.shtml> コラム:ダンスレビューVol.13:ダンス・舞踊専門サイト(VIDEO Co.)


D×D

舞台撮影・映像制作を手がける株式会社ビデオが運営するダンス専門サイト

 

ニュース・コラム

舞踊評論家・日下四郎氏の連載コラム「ダンスレビュー」

ダンスレビュー



10年間の足跡を問う舞台:そこに新国立劇場の見識をみた
―ダンスプラネット25「ダンス・セレクション」ー
2008年1月18日(金)-20日(日)
at 新国立劇場 The Pit

日下 四郎 [2008.1.28 updated]

 1997年の開場から数えて、ちょうど10周年目を迎え、昨年の秋その祝祭展を終えたばかりの新国立劇場。その期間、現代舞踊の制作部が上演した数十を数える演目(ダンステアトロン15回、ダンスプラネット24回)のうち、今回はその中からあえて4本のステージをピックアップ、これを「ダンス名作展」と銘打って上演した。

 一口に再演というが、そのインパクトあるいは意味するところのものは、想像する以上に大きい。それは選ばれた作品が、この10年間にこの国で受容された現代舞踊というジャンルの実態、すなわち観客一般に与えたイメージが、どういうものであるかを示すと同時に、制作にあたっている国立劇場側の、今後の目標なり姿勢を示唆することに他ならないからだ。その意味でこの公演、単なる新作発表以上の注目すべきプロジェクトとなった。

 2時間半にわたる熱演のプログラムは、最初から結論を言うと、なかなかに充実した内容であり、よくその目的を果たしたと評価できる。まず選択されたダンスの質だが、それぞれ身体を軸に、各作品が微妙に色分けされており、かつ技量と才能の点では、当初の期待を上回る見事なレベルにまで到達していることを証明した。その進化の度合いは、ある意味ではバレエ部門を、一歩も二歩も先んじているとさえ断じていい。

 具体的な作品としては、まず第1部にダンスシアタ・ルーデンスのメンバー3人による「Against Newton」(40分、初演:2003年3月)。次の2部は平山葉子と能美建志のデュオ「シャコンヌ」(15分、初演:2003年9月))および内田香と古賀豊の顔合わせに、ヴァイオリンの生演奏(末永千湖)が咬む「Espresso」(15分、2003年9月)の2本。そして第3部にはぐっと趣向を変えて、川野眞子/中村しんじを中心とした、ナチュラルダンステアトルの演劇的作風の「さーかす」(60分、改訂版上演:2006年9月)と並べた。いずれも過去この新国立劇場で上演されたオリジナルもののアンコールである。

 戦前から戦後へと受け継がれたモダン・ダンスが、80年代に入ってコンテンポラリー時代へと突入すると、その現代舞踊としてのすそ野は飛躍的に拡大した。その多様化は、この国の場合、特に演劇ジャンルとの相互乗り入れと、舞台空間に挑む映像・電子のニュー・テクノロジーという二つの面で、特に大きな特色を持っている。問題はそれにつれて、人間の身体を素材に勝負するというダンス本来の姿がややもすると見失われ、いたずらにデテールと技術面でのイノベーションを誇示するだけの、いってみればある種の袋小路に迷い込む現象が付随して見られたことだ。

 その先に何が発生したか。観客にはダンスとエンターティンメント、もしくは美術作品との違いが見分けられなくなり、一方作品の側からは、いたずらにわずらわしい属性部分が身体をおおいかくし、たちまちダンスが精気を失っていったのだ。果たしてダンス芸術としてのレゾン・デートル(存在意義)は、いったいどこへ雲隠れしてしまったのか。

 その点今回選ばれた作品は、どこまでも身体を拠点とし、一切をその最良のテクニックと表現メソードに集中する意図で作られていた。この点をまず何よりも評価したい。しめくくりに登場した「さーかす」も、近年クロスオーバーの盛んなコンテンポラリー作品の中から、あえてダンスに重点を置いた≪ナチュラルダンステアトル≫の一品を選んだ結果の選択とみる。巧みに操る大テントの活用など、かつて70年代に人気を呼んだアービン・ニコライの手づくりのマジックを想起させ、また街頭テレビや労働歌の挿入など、日本の戦後史をダンスベースでとらえてみた作品意図も、新しい現代舞踊の魅力を伝える得点源かもしれない。

 その前半の3つのダンスだが、これらはただうまいダンサーを、並列的に取り換えて組んだだけのプログラムではない。どの作品も、照明のデザイン以外は、ほとんどセットらしいセットの助けを借りず、すべて素の舞台である点、いや逆にそうであればこそ、ダンス本来の味がクローズアップされた。それぞれの質感の違いが、はっきりと見えてくるのだ。技術至上主義が、ダンスという生の身体芸術から、はしたなくも奪い去っていた部分である。

 「Against Newton」で岩淵多喜子ら3人のダンサーが見せる動きには、考えられる身体表現のあらゆるパターンが込められている。スピーディで、休みなく展開される伸縮反転と昇跳蹲居の、ほとんど極限的なボディ・エクスプレション。身体まるごとを分節して次々に切り出してみせるその表現には、明らかにルドルフ・ラバンの影が読み取れる。それは一切のエモーシォンを断ち切った、きびしい身体の対“空間”意識である。

 その点、次にくる男女のデュオ「シャコンヌ」には、あきらかに“センティメント”の匂いが漂う。ただし甘さはない。そこには特にバレエから出発した平山素子のキャリアが、陰に陽に働いているのだろう。至宝の男性パートナー能美を相手に、常に「美しい身体の繊細な揺らぎ」(ノート)を目指しつつ、とことん凝縮し磨き上げたこの逸品。コンテンポラリーの至高のランクに位置するサンプルだと断じていい。

 そのダンスの美しさを、今度はパターンの“流れ”の裡に彫り上げようとした作品が、「Espresso」である。ここではバイオリン奏者が、ライブでメロディーを弾きながら、ダンサー2人の間に分け入って作用する。人物たち移動、組み合わせの変化、そしてポジションの変化に伴う流れが、そのまま主題としてメタフォリックに浮かび上がってくるのだ。作品の刺激と美が、パターンの変化から生れる事件の「流れ」にあることは、一目瞭然だろう。それをパフォーマーが自らの生演奏で修飾するところが実にユニーク。

 さらにもうひとつ、今回の公演で心に残った風景がある。それは「シャコンヌ」などの純粋ダンスが見せた至芸に、盛大な拍手を惜しまなかった同じ観客が、ある意味ではそれらとはかなり異質の「さーかす」にも、それに劣らぬ熱烈な拍手を送り続けたという事実だ。現代舞踊の受容に関して、舞台をみる観客の眼は、今やすこぶる高い。そこにほんもののダンスがあるかぎり、かれらは迷わずあとを追う確証を得た思いだ。アーティストたちよ、今後も安んじて冒険と開拓の心をうしなわず、願わくばおのれの信ずる創造に、ひたすら精進を続けられんことを。(19日所見)

 

現代のドラマティックな心理バレエ [タチヤーナ]バレエシャンブルウエスト公演