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舞踊評論家・日下四郎氏の連載コラム「ダンスレビュー」

ダンスレビュー



コンテンポラリー・ダンスの幅広いスタイルを示したフェスティバル
―「コレオグラファーズ Xmas コンサート」ー
2007年12月15,16日 @日暮里サニーホール
日下 四郎 [2007.12.25 updated]

コンテンポラリー・ダンスのおもしろさは、伝統的なジャンルにこだわらない作品作りの創意にある。日本の舞踊ファンの中には、この言葉はモダン・ダンスに続く舞踊のニュー・ジャンルのことで、特に映像など新しい電子メディアを生かした舞台を指すのだと誤解している向きもあるようだが、そうではない。バレエにだって日本舞踊にだって、コンテンポラリーの8文字は、堂々と冠していい共通の一般形容詞である。要は作品がその感性や発想において、いかに今日の人間社会や視点に密着したものであるかどうかだけが問題なのだ。

それだけに反面からいえば、はたしてそのダンスが真に“コンテンポラリー”の名に値する中味なり成果を上げているかどうか、その判断は想像以上に難しい。そもそもこのタームは、ヨーロッパにおけるヌーベル・ダンスの跡を受け継いだ名称で、それがこの世界でグローバルに普及した。すなわちポストモダンやコンタクト・インプロビゼーションまで、すべてより新しい発想や表現を一括した、もともと主観の強い相対的性格を帯びた言辞なのだ。

日本ではこの言葉が輸入された時点から、たちまち流行に乗った。そしてそれ以後さまざまな創作が次々に“われこそは本命”と名乗り出たのだが、実はその中味はただの観客をおもしろがらせているだけのエンタメの一種であったり、あるいは最新のテクノロジーを誇示した、ダンスはただお添えものにすぎない美術空間だったりする。これさまざまな試行や逸脱が、ひたすら百鬼夜行している状況というほかはない。

真の“コンテンポラリー・ダンス”とは、いったい何を指すのか。今回《ダンスカフェ》と荒川区の管理者《シービーシー》が制作した「コレオグラファーズ Xmas コンサート」は、この課題に立ち向かった、一見地味だが実はまことに真摯でケレン味のない普段着の企画である。ただ特定の資本や組織にたよらず、あくまでもプロデューサ・サイドのイマジネーションと気力で敢行した、手作りによる“コンテンポラリーの祭典”の好例だといっていい。

そしてその結果、それなりの成果はちゃんとあった。集まったコレオグラファーの顔触れは、井上加代子,瀬河寛一、地主律子、Art Dance Theater Function、藤原悦子の5者。従来風のジャンルで種類分けしても、バレエ、モダン・ダンス、ジャズ・ダンス、シアター・ショーと多様だが、その中に1本の線として見え隠れしているのは、あくまでも身体を軸とした斬新なダンスの出現にこだわる制作者の理念。「ジャンルにこだわらない新しいダンスのあり方が日常的に行われ」(プログラム・ノート)ることを願うプロデューサの、地に足をつけた未来へのこころみが、そこには読みとれた。

古典バレエの公演並みに、たっぷり2時間半をかけてプログラミングされたイヴェント。5作品はどれもがそれなりに独自性があって興味深い。ただその仕上がりへの評価は、コンテンポラリー・ダンスの多様さゆえ、当然ながら観る人の好みによって異なる。私の照準に照らし合わせての採点では、前半に出てくる「Green」(地主作品)と、トリを受け持った「Le Petit Prince」(藤原作品)の2本がよかった。二人のコレオグラファーは、ともに“コンテンポラリー・ダンス”の合格ラインを充分にマークする、たしかな実力と可能性を備えている作家だとみる。。

地主律子の世界には、シリーズ「GAIA」以来、常に地球環境に対する深い憂いと優しい祈りといったものがある。それにちょっとコミカルな味わいを添えて演出したシリーズの3作に対し、今回は時間的な展開を織り込み、全体を群舞に拡大して構成した。ただし流れの中心は、常に輝くソロイスト地主。その都度花を取り替えてスポットに浮上する清楚なフィギュア。現代舞踊界には希少な、このダンサー独自の気品と優雅さが、主題に添った自然な説得性を生み出した。静かだが力づよい作品。メタファーを生かした美術(柴田景子)の協力も無視できない。

藤原作品「小さな王子(Le Petit Prince)」は、もともと特異な感性を持つこのコレオグラファーが、今回はその本領を遺憾なく発揮した好作品。初景は数名のダンサーが、真っ白な衣装を身にまとい、ねそべったり壊れた椅子にまたがるなど、異様なストップモーションではじまる。そこへ黒いマスクに真っ赤な衣装をした怪異な人物が加入し、あとは空間にスモークが流れたり、異様なノイズとサウンドのうちに、ダンサーが奇妙な動きを繰り返し、赤衣の王子は身をもがいて仮面をはがしとるというのがコンテンツのほとんどだが、その白と赤の視覚対比だけでも、初手からあくどく藤原カラー。そしてこの爆弾仕掛けのようなダダ的造型に、最後までまっすぐ体当たりを敢行した振付の姿勢は強烈。久々に純正アヴァンギャルド・スピリットの日本版を見た思いだった。

一行批評でその他の3作品にも触れておく。先ずトップの群舞「砂漠の鳥」(井上)は、ダンス・クラシックとミニマル・ミュージックを組み合わせた発想が、売りのポイント。空間の感性も美しいが、特にそれ以上の冒険や踏み出しのがないのが物足りない。

外国生活の長かった日本人瀬河の「STAND」(瀬河)には、形は取れていながら中味が空洞という不思議な感覚を覚えた。マルティエスニック(多国籍)の出演者が生んだ偶発的効果か、あるいは意図した新スタイルの一種か。

芝原公孝/横山まみが演じるデュオの「空―KU-」(Art Dance Theater Function)は、ダンスというよりむしろ擬似サーカス。照明との共同作業で、四肢の一部、シルエットの全身、背中の筋肉などを、イマジネーションにうったえて、ちょうどだまし絵のように、別な生物の動きに写し変えてみせたりする。フィリップ・ドュクフレ系列の小規模な舞台とでも呼ぶべきか。コンテンポラリー・ダンスが包含する、多様なレパートリーのひとつには違いない。(15日所見)

 

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