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Interview
インタビュー

東京リズムボーイズ――いかにも都会的でしゃれた名のコンビを組んでいる松本晋一氏と穴田英明氏。異なった道を歩んできた二人はタップダンスをとおして出会った。米国留学、ディズニーランド、ナショナルタップディ…。イキイキとした話に表れるのは、タップに対する二人の静かな熱意と誠実さ、そして日本のタップダンスのパワーとレベルの高さだ。
Interview,Text : 林 愛子 Aiko Hayashi  Photo
: 長谷川香子 Kyoko Hasegawa
今日は私のような素人で申し訳ありません。タップダンスが大好きなので楽しみにやってまいりました。さっそくですが、お二人のタップダンスとの出会いを教えてくださいますか。

松本「僕の場合は中学の2年ぐらいでしたか、「ザッツ・エンターテイメント」っていう映画を見て、そこでいわゆるMGMミュージカルにハマッてタップにハマッたところがある。バレエのタイツ履いて非日常的なことするのも、ジャズダンスも身体が固かったので適していない。タップは自分がこのままでいい、気恥ずかしくなく自然体で踊っていられるのがよかったんですよね。」

穴田「僕は高校3年ぐらいからジャズダンスもバレエも始めて、実はタップに興味が全くなくて知らなかった。そのスタジオで薦められるままに踊って、最初はいやいやだったのが調子に乗りやすいタイプなので、当時マイナーだったタップをやると形になっちゃうし。やっている人も少なかったので、1年後にアシスタントで教えとかやっていたんです、ホントは何も知らなかったんですけど。」

十代で?

穴田「そうです。それから外へ出て、スタジオを捜すのけっこうたいへんだったんですけど、ほかでうまい人が大勢いて自分のレベルに気づいた。負けず嫌いだから、また頑張ろうという気になって続けたんですね。」

タップの練習ってご自分の家でしますか?昔は裏庭に板を置いてやった、という話を聞いたことがあるんですが。
松本「ほんとに始めたばかりの頃は、家で古い板で練習したことあるけど、うるさいんだよね。(笑)」
穴田「周りに迷惑かかっちゃうから多分できないんですね。」
TRBタップダンススタジオ
http://www005.upp.so-net.ne.jp/view/trb-home.htm
松本晋一
Shinichi Matsumoto
 昭和58年、日本大学芸術学部映画学科演技コースへ入学。同時にタップに興味を持ち、じん満、シュニ-パルメサ-ノに師事。昭和61年 渡米、サンフランシスコのタップマスター、スタンリ-カーン氏から古典的なタップを習う。昭和62年、サンフランシスコのタップフェスティバルで、ブレンダバッファリ-ノ、スティーブコンドスらに接する。
平成3年に穴田英明氏と東京リズムボーイズを結成。平成8年からタップインの加藤邦保氏に師事。タップはもちろん、舞台演出の多くを教わる。同時に「ジミ-スライド/KEEP
ON DANCING」からJAM TAP DANCE COMPANY の公演に数多く出演。ナショナルタップデイには1996年の第5回から毎回参加。
それ以外には、自分の仲間たちのグループ、HAND-CLAPで、娯楽性にあふれたショーの構成、演出をする。現在都内3ケ所のスタジオにクラスを持つ。
穴田英明
Hideaki Anada
 高等学校在学中より、芝居・ジャズ・バレエ・タップを習い始める。三度の渡米にて、ATDOのマーガレット・モリスン、リサ・ホプキンス、サルスバーグ等に師事し様々なタップスタイルを学ぶ。
1998年、3月にスタジオをオープンしたと同時に、”穴田英明Tap Dancing
VIEW” を設立する。タップダンスの歴史、用語、ステップの研究・稽古に励むメンバーで構成され、様々なイベント、フェスティバル、公演等に出演。
松本晋一氏とTokyo Rhythm Boysとしてデュオで活躍する一方、1998年よりStudio
VIEWをOPENし後進の指導にも積極的に力を入れる。
2002年7月にはタップ専用フロアーを整備した膝・腰にとても優しい)タップダンス専門スタジオ
T R B タップダンススタジオをオープン。
[主な出演作品]
舞台
東宝ミュージカル・「王様と私」、「ラ・マンチャの男」、「42nd Street」、一路真輝ファーストコンサート。帝国ホテル”大滝子ディナーショー”他
C M
ホーキンス”とんねるず足の吹き替え” パナソニック”ボブサップ足の吹き替え”他
T V
はなまるマーケットタップ指導他 平成3年、松本晋一氏と Tokyo Rhythm
Boys を結成し多数の舞台に出演。
今は、男子が踊ることがふつうになりました。でもそれを仕事にするとなるとなかなかたいへん。ご両親はどのように見ていらしたんですか。

