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Interview
インタビュー

美しさと気品、ドラマティックな表現で誰もを魅了したプリマ・バレリーナ、小山久美さん。今、彼女は、舞踊界に大きな遺産を残して旅立たれた太刀川瑠璃子先生に代わってスターダンサーズ・バレエ団を率いている。その率直で温かい語り口からは、バレエのさらなる可能性が見えてくる。
Interview,Text : 林 愛子 Aiko
Hayashi  Photo : 川島浩之 Hiroyuki Kawashima
バレエ団の公演でずっと舞台を拝見させていただいておりました。小山さんは気品と知性とを兼ね備えた数少ないプリマです。昨年、太刀川先生がお亡くなりになって、先生が副学長でいらした昭和音楽大学での先生を偲ぶ会では、心が温まるお話をありがとうございました。

小山「かたちだけということを故人が一番いやがっていましたので。そういうふうにならないように、大学も配慮してくださって。」

いろいろたいへんでいらしたとお察しいたします。

小山「私、一番近くにいたんですが、太刀川が亡くなってみて初めて多くの方から伯母のことをお聞きして、どうして私もうちょっと素直になっていなかったんだろうと思うようなところがあって、後悔します。」

自分のことを振り返ってもそうですが、あとになっていろいろ痛切に感じます。お近くにいらっしゃればいらっしゃるほどそれは深いのでしょうね。渦中にある時は、もうほんとに必死で考える余裕もないですものね。

小山「今まで太刀川が苦労して築き上げた実績もわかってはいたんですけど、へんな言い方ですが、私にとっては今のほうが彼女に対する評価が高いんですよ。あ、やっぱりこりゃたいした人だったんだとわかって。」

ほんとうに、日本の場合は太刀川先生のような先達のご苦労とご尽力の上に今があるわけですから。旧ソビエトや欧州のように国が全面的にバックアップしてバレエ学校やバレエ団が成り立っているのとは違って。

小山「すべて個人にまかされているようなことですよね。みなさんご苦労なさって。」

小山 久美
Kumi Oyama
スターダンサーズ・バレエ団
代表・総監督
慶應義塾大学文学部哲学科卒業。
1979年
スターダンサーズ・バレエ団入団。
1984年
North Carolina School of the
Artsに留学。
その後、文化庁在外研修員としてアメリカにてメリッサ・ヘイドンに師事。翌年より、フロリダのタンパ・バレエ団に参加し、ソリスト等で活躍。
帰国後は、ピーター・ライト版「ジゼル」をはじめ、アントニー・チューダー、ジョージ・バランシン、ケネス・マクミラン等、当バレエ団公演の数多くの作品に主演している。
1992年
村松賞受賞。
2003年
スターダンサーズ・バレエ団代表、総監督に就任。
2008年
昭和音楽大学短期大学部教授。
【アントニー・チューダー】暗い悲歌/火の柱/リラの園/葉は色あせて/オッフェンバック・イン・ザ・アンダーワールド
【ジョージ・バランシン】セレナーデ/スコッチ・シンフォニー/ドニゼッティ・ヴァリエーションよりパドドゥ/ウェスタン・シンフォニー/フォー・テンペラメント
【ケネス・マクミラン】ラス・エルマナス
【ピーター・ライト】ジゼル/くるみ割り人形

太刀川先生は小山さんのご家族とも同じ敷地に住んでいらして、お幸せでいらっしゃいましたね。

小山「もっとやりたいことがあったようでした。エネルギーにあふれていましたから。でも亡くなってからじゃなくて、その前にバレエ団の代表職などを次の世代に渡すことをしたのは、英断だとほめられたんですね。」

早くから先生はあらゆる作品を紹介なさった。特に現代バレエのプロデュースで大きな実績を残されて。そういう作品を初めて踊られた時にはどんなことを感じましたか。

小山「20世紀のマクミランやバランシン作品も上演しましたけど、私にとってチューダーだけは特別でした。子供の時からことあるごとに太刀川から聞かされていましたので、チューダー作品を踊ることは別のことだという意識があって、こういうバレエを太刀川瑠璃子はほんとうにやりたかったんだと実感しました。おとぎ話でなく形式的なステップがあるわけでなく、一つのステップ、一つの手の動きのなかにもなんらかの意味があって、それで等身大の人間の心理描写をしているということを、ダンサーとして参加する前からインプットされていたので。子供の頃からクラスでもチューダーの教えが底辺に流れるようなレッスンを受けていたこともあるので、最初から価値は十分にわかっていて舞台に挑戦させてもらったということはありますね。」

伯母さまであり師である太刀川先生から教わったことで、強く印象に残っていることはありますか。

小山「実は、私は実際に太刀川からレッスンを受けたことはないんです。リハーサルを見てもらったことも一回もありません。そこを考えると潔いというか、最初からプロデュースの仕事に専念して、稽古場のことは誰か他の人に任せるという。自分がほんとにお金の責任をとることに徹底して他のことにはいっさい口を出さなかった。彼女が極力リハーサルを見なかったのは、たぶん本番でどうなるかをすごく楽しみにしていたからじゃないかと思います。実際忙しかったこともあるんですけど、だから舞台を見て何か言われると重みがありました。」

先生は鋭い指摘もなさったんですか?

