「想う会」に思うこと
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深川秀夫のもたらしたもの
「想う会」に思うこと
うらわまこと 2021年8月10日
2021年5月27日。小田急線代々木上原駅近く、急な坂の途中にある瀟洒な小スペース、ムジカーサ。あいにくの雨にもかかわらず、そしてコロナ禍のもとなのに、多くの舞踊人が集まり、行き交いました。
昨年9月にこの世を去った深川秀夫を、時節がら静かに偲び、その業績、魅力を語り合う会、「深川秀夫の世界一深川秀夫を想うー」。
まず、彼をよくしらない人のために少し紹介しておきます。
深川秀夫(1947~2020)は愛知生まれ。幼くして越智実に学び、彼の後押しもあって、1965年にヴァルナ国際バレエコンクールに参加、17歳の若さ(最若年)で第4位に入賞、世界のバレエ界に衝撃を与えました。さらに68年の東京新聞主催全国舞踊コンクール1位をへて69年にはモスクワ国際バレエコンクール2位、合わせてニジンスキー賞を受賞。
そして同年、東ドイツ・ベルリンコミッシュオペラとソリスト契約。そのあとヴァルナコンに再び挑戦、第2位に。それからコミッシュオペラ、シュツットガルト・バレエ、そしてバイエルン国立歌劇場と契約。それらのバレエ団で、また個人として、ヨーロッパ、ソ連さらにアメリカ、カナダなどで世界的なガラやバレエ団公演のゲストとして、フォンティンやヌレエフなど世界一流のダンサーと共演。そのダイナミックな動きはフライング・ジャパニーズ(空飛ぶ日本人)と持て囃され、日本人ダンサーの評価を高めました。彼は間違いなく、森下洋子、吉田都、熊川哲也ら多くの日本人ダンサーの海外進出の道を開いたパイオニアだったのです。
1980年に帰国、名古屋に本拠において、日本各地で踊り、作品を提供するようになる。
80年代半ばから、彼をしたうダンサーを集めてグループを編成、「深川秀夫バレエの世界」として東京を初め全国各地で公演を行いましたが、今世紀に入ったころから活動の主体を名古屋から西に移します。そのため東京の舞踊界・ジャーナリズムには縁が薄くなっていきました。
しかし、彼の作品、そして人柄は独特の美意識と魅力に満ち、観客だけでなく、彼と接したダンサーたちをも強く惹きつけていたのです。
2017年6月、作品リハーサル中病に倒れます。それでもなお、酸素吸入を続けながら各地に作品を提供していましたが、20年に入り、コロナのため、その活動をやむなく中止せざるをえなくなります。
バレエと人間が大好きだった彼が、それらとの接触がかなわなくなったことが、その死期を早めたのではないかと、かえすがえすも残念でなりません。
さて、会場(ムジカサ)は、多数の壁と小さな室内テラス、中二階を持った複雑で濃密な小空間。入って正面に彼の遺影、来場者は各自そこに花を捧げるのです。それを中心に多くの資料が陳列されています。海外時代のものが主体で、そこにはコンクールのメダル、多くのレジェンドを含む審査員のサイン入りの表彰状などから、舞台やプライベートの写真、ドイツ、ソ連などの現地の新聞記事、プログラム、そしてテラス風の二階には舞台衣裳が数点飾られています。
さらに、壁をスクリーンに映像が投影されました。圧巻は1965年のヴァルナコンクールの「ブルーバード」。その他彼の舞台、振付作品が繰り返し放映されます。なかには彼が師事し敬愛したジャン(クロード・ルィーズ)のソロ作品「ナルシスト」のように初めて見たたのもの、自作の「ヌ・メ・キテ・パ」のようになつかしいのもあって飽きることがありません。特に収穫は女性2人との「ニジンスキーへの思い」。改めて、深川秀夫のダンサーとしての独特の香りをった魅力、振付者としての才能を思い知らされました。
会場には彼のミューズとも言える大塚礼子初め、ゆかりの深かった谷桃子バレエ団のメンバーなど多くの舞踊家、評論家、友人、ファンで朝から夜まで、(コロナに留意しつつ!)にぎわいを見せていました。
主催したのは、『深川秀夫の世界』を継承する会。
昨年深川が亡くなった後、彼と関係の深かった人々が彼のレガシーというか、遺産を整理、管理し、とくにその作品を後世に伝える、という目的で作られた組織。事務局は照明の足立恒(代表)、舞台監督の森岡肇、ともに深川とずっと活動をつづけてきた仲間です。さらに遺族を代表して姪の深川知巳、友人のピアニスト中埜ユリコ。さらに協力スタッフとして各地の技術スタッフの仲間たちなど。そして私(うらわ)がアドバイザーをつとめています。
深川秀夫の遺産、資料はほとんどが名古屋の彼の自宅にあり、それを整理するだけでも大変な仕事。それをまた東京のこの空間に運び、きちんと陳列、また上映するなど、その苦労は並大抵ではありません。さらに作品の上演記録などは、それぞれその団体に聞き取り、アンケート調査をしてまとめてあり、それだけでも貴重品ものです。
さらにこの団体の重要な仕事に、作品の権利の保護、それと同時に正しい上演の推進があります。
芸術面、技術面では外国に負けないわが国の舞踊界で、残念ながら足りない2つの条件。1つは舞踊家の生活(収入)面、そしてもう1つは、作品の蓄積(保存)、利用です。すなわち、作品を(社会の)ソフト財産として、守り、伝えること。海外では良く知られるバランシンファンデーションをはじめとして、作品の権利と質をまもりつつ、広く各地で上演できるような組織、システムを整備することです。
わが国にも世界的な優れた作品が多数あります。しかし、それは残念ながら振付者個人しか上演できません。彼、彼女が直接指導しないと、その作品は舞台に上がらないのです。彼らがいなくなれば、その作品も消えてしまいます。もちろん、映像で記録しておいて、再演することは不可能ではないかもしれません。しかし、それは作品の権利、あるいは質を保証するものではなく、法的、倫理的に問題です。それをしっかりするには、まず作品の保存、権利の保護、そして正しく舞台化できる人とシステムが必要です。それには、理想は舞踊譜、そして振付の移植・指導者が求められます。さらに言えば、その作品を対価を払ってでも上演したいというもの、バレエ団がなければなりません。つまり広報です。
これは簡単なことではないのです。深川秀夫という世界的な舞踊家の逝去が、わが国舞踊界のこの面での世界水準への到達の端緒になれば素晴らしいと思います。
舞踊評論家
本名 市川 彰。慶応義塾大学バレエ研究会において、戦後初のプリマ松尾明美に師事、その相手役として、「ジゼル」、「コッペリア」などのほか「ラ・フィユ・マル・ガルテ」のアラン、リファールの「白鳥の死」の狩人役を日本初演。企業勤務の後、現在大学で経営学を講義しながら舞踊評論を行っている。 各紙・誌に公演評を寄稿するほか、文化庁芸術選奨選考委員、芸術祭審査委員、多くの舞踊コンクール審査員、財団顕彰の選考委員などを務めている。
舞踊評論家
本名 市川 彰。慶応義塾大学バレエ研究会において、戦後初のプリマ松尾明美に師事、その相手役として、「ラ・フィユ・マル・ガルテ」のアラン、リファールの「白鳥の死」の狩人役を日本初演。企業勤務の後、現在大学で経営学を講義しながら舞踊評論を行っている。 各紙・誌に公演評を寄稿するほか、文化庁芸術選奨選考委員、芸術祭審査委員、多くの舞踊コンクール審査員、財団顕彰の選考委員などを務めている。