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舞踊評論家・日下四郎氏の連載コラム「ダンスレビュー」

ダンスレビュー



堂々と演劇に挑んだ平山素子の華麗なダンス
ー泉鏡花の作品より「水の宿」(木村繁:脚本 / 演出)-
東京公演 2008年2月27日、28日
19時開演 at銀座 博品館劇場

日下 四郎 [2008.3.5 updated]

 最初に断っておくが、これは演劇作品である。泉鏡花の小説「龍潭譚(りゅうたんだん)」を素材に、劇作家の木村繁氏がその特異な感性の世界を自ら脚色・演出した舞台で、その中に登場する妖怪な女のイメージを、目下油の乗り切ったダンサー平山素子が演じる。主人公にまといつく一種のモノノケ風の幻想だ。セリフはない。あくまでも身体一つを武器に、始終一貫パフォーマンスとして踊り抜くのだ。

そしてその際、作品でこの異性(一義的には、まず姉としてとらえられ、次第に母性を軸とする女そのものへと変貌する)が占める役割は、決して単なる添景や一瞬の幻視といったものではなく、いわばこのドラマが伸るか反るか、生殺与奪の権をにぎる重要さを占めている。しかもそれが妖怪という特異な課題を備えているのだ。このことは鏡花の作品に接した人なら、ある程度誰もが理解できるだろうが、それは乱暴な引用で説明すれば、例えばオスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」におけるヒロインの存在にも匹敵する意味を持つ。つまり本質的なカギを握る物語のエッセンスそのものなのだ。

一方演劇に不可欠なセリフについていえば、この舞台で発せられる言葉は、すべて主人公である若い独身男性のモノローグだけである。口語訳された鏡花独自の文体とその世界を、始まりから終わりまで、完全にひとりがしゃべり通す。男は若い身空の海軍少尉候補生。そして台本は、いよいよその翌日入隊するという前夜の出来事として作られている。

ところで今仮に、鏡花の小説をそのまま原文で味わおうとした場合、われわれ読み手としては、そこから浮かび上がる鏡花固有の怪異のイメージを、ひたすらおのれの想像力に訴えて辿っていくことになる。しかしこれを舞台で上演するとなると、今度はそれをとことん生身の身体を通じて、明確な具象のものとして観客に提示しなければならない。すなわち脳神経の想像作用をうわまわるぐらいの、モノ自体としての迫真性がなくてはならない。

今回あえて平山はそれに挑戦した。 「舞台は私にとって揺らぎながら変化し続ける身体を探る特別な空間」で、この機会に「新しい私の一面を、作品世界に投影できれば」と、この企画に参加したという(プログラム・ノート)。表現体としての自信もさることながら、そこにはあえて未踏の難関に立ち向かう、旺盛なアーティストとしての彼女の覚悟なり精神力が、はっきりと読みとれるのだ。

初めにこの作品の舞台空間を、演劇サイドの視点で説明しておくと、中央手前に高い背持たせのスツールが一台おかれ、下手には主人公の士官候補生が着る海軍の白い制服が、衣桁からヒトカタ(人形)のように吊り下げられているのが見える。別に奥まった中央の薄暗い部分に、木製の古い洋服ダンスが一台。ただし上手の一角は、マリンバなど打楽を中心に、サウンド効果を生演奏するためのコーナーという設定だ。

これらは一見何の変哲もない、しかも一時代も昔の、いわば戦前の古ぼけたある生活空間だ。しかしまさにその中から、毒々しい非日常の異形が立ち上がってこなければならない。そこが鏡花宇宙の怪しげな神秘であり、また演出家にとっても勝負のポイントでもある。舞台でこの物語が始まって間もなく、それは椅子に坐した主人公が、“ひとつ、ふたつ”と思い出の手毬唄を口ずさみながら、何気なく古い箪笥の取っ手に手をかけた時、一瞬突然のように訪れる。平山の出番である。その役割は重い。

妖怪の棲み家は「水の宿」、そして劇中での出場(でば)は、大きく言って3か所、3種の型に要約される。まずは深紅系のボロをまとった、おどろおどろしい動態としての霊。ゆっくりと足を引きずるように、プロセニアムの縁にそって舞台を通り過ぎる最初の出。胸元からはみ出た鉛色の、そのくせドロリと垂れ下がった左胸の乳房。それは魔性と慈愛という、正しく相反する情念を、あえてひとつに集約した、不思議なメタファーにも見えてくる。

次に白いタイツとベールに身をくるんだ平山が、箪笥の引き出しの狭い隙間から、軟体動物さながら、ヌメヌメした手足の先をみせながら、次第に正体を現わす。一度まつわり付いたら、決して身を引くことをしない女の情念。愛情という名のしたたかな我執。そして3番目は一転、結び帯とオカッパ頭のあどけない童女の出現である。まだ汚れを知らぬ、透き通ったような一直線の輝き。若き海軍士官に身を寄せ、その膝がしらにワラベ人形のようにチョコンと座った一幅の静止画。それがこの舞台の最後のシーンとなる。それを照明のカット・インで短く見せ、そこですべての物語はさっと終わる。

「水の宿」に棲み、旧家に出没するあやしげな生きもの。その正体と存在を、平山素子は巧みなダンスで、たっぷりと掬いあげてみせた。その妙技、緩急織り交ぜた身のこなしは、言葉本来の意味で、ダンス・ファンを十二分に満足させたはずのものである。だがそれは同時に演劇という他のジャンルへの奉仕の一線を跳び越え、すばやくそのふところへ飛び込むことで、逆に作品に君臨する態の、ダンスの強い存在感を示した。この舞台はその稀有な実例のひとつともいえるケースだった。

ただ今回の木村演出が、果たして鏡花の宇宙を正しく移し替えた唯一の正解例であったかどうか、それは知らない。例えば出没する異形のイメージが、もっと古風で日本風の感触と美術のものであるべきだったかどうかなど。しかしそれはおのずと演劇批評家サイドが、自らに問いかけるべき別領域の設問だろう。ひとつだけ言えることは、平山がおのれのダンスに賭けて、正面から演劇世界へ挑戦し、ダンス芸術の存在感を、広く顧客一般に示し終えた好個の例だったこと、私としてはその一語に尽きる。(27日所見)

 

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