー」というのがありますが、あれはどのようにつくられていったんですか。

Degi Meta go-goはフランクフルトに行く前の悩んでいた時期に「KATSUO NISILAGA」という名前で初演しました。スタートはサザエさん一家の話で曲もモーツアルトでした。装置は舞台奥にエスカレーターを置こうとか、今のスタイルとは全然違うものでした。

大切なのは、バレエに対する誠実さ、いかにまじめに振付家を裏切るか

今までのお話は鈴木先生の精神史ともいうべきで、ダンサー、振付家を目指す人たちにとっても励みになることと思います。それにしても、踊りというのは先生から弟子へと、ダンサーからダンサーへと、受け継がれてつながっていくんですね。

師匠といえば、僕の母親がちょっとヘンな女で、(笑)。生粋の踊り手なんですね、彼女は技術とかなんとかじゃなく、踊りの雰囲気をつくりだしたり、子どもたちと遊んでいるのが得意なんです。それも受け継いでいるのかもしれません。教育の場であったり、舞台からのつながりであったり、人同士が繋がっているのは、一見するとドライな西洋でも同じなんです。

今、スター・ダンサーズバレエ団は、先生がたのご指導がさらに行き届いていて充実しているのを感じます。これまでの蓄積のうえにいっそう磨きがかかってダンサーたちがほんとにきれいですね。舞台の上から観客に見せるんだという意識が伝わってきます。ダンサーに求められることはありますか。これからスターダンサーズ・バレエ団を目指す人も増えるでしょう。

バレエに対する誠実さが一番大切だと思います。テクニックを習得することも大事ですが、そのテクニックで何が表現できるのかを考える事が重要です。あとは、いかにまじめに僕を裏切ってくれるかということを期待しています。

林 愛子 (インタビュー、文)
舞踊評論家 横浜市出身。早稲田大学卒業後、コピーライター、プランナーとして各種広告制作に関わる。そのかたわら大好きな劇場通いをし、’80年代から新聞、雑誌、舞踊専門誌、音楽専門誌などにインタビュー、解説、批評などを寄稿している。
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