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舞踊評論家・日下四郎氏の連載コラム「ダンスレビュー」

ダンスレビュー

コンテンポラリー・バレエへの仕掛け
NBAバレエ団“NEW DANCE HORIZON”ー「俳句へのイマジネーション Vol.2」
10月4日(日)18時半開演 @杉並公会堂 大ホール

日下 四郎 [2008.9/29 updated]
 公演のサブタイトルに“俳句へのイマジネーション”とある。しかし観終わっての感想としては、どうしてもこれは“俳句からのイマジネーション”というべきであると思った。ダンス・クラシックの技法を用いて、よく知られた俳句の多様な情景や心象風景を、そっくり舞台に再現してみようとする発想は、もともとバレエにとっては本質的に難しい仕事であり、反対にここでは選ばれた句(選択の動機はさまざまのようだが)から、ダンス作家が自由に刺激されたイマジネーションで、それを動きの芸術として再構築してみようとしたのが、この舞台だったのだとおもう。
 単に語句の表現にこだわっているのではない。ここでのやり方は、舞踊作品にとってむしろ秀でた着想であり、かつ賢明な方法論のひとつというべきである。そもそもこのNBAというバレエ団は、設立が1993年でいわばダンス界での新興パワーであり、そこから個性あるレパートリを築くには、並々ならぬ工夫と努力を必要とした。すなわち単にスタンダードな古典バレエの上演だけでなく、一般にはあまり知られない作品のオリジナルや、過去に埋もれた小品の発掘など、興行面からみてふつうあまり手をかけない演目にもあえて挑戦して来た。スタート間もなく1年おきに試みた『Contemporary Dancing Session』もその一つ。実はその2002年度版で、この「俳句へのイマジネーション」の第1回が、すでにいちど試みられているのである。
 今回はその再挑戦として、芭蕉や蕪村、一茶など、昔からよく知られた6人の俳人の句を並べ、それら17字の宇宙を創作の主題とした。ただし振付には前回の若い現代舞踊家たちと違って、安達哲治、執行伸宜、中村恩恵、遠藤康行という、錚々たるバレエ系の重鎮を当てている。よく目を凝らすと実はこの布陣自体に、すでに第1回の反省と、制作側の深い思慮が読み取れるようだ。つまり生来が無政府的な、モダン・ダンス系の放縦・勝手をきらい、ダンス・クラシックの鍛えられた身体技術と、メタフォリックな日本の叙情、この両者をあえて掛け合わせて、その相乗効果を狙ったのだ。そこに今回の企画のポイントがあったのだ。
 プログラムは2作ずつをまとめた3部構成。「夏の雨 きらりきらりと 降りはじむ」(日野草城―安達哲治)と、「痩蛙 まけるな一茶 是にあり」(小林一茶―遠藤康行)が最初に組まれ、ついで「水仙に 狐遊ぶや 宵月夜」(与謝蕪村―執行伸宜)、「霜柱 はがねの声を はなちけり」(石原八束―執行伸宜)の中間部、そのあと第3部には、「露とくとく心みに浮世 すすがばや」(松尾芭蕉―中村恩恵)、および「名月や 池をめぐりて 夜もすがら」(松尾芭蕉―安達哲治)の2本を配した。
 結論から言って、遠藤の“一茶”と安達の“芭蕉”の2本が出色の出来である。冒頭にも述べたように、評価の判断基準は、(少なくとも私には)原作に詠まれた世界の、単なる再生試行にあるのではない。句はきっかけにすぎず、そこから振付がいかに翼を広げ、本命としての身体世界の渦中へと、自由な飛翔を果たし終えたかどうかにある。もちろん選ばれた句のどの部分を、どのような視線で切り込み造形したか、それは各作家の勝手であり、そのアローアンスをふくめると、今回の企画はその多角的な鑑賞態度が可能なことだけでも、なかなかに楽しめる一夕の公演となった。
 たとえば安達の「夏の雨…」。幕が上がると舞台中央に、男がひとり椅子に座っている。そこへ音がかぶって、さっと雨が来る。次いでホリゾント側に洋傘をさしてはいってくる群舞の列。ここまでは確かにタイトルに沿った俳句のコンテンツだ。しかしそれが“狐の嫁入り”の行列だとわかる一瞬から、いつしか原句とのつながりは後退し、もはや舞台は男女の入り交うバラード風の物語が主流を占める。ドゥオ、ソロ、群舞と、自在に駆使したにぎやかなダンス空間がくりひろがっていくのだ。
 同じことは同じ安達の振り付けたラストの「名月や…」にも言える。こちらの展開はさらに奔放。満月の一夜、燕尾服とドレス衣装の男女が、円座を組んで空を見ている。やがて一座は入り乱れはじめ、“夜もすがら”のパーティはなおも続く。それらの出来事をユーモラスなタッチで軽妙に描く作者の手腕は、カエルの衣装などを配しながらも、中身はもはやこってりと西欧化したコクテールの味わい。バレエならではの華が舞い散る。
 一方「痩蛙…」で遠藤が見せる手腕も、優れてダンス的である。はじめ“痩蛙”を象徴する男がひとり舞台に立っている。そこへ水音をたてて転がり込む仲間がひとり。これをモメンタムとして、舞台にはバロックの音楽が流れ、ダンサーたちが入れ替わり立ち替わって、大胆で実験的な振付のパターンを見せつける。一茶から抽象へと、あざやかな転位であり、俳句とバレエの意表を突く組み合わせがそこにはあった。
 この点執行と中村の作品になると、俳句へのアクセスはかなり違う。前者の“水仙に…”は、狐の相手にダイアナを配すなど、多少の脚色はみられるものの、蕪村の光景をまずはそのまま視覚化した。全6作のうち、よくもわるくももっとも原句に忠実な一品だったといえる。もうひとつの“霜柱…”は、逆に“はがね”のもつ硬質性に着目し、その一点だけを抜き出して直線的なダンサーの動きに移し替えた振付が勝負どころ。こちらは俳句に向かってのベクトルが、前者とは逆の姿勢ともいえるだろう。
 さらに中村作品は、主題としての俳句との関連がもっとも希薄だった。この人のダンサーとしての表現力には、いつみても抜群の才があり、ソロの動きなどをみていると、キリアンがほれこんで自ら振付を提供した気持が心底よくわかるほど。ただ“露とくとく…”は、4人の群舞とおのれのソロを交互に並べたような構成で、なんだかリサイタルのなかの一品をみている気さえした。最初に作品が構想され、それに見合う芭蕉の一句を探し当てたのではないかと、いささか意地わるいそんな見方さえ脳裏をよぎった。日本人には珍しい、すぐれて自我の強いアーティストである。(4日所見)

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