今、平山素子は最も乗っているダンサーで振付家だ。彼女のダンスは大胆で、繊細。ナイフのように鋭く突きつけてくるかと思えば、絹のように優しく柔らかい。そしてその自在な語りは、ダンスと同じように、聞く者を魅了する。
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Interview,Text:林 愛子 Aiko Hayashi Photo:長谷川香子 Kyoko Hasegawa |
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吸引力――それはなぜか光りのようにも感じられる
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昨年11月の新国立劇場での「春の祭典」は、踊りが音楽を聞かせて音楽が踊りを見せてくれる舞台で、ほんとうに素晴らしかったですね。
最初、新国立劇場のプロデューサーの方からお話があった時は、私にはちょっと早いかなと思いました。でも私、2005年にニジンスキーの振付初演版にいけにえの乙女役で主演させていただいて以来、漠然となんですが、いつかストラヴィンスキーの難曲に私の音楽解釈を反映させた創作ができたらいいなとは考えていました。壮大なテーマだけにこのチャンスを逃すとあと10年は手が出せないなと思い切ってお引き受けしました。 |
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もともとそういう思いがおありだったんですね。
はい。「春の祭典」はふつう群舞でやりますよね。しかも観客はこれまでの振付家たちの「春の祭典」を見尽くしている方から、題名は知っていても全く知らないという若い方まで。かなり迷いましたが、あえて挑戦した舞台上で2台のピアノ生演奏と男女デュオでの上演はとても刺激的な内容になりました。一番最初に全体の組み立てを決めたんですが、創作プロセスでどんどん変化して、結局、最初の絵と最後の絵だけは変わらなくて、あとは自分が思っていたものとほとんど違うものに入れ替わってしまいました。共演した柳本雅寛さんを始め、ピアニストの方を含めてスタッフ全員がプロの仕事をしてくださって、私がしたいということを妥協なく完璧にやってくださったんです。チームワークの勝利ですね。でも、まだまだ進化する余地を残しているようにも思います。 |
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舞台上で客席の反応って感じますか?優れたステージ・パフォーマーのなかには、たとえば自分が舞台で集中している時に、もう一人の自分がそれを見ているなんていう人もいますが。
うーん、観客の方一人一人の顔は見えないけど、劇場空間のなかの雰囲気はだいたいわかります。うまく言えないんですが、こちらが吸盤みたいのを投げて、それをお客さんの視線に絡めて放さないみたいな感覚、それはあります。私が一番それを感じる時というのは、こちらがパンと投げたら、キュッと吸いついて、それがこっちに向かってスーッと来るというか・・・。 |
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いわゆる吸引力ですね。
それはなぜか光のようにも感じられる。実は、私の作品というのはほとんどこの光が核になっていると思うんです。つまり、ダンサーの「人としての磁力」です。それで今の課題は、ダンサーにこれをどう伝えたらわかってもらえるかということなんです。振付は渡せてもこういった感覚が獲得できないと、たぶん平山素子みたいな動きをしてもなんかちょっと違うな、ということに・・・。本当に難しいです。 |
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それはいわゆるオーラとかエネルギーで、きっとすぐに身につくものではないし、生まれながらのものともいえるかもしれませんね。ところで平山さんは、それだけ恵まれた条件をもっていらしてポワントも十分履きこなせたわけですが、クラシックに進まなかったのはなぜですか。
今でこそ非現実的なことを舞台で表現するのは理解できますし、バレエの動きの理論は大好きで、今も時間の許す限りバレエのクラスに出てトレーニングするんですけど・・・。 |
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バレエに違和感があった?途中からですか。
高校生ぐらいになると、現実が見えてくるっていう世代の特徴でしょうか、お姫さまになることに憧れてそれを演じることに没頭できなくなっていました。ほんとうの姫じゃないのに自分が演じるとうそっぽく、作品に対する違和感があったと思います。ただ、当時名古屋でしたから、新しいダンスを求めてもなかなか出会えず、モダンなバレエはベジャール作品ぐらいしか見たことがありませんでした。何か捜しているけど、情報不足でどこにも行けなくてバレエを続けていたというのが実際でした。 |
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踊りとのつながりを求めて
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その姿、平山さんらしくて想像できます(笑)。名古屋はクラシック音楽もバレエも盛んで、演奏家やダンサーを育てていますね。そういう土壌から出てみようと?
そうですね…さすが名古屋は芸どころで、みんな私立の学校に通いバレエ頑張りますって感じでした。その中で私は公立の進学校に通って、普通に大学受験しますってタイプでしたから、幸いにも先生にあまり期待されていなかった(笑)。当時、バレエ以外のもっと広がりのあるダンスを求めていたのは事実です。ただ、地方では、師事している先生を変わるのは勇気のいることです。新しい踊りとのつながりを求めて筑波大学の体育専門学群のダンスを学ぶコースに進みました。これが運命ですね。でも、最初は筑波が東京から遠いのにだまされたって気分と、バレエが続けられると思いきや、まったくカリキュラムになくて、授業はいきなり創作ダンスでとまどってしまいました。若松美黄先生に教わりましたが、自由に踊れと言われても、まったく「自由」の意味がわからないし・・・。
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クラシック・メソッドでやってきたわけですからね。
そうなんです。感じるままにとか言われるとほんとに困って。でも徐々に自由に身体を動かして何かを発見できることの魅力に気がつき、若松先生のユニークなお人柄とが相からまって自然とモダンが好きになりました。以来、若松先生とはつかず離れずの関係です。今でもズバッと私を切ってくれる大切な「鑑」です。
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H・アール・カオスでコンテンポラリーダンスを踊る
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一種、殻を破るというようなご苦労はおありでした?
