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HOME > インタビュー > vol.5 鍵田真由美 佐藤浩希

Interview
インタビュー

鍵田真由美と佐藤浩希。その舞台は見ている者の心を高揚させるほど熱いエネルギーを放ち、やがてホッと和ませる磁力で包み込む。まるで違う道を歩み、最高のパートナー・シップを築いた二人が、今、改めて語る出会いまでの軌跡とフラメンコの魅力。
Interview,Text : 林 愛子 Aiko
Hayashi  Photo : 川島浩之 Hiroyuki Kawashima
以前に見たお二人の「FLAMENCO曽根崎心中」は強烈でした。歌舞伎では様式的に主人公がいかに美しく死にゆくかを見せるんですが、「FLAMENCO曽根崎心中」は生きろ、生き抜けという熱が伝わってきて。
佐藤「私たちもお客さまに悲しみとか切なさを感じていただきたいというのはありましたが、それ以上に生き抜くことの大切さを表現したかったんです。」
フラメンコは他のダンスと違って大人になって自発的に始めて、熱心になる方が圧倒的に多いですね。
鍵田「バレエや日本舞踊をやっていた人が、ある時フラメンコに出会ってしまってはまり込むこともよくあるみたいですね。」

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よく知られていますが、佐藤さんは福祉関係のお仕事から転身なさった。とにかくレッスンをしたいと思ったんですか?
佐藤「プロになりたいなんてみじんも思っていませんでした。甘い世界じゃないし、ましてや二十歳だったので。趣味で始めて、就職はしようと思っていたんです。ところがどんどんのめり込んでいってしまって。」
きっかけは鍵田さんの舞台と、アントニオ・ガデスのビデオで
佐藤「『血の婚礼』です。もうすごい衝撃を受けて。ボランティア活動のなかで接していた知的障害の方って突然大声で叫んだり、自虐行為に走ったり、バタバタって暴れたり。そういうなかにエネルギーとして人間の素のままの衝動とか、今、生きてるっていう命の息吹みたいなのを僕はすごく感じていたんです。目も動かない、ただ食べるだけのお年寄りの介助もしていたんですけど、動けないからこそ食べる力とか排泄することに逆に命を感じて。福祉の世界で見ていたその動的なものが、フラメンコでは芸術として成立しているのを見て、こういう世界があったのか、って。」
もともと福祉のお仕事を選ぼうとなさったのはどのようなきっかけだったんですか。
佐藤「うちの母がリウマチでなかなか身体の自由がきかないということがあったり、母子家庭だったので働きに出ていたり。家は田無市、今の西東京市なんですが近所におじいちゃん、おばあちゃんが大勢住んで村みたいになっていて。親族じゃないのに、そのおじいちゃんおばあちゃんに僕はなにもかも面倒を見てもらって育ててもらったんです。」
鍵田「東京の話じゃないみたいですよね。」 佐藤「小学校から家に帰るとランドセル置いて、近所のおじいちゃんのところに行って水戸黄門や必殺仕事人のような時代劇を見るというのが僕の過ごし方だったんです。」
鍵田「一緒にお茶飲んで(笑)。」
佐藤「お年寄りの話を聞きながら。人にはこう接しないといけないとか、ああしなさいこうしなさいじゃなくて、いい意味での躾をたくさんしてもらった。僕が大人になった時に恩返しというのはすごく恥ずかしいんですけど、なんかできたらいいなって思って。」
ARTE
Y SOLERA 鍵田真由美・佐藤浩希フラメンコスタジオ
鍵田
真由美
Mayumi Kagita

