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舞踊評論家・日下四郎氏の連載コラム「ダンスレビュー」

ダンスレビュー

バレエ作品にみるコンテンポラリー化の意識
―東京シティ・バレエ団「ラフィネ・バレエ・コンサート2008」の場合―
5月18日 15時  ティアラこうとう大ホール

日下 四郎 [2008.5.23 updated]

 バレエ作品とは何か。いろんな角度からのアプローチが可能だが、ずばりひと口、表現テクニックの原点に立って言えば、それはダンス・クラシックの技法による身体表現の芸術だといえるだろう。そしてそのいちばん判りやすいサンプルが、19世紀前半フランス・ロマンティック期に生まれた「ジゼル」や「ラ・シルフィード」、あるいは下ってロシア・ロマノフ王朝下の「白鳥の湖」「くるみ割り人形」などを思い起こせば、およそのイメージとして足りる。
 実際、この国でも昨今はようやくこれら西洋発の古典芸術への客層が定着してきて、話題としてだけでも、ごく自然に日常生活の中へ足を下ろすようになった。しかし時代はすでにもっと先を走っている。それをこの国のバレエ関係者が意識していないはずはない。真の意味でより今日の社会や感性に応えた舞台を生み出すべく、各バレエ団でも、それぞれ工夫を凝らした創作シリーズに取り組んでいる所以だ。
 東京シティ・バレエ団の場合、恒例の「ラフィネ・バレエ・コンサート」がその一例で、建物の改築による昨年のお休みのあと、今回1年半ぶりの公演となった。出しものは中島伸欣・作の「雨の下の<私たち>」、小林洋壱の新作「After the Rain」、それにゲスト作家真島恵理の振り付けで「孤独のかたち」と、以上の計3本を用意した。小林の場合は団員在籍のダンサーとして、彼の初めての創作振り付けとなる。
 中島作品は傘を持ったダンサーの群舞を中心に構成されており、そのなかに幾組かの男女のペアがいる。ハイライトは橘るみ・黄凱ぐみ。前半はそれらの人物を動かした空間美を狙いとしており、後半になるとストーリー性というかドラマが入りこんでくる。男女の離反・融合がくりかえされ、ひとときは陽がさすようにみえながら、結局はまたそれぞれが個に戻って、結実の無を示唆して終わる。傘という小道具が、人間心理の密室のメタファーたりえたかどうか少々疑問だが、作品としての狙いはわからないわけではない。ただし観念が少々先行気味。例えば音楽がバロックやポップだったら、いったいどうなったか。
 その点ひたすら身体だけを素材に、ロマンティックな男女の詩情を描き上げようとした小林作品には好感が持てた。デビュー作らしく、創作に対するまっすぐな姿勢がいい。ほとんどをダンス・クラシックの積み重ねだけで練り上げた動きは、素直にみずみずしいと形容できるが、反面それだけいま一歩の深みに欠けた。それをカバーしようとしてか、しきりにシルエットに切り替えるなどの照明の工夫が、ときに無意味に感じられたシーンもあった。
 その点でいえば、もっともコンテンポラリーに接近した作風で一貫したのが、真島の創作「孤独の形」である。アメリカ・ノースカロライナ芸術学校のバレエ科出身ではあるが、その後のキャリアから見て、いちばん現代舞踊に近い個性だ。ちょうど前回この「ラフィネ・コンサート」に、モダン・ダンス界から野坂公夫を起用したケースと同じ制作意図だと思われるが、ダンサーはシティ・バレエの団員で踊っても、当然主題や中身の印象は、作り手によって、別の肌ざわりのものが誕生する。
 この作家、ちょっと日本人離れした現実直視のエスプリに溢れ、6景に分かれたエピソードでは、いずれも身体の形姿を通して人間存在の孤独をするどく描き出す。いきおい振り付けもダンス・クラシックを大胆にはみ出したもの。しかしダンサーたちはみな、それによく食らいついて動いた。ただそれら一連の造形は、すべて振付家の突き放した冷たい視線に貫かれて息苦しく、余計な想像ながら、日ごろこの劇場に通うバレエ・ファン層との間の、質的なズレといったものがいささか気になった。
 そもそも乾いた視線というのは、本質的には“笑い”と均質のはずである。たとえば一昨年のリサイタルで彼女が出した「Solitude」という作品では、ラストに泣きながら山モリのご飯をかき込む女の章を振付けたが、そこにはペーソスとともに、ブラックユーモアにも似た大いなる哄笑があった。あの感触を今度の中身にもより多く織り交ぜて全体を構成すれば、もっと常連のお客も楽な気分でこの作品を楽しめたのでは。もっともその意味では、最後のシーンで背むきに女を椅子に座らせ、ふりむくとそれが石井清子だったアイディアなどは、明らかにその種のユーモアで、画竜点睛の救いにはなった。
 さてバレエ作品にみるコンテンポラリー性とは、いったい何を指しているのか。一見平易にみえて、なかなかの難問である。技術的にはダンス・クラシックに、いくばくかの新しい表現やひねった身体を取り入れれば、それで事が足りるかというものでもなく、反対にテクニックだけは聖域にして、周辺部分のデコール、すなわち照明や音楽、新感覚の美術を配する手法は、やはり一種の逃げで、この課題の本質を凝視しているとはいえない。
 前者は海外の新鋭アーティストからの振り付けを輸入して、なんとかその一部を踊りこなしただけで新しくなったと喜ぶ連中。技術上の達者さだけで、いったいどこに日本人のオリジナリティがあるのだろう。一方もろもろの付属アートを、やたら舞台に持ち込んで目つぶしをかけるのが後者のケース。いわば他人の、それもジャンル外からの侵入で、庇を貸して母屋をとられ、この芸術本来の身体は、それらの陰に主体性をうしなったまま、だらしなく埋もれている。創作の焦点や主題においては尚更のことだ。
 もっとも独立系で、時に2、3の例外はある。しかし当然ながら規模は小さく、実験の域を出ない。その種のコンテンポラリー化は、やはりひとつの大きな流れとして、もっと日本の大手のバレエ団で、着実に果たしていくべき筋合いのものではないだろうか。だが現実は、歯がゆいぐらいに遅遅としている。これは客呼びに恰好をつけて、ひたすら海外スタッフやキャストの招聘、著作権の支払いなどに予算を費やしているだけの、従来からのバレエ界の懲りない姿勢のたたりではないのか。
柄が大きい分、小回りがきかないともいえる主要バレエ団の中にあって、このカンパニーなどは、地域社会に密着した日々の活動ともども、もっともその種の期待を抱かせる集団といっていい。ベストの成果を生んだ「ラフィネ・バレエ・コンサート2008」とは断じ兼ねても、少なくとも自立した日本のバレエという、今日的課題への真摯な姿勢、芸術創造にみるコンテンポラリー性への不断の努力が、如実に読み取れた。今後ともおおいなる研鑽を期待したい。(18日所見)

 

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