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20年という節目の記念公演でもあり、かつ芸術祭への参加のプログラムとして、それぞれ色合いの違う3点を並べた。いずれも既成ものの再演(一部手直し)だが、やはり主宰者である山名たみえとしては、今日に至るカンパニーの歩みを示唆し、同時に作風の多様さを代弁する舞台を選んだ結果であろう。いずれも初演のとき一度目にしたものだが、こうやって改めてまとめて並べると、それぞれの特色や時の歩みのようなものが見えてきて興味深い。 山名の「小督(こごう)」には迫力があった。平家物語にみる悲運の女御の辿った運命を、半田淳子が琵琶で語り(テープ)、それを20分のソロで通す。びっしりと黒一色の布で覆い尽くされた舞台空間の、フロア上の中央部分にだけ帯巾の白い布がスクエアに走る。なんとも切れ味の鋭いシャープな抽象絵図だ(美術:森壮太)。その稜線の上を生身の女(小督)が、ゆっくりと移動する動きでおのれを語る。はじめの巡回は立姿のまま、つぎに上半身をおとし、布を手元に繰り上げ、それを懐に溜めこみながら膝でにじむように進む。身体の位相と仕草が、そのままヒロインの人生と心象徴を過不足なく語るのだ。ダンス芸術が持つ象徴性を巧まず生かした振付であり、過去この国のモダン・ダンスが生んだ名作のひとつに数え上げても不思議ではない。 この振付・構成は演者の師である藤井公・利子の手になるものである。失礼ながら、アーティストとしてのこの両者の感性が、まさにピーク期に生み出した絶品の一つと言える。知性と情念の拮抗が生み出した、この上ない質の高さと無限の効果。一方それをまた寸分たがわぬず演じ終えたダンサー山名の魅力も、筆者がこれまでに観た最高の出来と評したいほどの気持ちだ。いみじくも師と弟子の生んだ至福の産物の一例である。 二つ目の「ある起源の話」は、山名たみえの魂のふるさとのような作品だ。はじめ6人のダンサーの立姿を、暗転を挟んで前と後――180度違った角度から見せる。この配置は機知的というより、「起源」を求める創り手の視線を示唆するもので、巧みにして不可欠な序景。それがおわると今度はそれまでホリゾント一面に張られていた赭色の大きな布地が,一転巨大な丘のふくらみに変貌する。そしてその丘陵の向こうに、人間たちの姿が入れ替わり上下に浮沈する光景となって進行する。 この作品には何よりも詩がある。人間の心を揺さぶる憧憬の一種と言い換えてもいい。それがはからずも大自然と人間の、伝説風な“起源”のはなしとオーバーラップして、観るもののハートに、ゆったりとした、しかし切ない軟性のビートを吹き込むのだ。この作品では、はからずも日ごろ作家の持つ“理知”の側面が消え、かわって芸術家のもっともソフトでみずみずしい感性が、フルに前面へと押し出されている。われわれはどこからきて、どこへ向かおうとしているのか。視界の先には見え隠れする人々の姿を飲み込んだまま、波打つ砂丘の山がどこまでも続いているだけだ。 トリを受け持つ3番目の「EXISTENCE―存在―」は、炎の画家ゴッホの生活と内面心理を、演劇風なタッチでダンス表現したもの。初演は作者がフランスへの在外研修を終えて間もなくだったと記憶するが、そのときはいくつもの額縁やキャンバスを、やたら小道具として舞台に使用、それが舞台にオブジェ偏用の観念過多な作品という印象を与えた。今回はその批判もあってか、手直しとして群舞による心理表現をその部分にはめ変え、よりダンス寄りの作品とした(ノートによれば、自作“Weathering”の一部を当てた由)。 確かにある種の迫力と身体性は出ている。しかしダンスを多用したからといって、必ずしもそれが舞踊作品としてのレベル・アップに直接繋がるものではない。群舞のよさや主人公を演じた坂木眞司の熱演にもかかわらず、トータルの作品イメージとしては、人口に膾炙した狂気の画家ゴッホの通説を、そのまま動きに置き換えた踊りという、ある種の“凡庸さ”が後味として残った。一般客への分かりやすさという点では買えるが、ほかに第3の切り口などはなかったか。どうやらダンスとリアリズムは、むかしからあまりソリが合わない芸術のようだ。(17日) |
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現代のドラマティックな心理バレエ [タチヤーナ]バレエシャンブルウエスト公演 |
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