穴田「親には、留学するときから反対されていましたね。もっと安定した職業に就くように、と。それで、ダンスに関わる職業とはなにかと考えてオーディション受けてディズニーランドに入ったんですよ。」

いつ頃ですか。
穴田「ディズニーがオープンして8年くらいの頃で、10周年の時にもいました。タップだけの仕事ってないですから。踊りという大きな視野に立っていろいろ試行錯誤しながら、でもやっぱり好きなタップで食べられるようにしたいなと思ったけど、タップでショウの仕事は少なかった。早くから教えもしていたんで、それならタップを広めていくことをしたいと思うようになりました。」
松本「僕はレビュー的なことが好きなので、それに近いものをやっていて男が入れる場所をしぼっていったらディズニーランドだった。実はオーディションの日が父の葬式で、それで行かれませんって言ったら、翌日に僕一人だけ受けさせてくれたんです。」
いいお話ですね。ディズニーのショウは、ほんとうにみごとで楽しめます。
松本「そうですね、やっぱり王道をいってますね。」
穴田「ディズニーランドでは、僕たち同じ場所で踊っていたりしたんですよ。」
やっぱりご縁があったんですね。ショウのペースはどのくらいですか。

松本「一つの振付、一つの作品を1日3回から5回、1年間をとおして踊るんです。」

その公演数は、バレエ・ダンサーはうらやましがるでしょうね。踊るのにペース配分はたいへんでしたか。
松本「慣れれば平気なんです。」
穴田「いい経験になっていることは、確かですね。あとになって自分たちで創ろうと思った時、改めてディズニー作品の内容も見せ方もほんとによくできていると思いました。」
お二人とも渡米していらっしゃいますね。本場で習った時に衝撃を受けましたか?
松本「’96年から1年ぐらい行ったんですが、向こうで一番感じたのは、みんな楽しんで踊っていること。スピリットみたいなのが違うな、と。日本のスタジオって昔の習い事気質が残っていたような、修行みたいに先生が厳しかったような気がする。向こうでは、もっと解放されて自由な雰囲気だった。」
穴田「僕も日本で決まったルーティンを練習するスタジオに行っていたんで、それがすべてだと思っていた。向こうに行ったら、コンビネーションをやっていて、翌日行くとまた違うことやっている。先生もすごく努力していて、周りも学ぶ気持ちが強い。幅の広いことをやっているんだなと感じました。」
ところでお二人は、東京リズム・ボーイズというコンビで踊っていますね。”小粋にさらっと気張らずに”。
松本「タップもいろいろ種類があって、ひとつはフラッシュ・アクトっていうワッと驚かすようなもの、それはそれで素晴らしいんですが、もっと力が抜けて踊ってもいいのかなという思いがあったんです。」
レパートリーにはジャズのスタンダード・ナンバーもあって。はじめから志向するところが一致していたんですか。
穴田「僕のほうが年下で、松本が先輩。どっちかというと先輩から声をかけてもらって、僕としては学ぶことが一杯あったんで、舵取りをしてもらってついていったんです。」
松本「暗黙の了解みたいな感じで、僕は作品づくりとか曲選びをやらしてもらっています。穴田とは一番呼吸が合ったので、彼もいやだったらいやだと言っただろうし(笑)。それでさらっとやろうよ、と。小学校6年生からレビュー見始めて、宝塚を見てジャズを覚えて、たぶん僕は最後の日劇とSKDを見た世代じゃないか、と思います。」
あそこはいろんな曲で踊りますものね。

松本「だからジーンズ着て踊るより、燕尾服着て踊る方が好きなんですね。憧れたのかもしれませんね。」

東京リズム・ボーイズの初舞台は?

松本「出会ったのが’93年で、小岩の街の商店街のイベントで踊ったのが最初。今でもやっていますがハンド・クラップというディズニーのダンサーが集まってやる自主公演で街のイベントでショウをやるというので、そこに後輩で入ってきたのが彼でした。」

いい名前ですね、東京リズム・ボーイズって。もちろんポリシーも。

松本「名前はオヤジの影響です。昔の芸人さんみたいでしょ、なんとかボーイズって。」

松本さんのお父様は、ボードビルの早野凡平というコメディアンで、不思議な味わいとウィットのあった方。当時、中高生の私たちはファンで凡平ちゃんと呼んでいました。

松本「なんかかわいげがある人でしたね。小さい頃、父親がテレビに出ていた時期があって家族も出させられて、それがいやでいやでおもちゃ買ってもらえるんで出ていた。母が、モダンダンス教えていて僕は稽古場で育ったんです。周りはレオタード着たお姉さんばかり。だから20歳過ぎまで自分が踊りをやるっていうイメージがなかった。」