 幼少の頃からモダンダンスを習い、クラシックバレエ、ジャズダンスなど舞踊全般の研鑚を重ねる。日本女子体育短期大学・舞踊科卒業。在学時にフラメンコと出会い、豊かで力のある表現に魅了される。
1990年河上鈴子スペイン舞踊新人賞を受賞したのをきっかけにフラメンコの世界へ。佐藤桂子、山崎泰に師事。1991年にスペインに留学。渡西を重ね、著名舞踊家のもと研鑚をつむ。1992年スタジオ「ARTE
Y SOLERA」開設とともにフラメンコ舞踊クラスを開講。フラメンコ舞踊家としての本格的な活動が始まる。1993年初のリサイタル「AY,
LEJANO…」を発表。1994年「とけない刻」ではモダンダンスとコラボレートし、ドラマチックで幻想的な新しいフラメンコの世界を提示。これは他のジャンルとのコラボレーションでフラメンコの可能性を示すという鍵田作品の原点となる。1998年に発表した「レモン哀歌
?智恵子の生涯?」では能やハーモニカとの共演を成功させ、文化庁芸術祭新人賞を受賞。
2001年の初演から再演を重ねる阿木燿子プロデュース・作詞、宇崎竜童音楽監修・作曲の「FLAMENCO曽根崎心中」では、近松門左衛門の作品を初めてフラメンコ化するとともに、全編日本語の歌詞で歌うという偉業を成功させ、文化庁芸術祭優秀賞を受賞。2004年には同作品でフラメンコの殿堂“フェスティバル・デ・ヘレス”に海外から初参加を果たし、絶賛される。同年フラメンコの伝統や土着性に根ざした作品「ARTE
Y SOLERA 歓喜」で文化庁芸術祭大賞を受賞。2006年、News week日本版の「世界が尊敬する日本人100人」に選ばれるなど、国内外で高く認められ、今後の幅広い活躍が期待されている。
佐藤 浩希
Hiroki Satou

 高校時代よりボランティア活動に励み、保育士、介護福祉士の資格取得後、アントニオ・ガデスの「血の婚礼」とタブラオ「新宿ギターラ」で観た鍵田真由美の踊りに衝撃を受け、福祉の道からフラメンコの道へと進む。
1992年より鍵田真由美にフラメンコを師事。1996年河上鈴子スペイン舞踊新人賞受賞。同年、日本フラメンコ協会新人公演で、卓越した演技に対し協会から史上初の特別奨励賞を授与される。1997年から渡西を重ね、以来数々の賞を受賞。2001年、阿木燿子作詞、宇崎竜童作曲による「FLAMENCO曽根崎心中」を上演。文化庁芸術祭優秀賞、河上鈴子スペイン舞踊賞を受賞。同作品は2004年、ヘレスで行われたフェスティバル・デ・ヘレスに外国人として初めて正式参加を果たし、スペインの観客から熱狂的な支持を受ける。2004年、フラメンコの伝統や土着性に根ざした作品「ARTE
Y SOLERA 歓喜」で文化庁芸術祭大賞を受賞。2006年、Newsweek日本版のトップ記事「世界が尊敬する日本人100人」に選出され、大きく取り上げられる。
現在、スタジオ「ARTE Y SOLERA」を鍵田とともに主宰。優れたフラメンコ的感性と自由な精神で、フラメンコの新たな可能性を追求。すべての作品の演出・振付を手がけ、高く評価されている。近年、障害のある人たちとのフラメンコ公演や今井翼ソロ公演「World’s
Wing翼 Premium」(2007, 2008)のフラメンコ・パート振付などでも活躍。現在最も注目を集める新進気鋭のフラメンコ舞踊家として活躍している。
高校出て福祉の学校へいらした。そしてそれから鍵田真由美という、やがて師になる人の素晴らしい舞台に出会ったんですね。
佐藤「はい。ガデスのビデオを貸してくれた友達が、新宿にあったギターラっていうフラメンコのショーを見せる店に初めて連れていってくれたんです。どの人が鍵田さんかわからないで見ていたら、一人すごい目立つ人がいて。ちょうどその日の朝、夜勤のアルバイトをしていた老人ホームで一人お亡くなりになった。
その方の手を握っていたら、温かかったのがサーッと冷たくなって。なんかこう…、間近に死と接して、そのあとに踊りを見て、今、命があって体が動くことの素晴らしさってものがダイレクトにきてしまった。絶対この人に習いたいって。それでショウが終わったあとに、頼みに行ったんです。」