小山「めったにほめないし、けなすようなことも言わなかった。細かい注意もほとんどないんですが、1999年に踊った「ジゼル」はとてもほめてくれました。「火の柱」も何回か踊ったんですけど、ほんとに一回だけほめられた時はうれしかったですね。」

小山さんは、海外にも行ってらっしゃいます。太刀川先生のアドバイスで、いずれバレエ団を継ぐためにいらしたのですか。

小山「あの時は、どちらかというと私が飛び出して行ったんです。2年ぐらいたった頃に、もう帰ってきて欲しいという気配がひしひしと感じられて、それに対して無性に私は反発していたんですね。海外に行って一人のダンサーとして闘いたいというか、太刀川の姪というポジションがうっとうしくて。」

プレッシャーも感じられた。

小山「そういう時期がありましたね。今考えれば若かったな、と。順調に人間形成をして(笑)。かなり青臭く反発をしていたので、一度、伯母はあきらめたようでした。そしていっさい私にはそういうことをタッチさせないような感じになって。」

帰国後は、踊りに専念できたわけですね。小山さんは、身内にそういう先生がいらして、やはりバレエというものを早くから意識なさったんですか?

小山「我が家は5人きょうだいで兄が二人、姉が一人、私が4番目で、バレエ団にいるのが5番目の末っ子なんです。で、女はみんな5歳になるとバレエをやるもんだと何の疑問もなく思っていて、その時から百円玉を握りしめてレッスンに通って、自宅が同じところにあるので、それ以来ずっと同じ道をとおってこのスタジオに来ています(笑)。」

スターダンサーズ・バレエ団はこれまで数多くの海外作品を上演しました。あげればきりがないですが「緑のテーブル」や「ラス・エルマナス」、ロビンス版「牧神の午後」などはまさに衝撃でした。バレエ団のオリジナル作品も見せていただいています。今後はどのような活動をお考えですか。

小山「基本的にはやはり太刀川が考えてきたことをそのままやっていくべきだと思っているんです。今ある道をそんなにはずれるつもりはないんですね。私ができることはたかが知れているので、あまり肩肘張らないでとにかくつなげていくことだと。」

インタビュー、文
林 愛子
Aiko Hayashi
舞踊評論家 横浜市出身。早稲田大学卒業後、コピーライター、プランナーとして各種広告制作に関わる。そのかたわら大好きな劇場通いをし、’80年代から新聞、雑誌、舞踊専門誌、音楽専門誌などにインタビュー、解説、批評などを寄稿している。
フォトグラファー
川島浩之
Hiroyuki Kawashima
ステージフォトグラファー 東京都出身。海外旅行会社勤務の後、舞台写真の道を志す。(株)ビデオ、(株)エー・アイを経て現在フリー。学生時代に出会ったフラメンコに魅了され現在も追い続けている。写真展「FLAMENCO曽根崎心中~聖地に捧げる」(アエラに特集記事)他。

1965年の創立ですからすでに40年以上の歴史があります。多くのレパートリーを踊り継いでいくこと自体たいへんなことで。
小山 そう思います。だからそれは素直にそのまま受け継いで、代わったから何か新しいことをしよう、というのはやめよう、と。ただ、ごく自然に自分のなかで二つの流れが見えてきました。一つは子供たちに芸術としてのバレエができることをなるべく伝えていきたい。文化庁の”本物の舞台芸術体験事業”や東京都の”子供たちと芸術家の出会う街”への参加というチャンスをいただいて、それをやりがいをもってこなしていくうちに結論になったことなんですけど、誰でもが楽しめる作品、誰でもが劇場に足を運べる作品を開拓したいと思って作ったのが「シンデレラ」だったんですよ。それがおかげさまでわりといい評判をいただいて。
音楽をとおして子供たちを育もうというエデュケーショナル・プログラムが世界的に確立されつつあるんですが、バレエでも何かできるんじゃないかと思うんです。すでにバーミンガムではバーミンガム・ロイヤル・バレエのデヴィッド・ビントレーが、ストリート・チルドレンを抱え込んでバレエを教えるという試みをした、と聞きました。太刀川も最後はチャリティだと、自分たちは貧乏だけど社会に還元できたらなにより幸福だと言っていました。実はスターダンサーズが’65年にできて初期の頃に手がけたのが”母と子のバレエ劇場”で、それが私が5歳の時の初舞台なんです。

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その時は何を踊ったんですか?