インタビュー、文
林 愛子
Aiko Hayashi

舞踊評論家 横浜市出身。早稲田大学卒業後、コピーライター、プランナーとして各種広告制作に関わる。そのかたわら大好きな劇場通いをし、’80年代から新聞、雑誌、舞踊専門誌、音楽専門誌などにインタビュー、解説、批評などを寄稿している。
フォトグラファー
長谷川香子
Kyoko Hasegawa

ステージフォトグラファー
日本写真芸術専門学校 広告・肖像科卒業後株式会社エー・アイに入社。飯島篤氏のもとで舞台写真を学ぶ。幼少時より習っていたクラシックバレエを中心にコンテンポラリー等多くの公演の撮影を経験。
ところで、日本のタップダンスをめぐる今の環境というのは、変わっていますか。
穴田「大きく変わってきています。たとえばタップ用語はアメリカでも統一されていないんですが、留学して学んできた人たちが増えたので、まだ十分ではないけれど15年前に比べたらはるかに整備されてきています。」
松本「そうだね。」
穴田「以前はPタイルのような足に悪くて膝も痛くなる床のスタジオもあったけど、今はタップ専用のスタジオも増えました。それと、一時期衰退期があって、現在50、60代でスタジオで活躍している人があまりいません。そんなこともあって、僕らの世代は仲がいいんです。昔は門下が違うと、他の門下の違うステップを学べませんでした。狭めるのはよくないと思って、自分がスタジオ開くときにはいろんな先生を呼ぶことにしました。
うちは十数人の先生がいてどこにも気兼ねなく教わることができます。いいところを互いに誉め合いながらみんなで伸びていこう、それが僕らの世代のスタンスなんです。」
松本「戦後ぐらいまでの世代の方々は、渡米すること自体がたいへんだった。弟子を育てるというよりは、学びたかったら来なさいというかたちですね。
そのあとの中野ブラザーズの両先生方や佐々木隆子先生の世代でちょっとアマチュアに広がったけど、まだ限られたルートしかなかったんじゃないかと思う。で、僕らの時代になってくるとぼちぼちアメリカに行って、僕より下になるといきなりニューヨークで教わってくる。’90年代にはもう師弟関係というのがなくてもよくなってきていた。さらにその世代から学んだ世代は、昔と全然違ってほんとに自由。実際、今、日本のタップのレベル高いんですよ。」
穴田「タップ仲間のみすみゆきこさんがおっしゃっていた事なのですが、昔、アメリカにあった環境っていうのが今、日本にあるんですね。僕もそう実感しました。自由に踊れて、みんなが集まれる場所があれば、ぐっと伸びるんです。」
お二人は、ナショナル・タップ・デイにも関わっていらっしゃるとか。

穴田「もともと牛丸謙先生という方が始められたんですが亡くなられて、今は、僕らがやらせていただいています。タップの交流を目指した大きなイベントで、プロもアマチュアも集まって、年に一回タップを見せるんです。お客さんが、タップってこんなに楽しいのかと感じてくれればいいかな、と。」

そのお客さまがリピーターになったり、習い始めたりするといいですね。
松本「今、タップの横のつながりってすごくいいんですよ。へんにスタジオの隔たりがない。こういうイベントをやろうというと、ふだんは別のスタジオでそれぞれやっている人たちが、うまくコミュニケーションをとってやっている。」
穴田「できることを少しでもやっていこうと、一般公募で子供たちを集めてダンスを教えてショウをしたり、海外に派遣する組織に協賛金を出したり。今、27団体あるんですけど何をやるにしても、僕は直接会いに行くんです。大切なのは人間同士の関係だから、賛同して一緒に入ってやってくださいね、と。紙切れ1枚で参加を決めるというのとは違うから。だから今年もそうですが、失礼なんですけど技術はあまりという方でも熱意があればいい、と。アドバイザーとして松本さんや何人かお願いしている人たちが、せっかく交流を目指しているのに、そこで切っちゃいけないから、と。お祭りだから当然プロも呼んでいいものを見せるということも考えていますが。」
松本「ひとつのスタジオでの発表会では、お客さんは限られているけど、20団体以上でフェスティバルやると、ふだん見てもらえないお客さんが来る。そういう意味では、お客さんのなかにはタップをやっている人もいるんで注目されることにもなります。」
穴田「登竜門的な扱いにもなるんです。だから今活躍しているプロタップダンサーのほとんどの人達は、ナショナルタップディから巣立っているように思います。。」ナショナルタップディ ホームページ
http://www.ntd1991.com/