うーん、当時私はただの大学生で所属もはっきりないですし、将来どうしてもダンサーになりたいって思っていたわけじゃないんですよ。舞踊界のしがらみや、周りの期待もないものですから、気楽に学生時代を過ごしていました。舞台に立つというと、若松先生の公演に出させていただいたり、学生のクラブ活動の発表会みたいなもの一つ二つぐらいで、そんなに踊る場所もありませんでした。殻を破るという苦労というより、最初から「殻」はなかったのかもしれません。無知で、面白いと思うものをただ踊るだけだったんですね。
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でも、平山さんなりに表現の場を捜していらした。
もちろんです。大学院生の時に、今のH・アール・カオスの公演を友達に誘われて錦糸町まで見にきました。当時、彼女たちはネクスト・ダンスと言っていました。不思議な舞台にびっくりして気がついたら興味がありますってアンケート用紙に書いていました。その後ほんとに演出の大島さんから電話がかかってきて、それがきっかけでダンサーとして数年間活動に参加しました。時代のなかでだんだんメジャーになっていくというんでしょうか、“コンテンポラリーダンス”っていう言葉を自分たちは意識しませんでしたが、でも、今までになかったものをつくっているんだ、それに私は立ち会っているんだっていう誇らしさはありました。
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伝統もなにもないところから、ものがつくられていくというのはおもしろいでしょうね。
演出の大島さんの独特な美学、哲学みたいなものに踏み込んでいく、というのが楽しくて。高い要求をされて、それに”ダンサーとして応えていくストイックな自分”も好きでした。と同時に、たぶんどこかでだんだん…。その頃から、本当はなにをやりたいのと聞かれると、あれ、なんなんだろう。自分を1分で語ってくださいといわれたら、いったい自分はなにをするんだろうと、私のダンスに対する美学はどこに向かうのかと真剣に考え始めていました。国内のコンクールも何回かチャレンジしましたが、そこではモダンダンス風な受賞しやすい作風を器用に踊っていて、またもやうそっぽい違和感がありました。そういった時期に国際コンクールの参加ダンサー募集を知りました。よし、とにかくやってみようと。
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大きな転機
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それがきっかけで、自分のなかでやりたいことが湧き出てきたという感じですか。
そうですね。国際コンクールだから審査基準がよくわかりませんし、どこの国の誰が何を踊るのかもわからない。ただ、自分の舞踊観を明確にして、ダンス魂を提案しないといけない。出品作品の1つの振付をHRカオスの大島さんが引き受けてくださり、私のための新作の創作作業が一緒にできると、この状況に単純にわくわくしていました。
ところが、コンクールの2ヶ月ほど前、ちょうどリハーサルを始めようと思っていた時期に姉が突然に交通事故で亡くなったんです。 |
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家族が深い悲しみに落ちている時に、自分だけ楽しく踊っていいんだろうか。悩んで、辞退しようかと大島さんにお電話したら、今こそ踊らなきゃだめだってことを話してくださいました。偶然ですが曲はサン=サーンスの「死の舞踏」で、生死観、死の誘いを振り切り力強く生きる一人の女性像がテーマだったんです。1か月、ガーッと集中しました。なぜ踊るかという原点を見つめ直すことになりました。ただ踊ることが楽しいという個人的感覚だったものが、この経験を通して生きている証拠をはっきりと伝えなくてはいけないという責務みたいなものが芽生えたと思うんですね。そういう意味で大きな転機にもなりました。へんな表現なんですけど、今でも、あの精神状態での踊りをしたらどんなコンクールでも1位じゃないかって(笑)。充実したいい瞬間でした。改めて、私にとって踊るっていうことが身近で、大切なものなんだったことに気がついたんですね。
母はびっくりしていましたよ。姉のお葬式の花で家が埋め尽くされて、その1か月後に、私の1位受賞のお祝いの花で一杯になって。 |
location:Ristorante SABATINI 青山
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お葬式とお祝いと、違うお花ですものね。
母は、生きているといろいろあるのね、こんな短い期間に。ダンスは心を癒し、勇気づけるもの、踊ってくれてありがとう。見れてよかったってことも言ってくれました。 |
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あのコンクールを見た友人が、平山さんが素晴らしかったと言っていました。魂の踊りを見せてくれた、と。
ありがとうございます。その感想はなによりもうれしい。大学生の時に若松先生から、君は無になって踊りなさいって言われて反論したことがあるんですよ。無理です、振付を間違えないし、照明が暗い中でグラグラせずに指定の場所まで行くといった決めごとを守らなければいけない、それを実行しているということは意識があるということだから無意識なんてできませんって言ったら、うーん、そのうちわかるんだけどな、と(笑)。先生の言葉は数年経ってあのコンクールでやっと少しわかりました(笑)。振付は間違いなく実行できているし、音楽にも遅れていないし、位置もちゃんと照明のとおり入っているんですけど、何をしたかあまり覚えていない。時間と空間の中で自分の肉体だけがゆらぐというか、充実感みたいなものの残骸が体の中でふつふつとしていました。こういうことがわかってからは、違った楽しみが生まれ、と同時に国際コンクール1位っていう看板にふさわしくなろうという責務も生まれました。もっと感覚を研ぎ澄まして、精進して踊っていかないといけないということも感じましたね。あーこうして踊りの世界の奥深さに気がついて引き込まれていくんだな~。 |
