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舞踊評論家・日下四郎氏の連載コラム「ダンスレビュー」
縦に走る中央の廊下らしい細い路を挟んで、共にドアが1ケ所ずつある白板ばりの大きな事務所。その2つの空間が、舞台いっぱい左右に対称的に並んで置かれている。そこへ三々五々――というより、いつもせかせかと立ち止まることなく、それぞれ独立した2つの会社のサラリーマン、そのくせ一向区別のない無個性な背広や事務員服の男女数人が、ひたすらドアから出たり入ったり。そのダンス・パフォーマンスがノンストップで、延々と最後まで続く。 ただしその途中で一回だけ、中央通路の奥にみえる鎧戸がゆっくりあがって、その向こうに楽屋のような控え室が現われるシーンがある。これが謎のタイトルの「政治的」と何か関係があるのかと思ったが、そうではなかった。あとでチラシの隅に「力関係、気配り……とかくこの世は(政治的)」という説明のあることに気づき、要はビジネスマンたちの行動や振る舞いを、そういった目で振り付けたらしく、これでますます判らなくなった。 私にとっては昨年度の「補欠」は見逃し、今回は2002年の「暗黙の了解」以来の井手作品である。日常生活にみる人間のクセやしぐさを拾い上げ、これを独自の動きに置き換えるスタイルは以前と同じだ。とぼけた誇張や、意表つくアクションも健在だし、新しい動きもそれなりに工夫されている。しかし観ていてなにかモノ足りない。商標マークである“クスクス”や“ワハハ”の笑いが、どうも勢いよく飛び出して来ないのである。 90年代の後半に、「アンノジョー」や「茶ばしら」等をひっさげて登場した、このクルーのユニークさは格別だった。笑いの向こうに潜むするどい風刺の棘。それは当時たまたまスタートしたパークタワー・ネクストダンスフェスティバルの目玉商品でもあった。それがこの舞台では、どことなく矛先が鈍っていて、吹っ切れない印象が残るのだ。 どうやら井手は作品を仕上げるに当たって、今回は演劇的要素をなるべく切り捨て、全体をピュアな身体運動のダンスに凝縮することを目指したようだ。しかし逆にその純度が上がれば上がるほど、効果としての暗喩度が薄れていく。動きのインパクトが、いわば一元的な体育的表現の域へと退化している。だが彼が目指す真の標的を射るためには、単にマンガティックなゼスチュアだけでは、どうしても限界があることを知るべきだ。 それには作品を創るにあたって、振付の踏み台として、そのモデルとなる生活のルールとか、あるいは日常に滲みついた行動の残渣といった、一種の人間くさいマンネリズムを前提として準備しておく必要がある。抽象や機械が相手ではダメだ。初期のころは日本人の体臭が充満した社会、葬儀とかやくざの世界、生活に根付いた庶民の習慣とかクセ、あるいは権力者の取り仕切る仰々しいセレモニーの実際など好んでとりあげた。 今回の公演では、それが事務所勤務のサラーマンという比較的乾いていてメカニカルな世界に限定されている。またそこへなんらかのストーリーなり、特別の事件を設定しているわけでもない。このクルー本来の妙味を発揮するには、背景が近代的でいささか整理が行き届きすぎていた。イデビアン式メソードの動きの妙味は、それがかかわる題材との組み合わせで成り立つもので、その第一の関門としての素材が、いささか近代風では弱い。 いま振り返ると前世紀の終わりに、コンテンポラリー・ダンスというジャンルが導入されてからというもの、この国にはいくつかの“演劇系ダンス”の集団が登場してきた。異論もあろうが、このイデビアン・クルーもそのひとつ。セリフなしの、一風かわった(あるいは跛行的)身体表現を武器とするグループの動きは、マンネリ化気味のモダン・ダンス界に、ある種の挑戦として人気を博し、決して無視できないファン層を獲得した。 例えば90年代に入ってデビューした≪珍しいキノコ舞踊団≫は、典型的なその一例である。日大の芸術学部出の連中が集まり、伊藤千枝、小山洋子らが仕切る、小劇場系から流れてきた集団だが、10数年のキャリアを経て、代表作である「私たちの家」とか、「フリル」などは、変わったダンス作品として、ともかくコンテンポラリー・ダンスのレパートリーの一部に数え上げられている。 いまもしそこから任意の作品を取り出し、そのストーリー部分を消して、伊藤千枝の振付だけを凝縮して作品を再構成したら、そこにはちょっと理解を絶する、タガのはずれたようなパフォーマンスが出現するだろう。同時にこの集団のよりどころである一切の魅力やおもしろさも、逆に消え失せてしまうに違いない。これは同系の≪かもねぎショット≫に当てはめても同じ。そして今回の「政治的」に、ややそれに準ずる危険を見た。 このことはなにも“演劇系”だけにはかぎらない。それより早く80年代の末にお目見えした≪ダムタイプ≫などは、もうひとつの“テクノ系”で、こちらは音楽や映像、電子光学など、美術とインスタレーションの先端技術を武器に作品を作る。そのあと90年代に入って、≪パパタラフマラ≫、≪発条ト≫、≪ニブロール≫などがこれに続いた。さらに違った行きかたのグループとしては、例えば劇場ショーとあまり違わない、レビューのような“ミュージカル系”も出てきている。これらがみんなコンテンポラリー・ダンスをもって自認しているのだから、この世界はなんとも幅広くかつ複雑だ。 しかしながら、ダンス作品を名乗る以上は、やはりそのいちばんの基盤であり拠りどころである身体を無視しては自滅である。すなわちプロのレベルをマークした運動体としての筋肉と感受性、徹底した訓練の積み重ね、どんな課題でも受けて立つ即時の敏捷さ、そういったパフォーマーとしての資格が第一の関門だ。単に日常や生活をストレートに持ち込み、やたら素人に踊らせてみたからといって、エンタメ以上のものは出てこない。また一方では、最新のテクノロジーや凝った映像を誇示するのが先で、あわれ技術に欠ける肉体は、ただのマテリアルとして隅に隠れてしまっている。もし大向こうに受けを求めるだけなら、さっさと歓楽街の演芸ホールか、もしくは科学展示館なりアトリエ、実験工房に直行して売り込むだけで、万事コトは足りるとおもうが、どんなものであろうか。 このレビュー、イデビアンの批評から、日本の現代舞踊全般がかかえる問題点へと、いささか勇み足に過ぎたかもしれない。井手振付の舞台成果と技術は充分認めた上で、あえてそれが内包するコンテンポラリー・ダンスの問題の一部を拡大して論じたもの。この点だけは誤解なきよう、しめくくりにひとことお断りしておく。(17日所見)
現代のドラマティックな心理バレエ [タチヤーナ]バレエシャンブルウエスト公演