お二人の公演はないんですか。
穴田「10月に博品館劇場で、東京リズム劇場をやります。先生方がご自分の稽古をもっているので、週1回集まって集中的にリハーサルをしているんですよ。演出は松本さんで。」
松本「宝塚とワハハ本舗が一緒になったような舞台で、間にコメディスケッチが入ったり、タップでダンサーのことを皮肉ったりとか、そういうコントみたいなこともやるんです。一応エンターテイメント性を重視したショウを穴田と冨田かおるさんと3人でプロデュースしてやってきています。」東京リズム劇場 ホームページ
http://www.tomitatap.com/trt/

10月の舞台が楽しみです。最後にタップを踊る楽しさについてお話いただけますか。
松本「ジャズダンスとかバレエは悲しみとか喜びを表現しようとしますね。タップでそれをできなくはないけど、タップじゃなくてもいいんじゃないか。じゃ何がテーマにあるかなと思ったら、ジミー・スライドっていう人の踊りを見た時に、人間味がすごくあるんですね、生きているって楽しいでしょうっていうことが伝わってきて。基本的に、楽しいよねっていう気持ちで踊っていればタップは間違いないんだな、と。楽しさをステップの音といっしょに曲にのせて動いていると、もうそれしかないのかなと、最近思うんです。」
穴田「ミュージカルでジャズダンスを踊っている時にはメロディーに合わせていたんですが、その時、むしょうに音を出したかった。それで休憩中、一人でずっとタップの練習していたんだと思う。音を出せたらどんなにいいだろうというストレスをずっと持っていたんですね。だから今、タップシューズ履いて自然に踊っていられることが楽しいですね。」
松本さんのこだわりの品
「宝塚スターのブロマイド」

 

最後に松本さんの夢についてお聞かせください
Q,あなたが子供の頃に思い描いていた「夢」はなんでしたか?

自分はそんなにしっかりした子供じゃなかったので将来の事なんて考えていませんでした。その時に興味があった事に熱中して今日まで来てしまった気がします。なんとなく覚えているのは、宝塚のブロマイド屋さんをやりたかった事、宝塚の演出家になってレビューを作りたかった事ぐらいでしょうか。

Q,あなたのこれからの「夢」は何ですか?
シアタータップの振付が得意な振付師になれたらいいですね。レビューとタップの知識をうまく活かしていきたいです。あとは大好きなロープウェイに関する仕事もしてみたいです。

小学6年からレビューにハマり宝塚を筆頭に日劇、SKDも見てまわっていました。宝塚のブロマイドが好きで、日劇の裏にあったふじやブロマイド店によく通いました。自分が見始めた頃のスター、安奈淳、鳳蘭、松あきらの頃から、それ以前のスター、明石照子、寿美花代、那智わたる、甲にしき、まだ記憶に新しいところでは真矢みき、安寿ミラあたりまで約2500枚ぐらいあります。今はカラースチールのみになってしまいましたが、白黒のブロマイドのが好きです。昭和30年代頃のブロマイドはとても味があってキレイなんです。
この他にも公演プラグラム、レコードなど多数集めています。宝塚というよりレビューに関する資料集めを
しているつもりなんです。
余談ですが、僕のコレクションが僕の宝塚のホームページでも確認できます。
http://vintaka.fc2web.com/index.shtml
穴田さんのこだわりの品
「刑事コロンボ」

 

最後に穴田さんの夢についてお聞かせください
Q,あなたが子供の頃に思い描いていた「夢」はなんでしたか?
子供の頃はともかく目立つことが大好きで、よくモノマネなどをして人を笑わせていた記憶があります。
漠然としていますが、“何か”人を楽しませる仕事につければ、と思っていました。
Q,あなたのこれからの「夢」は何ですか?
生涯“学ぼうとする心”を持ち続け、いつでも踊り続けることができれば幸せです。
また、ナショナルタップディ他、タップダンス界全体を盛り上げて日本でのタップダンスの認知を広げるとともにタップダンスの地位向上を図りたいと思っております。
基本的には仕事に夢中で特に“趣味”というものはないのですが
仕事が終わり自宅に帰るとほっと一息しながら、ボーっと刑事コロンボのビデオを見ています。
何回も見ているもので内容など全て把握しているので、特に興味をもって見ているのではなく
ただ、ボーっと見ています。
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