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自分のままじゃ踊れない
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いいお話ですね。そういう舞台こそ、観客は知らずに引き込まれてしまうんですね。
観客のことを考えると…、近頃考えていることなんですが、もっともっと普遍的かつ原始的なものにならないかって。ダンスイコール感情表現というのはそのとおりなんですけど、最近ちょっと勘違いしている人がいるかもしれない。むしろ私は、舞台上では自分ではないものに変身していて、感情表現の方法も全く異なるように思います。たとえば悲しいっていうのを例にすると、泣いて見せるようなことは絶対にしません。悲しい出来事のあったときに得る感覚や現象を舞踊として改めて再構築して表現する方法に専念します。これが見ている人の記憶にひっかかって、なんて悲しいんだろう、と感じてもらうことができたら、たぶん一番素敵と思います。 |
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ダンスにはもともとスポーツの要素があり、新体操やシンクロなどのスポーツはダンスの要素を取り入れています。平山さんは本能的にそれをご存じなんですね。北京でもシンクロナイズド・スイミングのチームに振付なさってますが。
一番最初は、日本代表の強化合宿に呼ばれて指導に行ったんです。選手にいろんな経験をさせようと演劇やジャズダンス、バレエの先生などが招かれた多様なプログラムで、今までになかったコンテンポラリーの独創的な発想を組み入れるというのが狙いでした。それ以来、試合があるとアドバイスをさせていただいていました。今、シンクロ界ではどんどんと総合芸術としての演技を求められるようになってきて、各国でプロの振付家が演技を手がけるようになってきたんです。このような背景から、北京オリンピックでの新作演技にも振付の専門家が必要という考え方になったんでしょうね。たぶん私の特徴は、身体は小さいのに動きがダイナミックに見えるということ、ですよね?枠にとらわれないコンテンポラリーの独創性と、私の演技の秘密も選手に伝えてほしいという意味も含めて頼まれたと理解しています。技のことも、どのくらい潜っていられるかも、評価の方法もわからないのでコーチや選手と相談、協力しながら一緒に考えていくということでお引き受けしました。 |
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それは、選手の方々にとってもいい経験ですね。
練習の際にはふつうはカウントかけるんですけど、私はなるべくイメージを大切にしたかったので、ほとんど数を数えないで進めました。動きの説明は…へんなことばかり言うから、笑われていましたよ。軸がだんだん斜めに落ちていくことできない?なんて言うと首をかしげながらやってくれて、反対側の足で大きく糸を巻いていくような感じでとか。右手が女性で左手が男性なの、だから右手が曲線で、左手は直線、右手と左手、女性と男性が出会う、とか。男性が女性を迎えに行く、というその場限りの言葉でも、あ、そういうふうに考えられるな、ってとらえてもらえました。デュエットの鈴木さんと原田さんは本当に高い技術を持っていて、美しいんです。私のほうが楽しんじゃっていました。 |
location:Ristorante SABATINI 青山
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ダンサーについては、どんな条件が必要だと思いますか。
この質問にほかの方ならなんて答えるかわからないけど、私の答えは「存在しないものをあると信じられるということ。」です。たぶんまだ知らない自分が経験してないことがいっぱいあるんだろうな、と冒険心があること。そして、それに向けて肉体酷使をいとわないこと。ここには夢があるんです。これはドリームという意味での夢とはちょっと違うんですが…。かっこよく表現すると“舞踊神に近づくロマン”かな。 |
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それは踊りの可能性みたいなことですか?
そうですね。舞台芸術としての舞踊はものすごく進んでいるから、現代ではなんでもできちゃうような錯覚があります。だから私は「やらないこと」を決めるように心がけています。たとえば、これまでの私の作品では映像は基本的に使っていません。おもしろくって編集にのめりこむ自分が想像できるから(笑)。あえて、です。昨年の「春の祭典」の創作時にも、これまで多くの振付家が手がけたのをみてきていますから、これはやらないということをいくつか決めていたんですよ。本当の意味での21世紀の「春の祭典」をつくってみたいと意気込んでいましたから。これってつまり…踊りの可能性は、珍しい手法を探して組み合わせる、ではなく、むしろどんどん原始的になっていくこと?これが理想かな、と思っているんです。 |
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