鍵田「私はその頃、クラスを一つスタジオで始めたくらいで、時間も自由がきくという状況で。彼は今までに踊ったことがないとか、そんな恐れも持たずに明日からレッスンしたいからクラス作ってくださいって(笑)。」

そういう生徒はなかなかいません(笑)。鍵田さんは日本女子体育短大舞踊科で勉強なさった。子どもの頃から踊りは身近なものでしたか。

鍵田「両親は踊りをやっていたわけではないんですが、とにかく私は踊りが好きで、環境に恵まれていつも踊っていました。」

まるで正反対なお二人ですが、誕生日が同じなんですね。

鍵田・佐藤「そうです。私たちも驚きました。」

やっぱりご縁がおありなんです。鍵田さんがフラメンコを踊ったきっかけは?

鍵田「日本女子体育短大で佐藤桂子先生の授業が初めてでした。フラメンコが足を鳴らしてドンドンドンていうのはわかっていたけれどその時、それまで習ったものと違っていてびっくり。ただ、そのあと私がフラメンコに行くっていう決心も予感もなかった。結局は桂子先生の舞台に出させていただいて、いつのまにか道ができていて。現代舞踊協会の公演で新人賞をいただいてうれしいっていうだけで、きっかけが自分ではつくれず…。それでスペインに行かなければいけないということを自分に課して。そこからですね、いろいろ始まったのは。」」

佐藤さんを教えていらした時に、この人はいけるぞとすぐに感じましたか。

鍵田「まず踊る素質は特別なかった。たいへんなガニ股で(笑)、踊りに親しんだ基本がないですから。ただそれを恥ずかしがらずにさらけだして、へたでしょ、だけどこうやりたい。その潔さは一番で、それ以上にフラメンコとはということにとらわれずに、この音楽を使ってみたらどうだろうか、なぜこういうふうにしちゃいけないんですかって。それは後にも先にも佐藤だけですね。」

佐藤「僕は60年70年代のロックのマニアなんですが始めて1年めぐらいの時、キング・クリムゾンで振付してくださいなんて頼んだりして(笑)。」
鍵田「桂子先生、山崎泰先生のもとで大きい作品を踊らせていただいた時、声を出したり演技もしたので私は怖いものがなかった。それと同じような角度からきたものだと思うからそういう発想はおもしろいって、彼に共感できるものがたくさんありました。」
佐藤「最初は週に1回のレッスンが2回、3回になり、ついに寝袋を持ち込んで(笑)。」
そんな様子をごらんになってお母様はご心配なさらなかったんですか?

佐藤「泣かれました。僕、一度この福祉の仕事をやめてフラメンコだけに専念したい、まだ練習生の頃ですが、今この年齢でスタートしないとって言うと、何考えているの、フラメンコで食べていくなんてありえないでしょって。もちろん今は喜んで見てくれますが。」

インタビュー、文
林 愛子
Aiko Hayashi
舞踊評論家 横浜市出身。早稲田大学卒業後、コピーライター、プランナーとして各種広告制作に関わる。そのかたわら大好きな劇場通いをし、’80年代から新聞、雑誌、舞踊専門誌、音楽専門誌などにインタビュー、解説、批評などを寄稿している。
フォトグラファー
川島浩之
Hiroyuki Kawashima
ステージフォトグラファー 東京都出身。海外旅行会社勤務の後、舞台写真の道を志す。(株)ビデオ、(株)エー・アイを経て現在フリー。学生時代に出会ったフラメンコに魅了され現在も追い続けている。写真展「FLAMENCO曽根崎心中~聖地に捧げる」(アエラに特集記事)他。
鍵田先生は厳しかったですか。
佐藤「はい、それはもう(笑)。プロを目指すという時から、じゃ、サパテアードを今晩中に仕上げておきなさいって言われて、三連符なんかを朝まで練習しました。」
鍵田「頑張ってねー。じゃ私はご飯行ってきまーすと言って出かけていましたね(笑)。」
スタジオに泊まり込むほどに、とりつかれちゃった一番の理由はなんでしょうか。
佐藤「フラメンコはコミュニケーションの芸術、愛を語り合う芸術だな、と。音楽にのせられて踊るだけじゃなくて、踊り手自身も音楽家で、自分の足の音で会話ができる。そこに一番惹かれました。すると周りにいる人たちともずっと一緒にいたいし、何かこうコミュニケーションの渦のなかに自分の身を置きたいっていう、自分の中では福祉のボランティアをやっていた時の気持ちと変わらないものになっていた。やっていることは違うんですけど、ずっと人と関わっていたいと思わせるのがフラメンコなんですね。」
佐藤さんの最初の作品「智恵子抄」は鍵田さんをイメージされた。鍵田さんは佐藤さんにとってミューズですね。

