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舞踊評論家・日下四郎氏の連載コラム「ダンスレビュー」

ダンスレビュー

惜しまれるエネルギーの空転:2008ひねもすダンスGroove公演「レゴリス」
8月15日(金)16日(土)19時半/17日(日)15時半 全3回 武蔵野市 吉祥寺シアター

日下 四郎 [2008.8.21 updated]

 コンテンポラリー・ダンスのおもしろさは、そのコンテンツにみる揺れ幅の広さだ。身体上のテクニックとしては非バレエ――すなわちダンス・クラシックでない動きすべてを包括するといっていいが、さてジャンル的には映像、サウンド、造形など、極端に空間美術系のものから、音楽性を前面に押し立てた舞台、あるいは反リアルで変則的な動きを持ち込んだ演劇作品など、前世紀のおわりの四半期に、いわゆるモダン・ダンスの枠がこわれて以後、急にアートとしての制約が一気に広がった感がある。
 そんな中での≪ひねもすダンスGroove≫の誕生。上記の分類でいえば、お芝居風の臭いが強いことから、いちおう演劇グループの一派に入れられるだろうが、かといって同系列の≪珍しいキノコ舞踊団≫や≪かもねぎショット≫とは明らかに個性が違う。いったい1994年に結成され、以後隔年ぐらいのペースで公演を重ねてきたこのグループのリーダーはだれなのか?そしてその目指すところのオリジナリティとは?
 過去の実績や記録からみて、このグループでスポークスマンの役割を担っているのは、明らかに河内連太である。ほんらい舞台装置や進行にもユニークなセンスと実力を示し、同時に多くのダンス作品に、進んで台本を提供し続けてきた異才の人。その個性が自らの本拠地としてもっとも力を入れ、かつまたアーティストとしての己のわがままを存分に発揮できる場所が、この≪ひねもすダンス≫の活動ではないだろうか。
 芸術作品の署名は、本来個人のものだ。したがってここに1つの舞台の完成のために、作者がおのれの気に入ったダンサーやスタッフを集め、そこからすべてをスタートさせることは決して間違っていない。しかし舞踊のような集団創作にあっては、ダンサーや照明、音楽、振り付けなど、多方面の才能の参与なしには決して作品は完成しないのである。それらの個性をいかに生かすか、その結果では、逆に作者の名も逆効果の場合さえある。
 その間の事情を知ってかどうか、この集団のリーダーである河内は、おのれの署名にあえて演出や監督の名称を冠さない。なのに、≪ひねもすダンス≫では、他のダンスグループに、スタッフの一員として加わる時と比較して、その存在感は飛躍的に強いのだ。プログラム・シートに転載された台本の主題、いやそのカラーは、2時間に及ぶ大作「レゴリス」(砂の表土)を通して、今回も毒々しいぐらいにビッシリと作品に影を落としている。
 時間になると、まずかすかな弁笛の音を聞かせながら、薄暗い舞台空間いっぱいに、ダンサーの群が亡霊のように浮かび上がる。上手上空にはレゴリスの堆積地、すなわち月をかたどる円板が一枚吊るされ、下手プロセニアムの前には、その表皮としての砂土がひと山盛られている。やがて遠い吹奏と太鼓の響きにのって、ゆっくりとスローモーションで動き出す陰鬱な人間たち。これだけでもう河内ワールドのムードは、そっくり出そろった感じの出だしだ。
 これを皮切りに、このあとは受胎、水辺、クレパス、櫂、泉、畦道、納屋、なみだ、告発と、全20章に及ぶデュエット、ソロ、トリオ、群舞、およびそれらの組み合わせによるダンス風景が続く。キャット・ウォークに坐した弦音の生演奏を交えながら、これでもかこれでもかと、エネルギッシュに踊られて行く。ただそれだけの熱量はあっても、動き自体が表象するものは、おし並べて河内独自のメンタル・ランドスケープ――諦念や懐疑に彩られた、いわば文学的な内面吐露の詩的告白に他ならない。ここでは身体が、ある意味で言葉の世界に、無理やりねじ伏せられているともいえる。
 章によってはユニークな身振りの群舞や、優れたソロがいくつか出てくる(振付:石田知生)。しかし出来上がった作品の総論としては、結局は台本が示唆するアナキーな厭世の文学風土の描出に他ならなかった。作者の野心ともいえる、身体だけで描く詩的な宇宙、独自のジャンルを目指す舞踊の世界は、“セリフを欠いたある種の演劇”、または“ムードを代弁する奉仕のダンス”の中間にスッポリはまり込み、折角のエネルギーをつぎ込んだ、どっちつかずの冒険に終わったことが残念である。
 舞踊芸術を自称するなら、もっとダンス自体を開放して、それ自体で縦横に語らせることは出来ないものか。身体には喜怒哀楽、あらゆる感情が込められている。だから一見してよく似たシノプシスでありながら、例えば佐多達枝と共作した「庭園」などでは、あきらかに台本のメッセージは、充分過ぎるほどよく出ていた。バレエ振付家としての、母親の熟成した造形力が、言葉の末節を見事に乗り越えていたからである。また美術家としての河内なら、松崎バレエ団の「夜叉が池」のセットなどには、他人にはまねのできない抜群のものが光っていた。
 今後≪ひねもすダンスGroove≫を続けていく場合、このポイント周辺の呼吸と、舞踊仲間の人材活用が、才人河内にとっての最大の課題であろう。「余計な御世話だ。ほうっておいてもらいたい」と言われそうだが、その可能性は捨てがたい。ユニークな舞踊作品は、誰でもがみたい。だが今回は肝心のダンスが、台本作者の執拗なペシミズムに、とうとう最後までつきあわされてしまった。(15日所見)

 

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