小山 曲も台本もオリジナルで、最初は「みなしごたちの贈り物」、次が「私のピーターパン」。今もピーターパンは台本が残っているんですけど、早川恵美子さん、博子さん、新井咲子さんがスタジオの子供たちと出ていらして。物語の途中で歌が入って、私は猫の役とかたつむりの役でした。実はそれが根っこにあるので私の今後の展望になると思います。もう一つは、太刀川が考えていたように日本人の振付家による作品を作りたい、と。

チューダー作品をやったのは、日本の振付家たちを育てるためであったし、こういう作品から学んで欲しい、と。ピーター・ライト版「ジゼル」をやったのも、いい作品をお見せすることで、日本の振付家たちを鼓舞したい、刺激を与えたいという伯母の思いがありました。この二つを、今後は柱にしてやっていけたらと思っているところです。

「シンデレラ」は、ほんとうに子供たちがバレエを身近に感じるきっかけになる作品ですね。

小山 ”本物の舞台芸術体験事業”で焦点にしているのはコミュニケーション力なんです。今は子供たちのコミュニケーション能力の欠如が問題になっています。この前、バレエ議連という議員さんたちの集まりでもお話しさせていただいたんですが、言葉を使うことだけがコミュニケーションじゃなくて、言葉を使わなくても伝えなくちゃいけないことがある、と。そういう能力がなくなっているから空気が読めないとか、メールに依存してしまうのではないか。

バレエは言葉を使わないからこそコミュニケーションとは何かをわかってもらえます。自分のことだけをわかってもらおうとするのでなく、相手のことをわかろうとすることもコミュニケーションですね。バレエの身体表現をとおして、自分がやろうとすることを相手に経験してもらったり、お友達がやろうとしていることをわかろうとする。理屈がわからなくてもそういう経験をしたことでなにか残るんじゃないかって。今、私はそれに興味があり、意義も感じて今後やっていこうと思っているんですね。

ご自身は、これから舞台に立つご予定はないんですか?
小山 もう出るつもりはないです。
もったいない。

小山 優柔不断なもので、なかなかこれを最後にしようと決心できなかったんです。何年かたった時に、ああ、あれが最後だったと思えればいいかな、と。で、ようやっと今振り返ってみて、あの「火の柱」を踊った時が最後だなと思うようになりました。

ずっとバレエ団を引っ張っていらした方の、一つのあり方ですね。

小山 私はそれを自分の理想としていたので。まあ、それぞれですね、環境もそれぞれなように。でも練習するのは好きなので、あとは身体をキープしておこうと思って。気がつくと、これまでバレエにとことん向き合うことで、学んできたことがすごく多いんです。学ばせてもらってよかったと心の底から思います。だからこれからはそれを若い人たちに渡していきたいですね。

小山さんのこだわりの品
アメリカの師メリッサ・ヘイドンのスカーフも大切な思い出の品ですが、全然関係のないことでいいますと、実はぬかみそが大好きなんです。ぬかみそのあの匂いが子供の時から好きで、家のぬか床は子供の時からいつもかきまぜていました。近所の公園で遊ぶのは砂場で、そこで家でやっているのを真似てぬか床を作り、漬け物のかわりに石を埋めて、明くる日にその石をとりにいくなんて遊び(?)をしていたんです。もちろん今は家でぬかみそを作って、にんじんや大根などいろいろな野菜を漬けています。子供たちもぬか漬けが大好き。私は匂いだけでなく、かきまぜたあとの感じが好きなんです。
もう一つは18歳で初めての主役を踊った時の写真です。この写真を毎日新聞に載せてくださって、初めて名指しで私の記事が出たのがものすごくうれしくて特別な思いで読みました。記事を載せてくださった高柳守雄さんが、ごていねいにお手紙で、新しい人が現れたと書いてくださり、両親へのプレゼントにもなりました。
最後に小山さんの夢についてお聞かせください
Q,
あなたが子供の頃に思い描いていた「夢」はなんでしたか?
バレリーナかピアニストと思っていたような記憶があります。
バレエとピアノを習っていたので、単純にあこがれていたのだと思います。
Q,
あなたのこれからの「夢」はなんですか?
バレエ団を取りまく環境が変わり、今は目前のことに追われるばかりで、情けないことに将来のことを考える余裕がないほどです。
でも、伯母(太刀川瑠璃子)からバレエ団を引き継ぐと同時に夢も引き継いだと思っています。
それは、ダンサーという仕事が、本当の意味で確立すること。
そして、バレエ団や上演内容だけでなく、観客も育っていくような社会環境を整えることです。

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