佐藤「そうなんです。」

そして公私にわたるパートナーであり、もしかしたら戦友でもありますか?
鍵田・佐藤「そうですね。」
佐藤「まったく違う二人なんで、役割がかなり分かれていて、それをお互い同時にやりながら今まできました。僕たちけんかをしたことが一度もないんです。」
鍵田「今は基本的に演出・振付は佐藤のインスピレーションそのままです。」
佐藤「舞踊的に直したほうがいい場合は、彼女が見ていきます。」
スペインで過ごすそうですが、年にどのくらい行ってらっしゃるんですか。。
佐藤「年に2,3回です。」
鍵田「それこそ一緒にいるんですけど、佐藤はアンテナを体中から張り巡らしているような感じで外に出るタイプで、逆に私は違うペース、一人で家にいるタイプなんです。」

佐藤「ヘレスにはおじいちゃんが歌って孫が踊るとか、そういう情景が町中にあふれています。手拍子と踊りだけで声掛け合って楽しんでいる。それこそフラメンコだと思うんです。僕たちは舞台で作品を見せて皆さんに感動を与えたいなんて立場でやっている。でもアートはもともとそういうものじゃなくて、人々の生活の中にあるもの。アーティストが素晴らしいんじゃなくて、見に来ている人々の体の中にアートがあるんだということを導きだせるようなもの。たとえば日常的な断片を静止画に描くけれど、それを画家がどういう視点で描いているか、人々が生きているその中に神様が宿っているということを表せる作品づくりが大事なんじゃないか、そんなことを考えさせられます。へレスではまさにフラメンコという芸術を民衆が持っている。そこにものすごく魅力を感じますね。」

加わって一緒に踊ったりなさる?

佐藤「もちろん、それがまた楽しいんです。」

あちらではやはりスペイン料理ですか。

鍵田「日本にいるときも向こうでも、朝も昼も夜も佐藤が料理作るんです。ちょっと予想と違った出来上がりだと、そのあとの沈み具合ったらないんですけど(笑)。」

それは素敵。お料理もアートですね。
佐藤「スペインにいる時には集中して料理ができますが、どうしても素材の関係で日本料理では味が違ってくるから、スペイン料理が多くなりますね。市場にはロマの人たちが多くて、そこではかけ声も自然とフラメンコになっているんですよ。」
鍵田「肉やお魚の大荷物かかえて帰ってきて、家でげらげら笑っている。あそこの小父さんの踊りがおもしろかったとか、日常にフラメンコがあるってことを十分に感じとれる毎日があるんですね。フラメンコっていうと特別なものと思われがちですが、日常的に笑い合いながら踊っていいものなんだっていうスパイスを、カチカチの生徒さんにも振りかけます。だから佐藤のクラスなんか大笑いの声が聞こえてくるんです(笑)。」
年配者の生徒さんが多いそうですが。
佐藤「そのミセス・クラスが一番楽しい。生の強さっていうのは若い子よりも年齢をより多く重ねた方のほうがありますね。自分の体が続く限りとか、切実さがあるからでしょう。たとえば手を上げる時、バレエのように美しく踊ることも必要なんですが、フラメンコのダイナミズムっていうのはそれだけではなく、その人のできること、せいいっぱいやるなかから出てくるところにあるんだと思います。」
鍵田「特にフラメンコの場合は、その人が何を考えているかまで、にじみ出てくる。ふだんおとなしくてもスカートを持ってワッと足を踏みならすだけで、実際に弱い存在にはない力強さを持っているのをその人自身が感じとることがよくあるし、逆にいつも強そうにしている人が少し気弱だったってことが出る場合もある。フラメンコは、自分で自分がどういう人間なのかをわからせてくれるようなダンスじゃないかと思うんです。
足がちょっと短くても、太っていても、コンプレックスが多ければ多いほど、フラメンコをとおして自分を発揮できるんですね、それがどうした、それで何が悪いって。自分を勇気づけられる。」
鍵田さんは登場した時に、技術も表現も完璧でその上美しくて話題になりましたね。

鍵田「わぁ、うれしい、でも佐藤が私のパートナーになっていなかったら、もしかしたらもっと堅苦しくフラメンコの道を歩んでいたかもしれません。息をフッと抜けるようなところに良さがあることを忘れてきていたところに、佐藤から、ここで溜め息ついてもいい、大笑いしてもいいんだよ、体を動かすということは特別な人が特別にやる事じゃないんだよということを教わったような気がします。」

今後はどんな作品づくりをしていきたいというヴィジョンをお持ちですか?
鍵田「今までは二人で歩んできて、これからも二人でパートナーとして一つの作品を作っていくことに変わりはないんですけど、これだけ個性が違うので、ここで改めてそれぞれの個性が伸びるような、一人ずつの活動っていうのもあっていいんじゃないかと私たちは思っているんですね。」
佐藤「二人で一緒の時、それぞれの違う世界が繰り広げられるように、また個々の技術を磨いていかなければいけないなって。それをこれからさらに作品に投影していきたいと思っています。」
 

鍵田さんの思い出の品

 

最後に鍵田さんの夢についてお聞かせください
Q,
あなたが子供の頃に思い描いていた「夢」はなんでしたか?
保育士・バレエの先生
・子供が以前から好きでした。バレエの先生イコールダンサーだとも思っていました。
俳優
・”何かになりきる””表現すること”が大好きでした。
Q,
あなたのこれからの「夢」は何ですか?
・フラメンコの魅力、身体を動かすことや表現することの素晴らしさを1人でも多くの人に伝えていきたい。
・踊りぬく
このぼろぼろの練習着は、スペインに行く前にずっと着ていたもの、帰ってきてからのものです。縫っては直して着ていたんですけど、恥ずかしいというところまで着古してしまいました。思い出があるので捨てらず、今でも衣裳部屋で一番の主役です。私は、こんなにつらいのを頑張ったという思いもなく、これを着て頑張ってどうなるっていうことも予想もせず、スムースに流れてきて、ただただ好きで踊っていたということでしかありませんでした。スペインに行った時、日本に帰ったらこの世界でやっていかなきゃいけないという覚悟を初めて決めたんですね。淋しかったし、これからどうなるんだろうと怖かった。救いだったのは佐藤桂子先生、山崎泰先生のところで勉強してきた技術がスペインで、なにも恥ずかしくなかったこと。古着はそんな時期の私を思い出させてくれるんです。
 

佐藤さんの思い出の品

 

最後に佐藤さんの夢についてお聞かせください
Q,
あなたが子供の頃に思い描いていた「夢」はなんでしたか?

保育士かコックさんになりたかったです。

Q,
あなたのこれからの「夢」は何ですか?

観に来てくれたお客様に明日を生きる「夢と希望」を持って帰ってもらえるような舞台をつくり続けたいです。

ロックが大好きな僕にとって、ジョン・レノンの「イマジン」はベストワンのCD。自分がどういう仕事につきたいのか、そこに導いてくれたのがこの曲だからです。ここでレノンは、「平和を、宗教も国境もない世界を想像して見ようよ」ってやさしく語りかけてくれています。たいした力はないんですけど、そういう感じで福祉の仕事を選んで、いまだにそれを僕も目標にしているのは、彼が自分のアーティストとしての仕事をこういう歌に託して、平和の思い、人間愛を芸術として表しているからでしょうね。僕も彼のようにそういう仕事をいつかはしたいなと思っています。彼はこの世にいないけど、僕のなかでは音楽的なものを超えてしまって、インスピレーションを与えてくれるんです。
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