|
||
ついにやったーぁ!「泥棒論語」vol.5ダンス編の登場である。おもしろい。観ていて身体のリズムや動きの巧みさだけで、最後まで十分に堪能できる。ということはこれはもう演劇というよりむしろ舞踊作品?
もっとも出演者の8人(森下真樹,遠田誠、やのえつよ、カワムラアツノリ、斎藤栄治、重森一、池野拓哉、トチアキタイヨウ)は、みんなしっかりとセリフを語るし、用いられた原本の思想や哲学もちゃんとそのまま。しかもみんなダンスがうまいときている。いつもは評論家としてダンスのこちらから作品をみているのだが、ひょっとすると今の役者さんは、演劇の基礎教養として、日ごろこのレベルまで見事な身体表現の技術を身にそなえているのかも。
さて今から数年まえ、両国のシアターXに、はじめて花田清輝の戯曲がとりあげられた。「復興期の精神」や「アヴァンギャルド芸術」に収められた多くの著作で、戦後の文学界で一時期熱狂的ファンを生んだ文芸批評家だが、のちに風刺や諧謔(注1)を交えた戯曲やミュージカルも書いた。そのひとつがこの「泥棒論語」である。そしてプロデューサーである上田さんは、それ以来これをいろんな角度から、ということはスタッフ・キャストおよび演出を違えて、いくつかのバージョンを積み上げている。今回はその5種目なのだ。 一般にアヴァンギャルド派と呼ばれる花田戯曲のセリフには、それまでの新劇リアリズムや弁証法の退屈さがない。人物の出入りと会話には、いつも諧謔や警句が飛び交い、その変幻自在の活発さで、肩の張るくだくだしさがどこにもないのだ。すべては詩的飛躍を経た、単刀直入のアフォリズムがポンポン飛び出す。そしてそれは戯曲の構成や人物の出し入れにもいえる。だからたとえば男と女の掛け合いにおいても同じなのだ。 そもそもパフォーマンス芸術としての演劇には、セリフという言葉の枠をはねのけ、ある種不測の“可動性”が、常に触媒のように、リズミカルに作動していなければならない。これが上演にあたってのコツであり、同時に十数年一貫してこの劇場で活動を続けてきた上田プロデューサの、基底をなす演劇観のように思える。 さてこの戯曲「泥棒論語」の構成と中身は比較的シンプルである。娘と侍女を連れて、京の都へ里帰りする歌人紀貫之のお話。途中海賊らの来襲で「土佐日記」が盗まれそうになるが、やがて “解放軍”を自称する漁師らの参加で救われ、そのあと船長、友人らの“人民裁判”が開かれたのち、やっと桃源郷である江口の里へ着く。そこでは遊女蝶々御前や陰陽学者安部幽明をはじめ、新しい文化の担い手としての“くぐつ”たちが、喧々諤々花田流の平和主義や国家論を論じるなかに幕が下りるというという、時空と場所を超越したまさに不羈奔放(注2)な花田ワールドのファンタジーである。 筋書きなど一度知ってしまえば、あとはパフォーミング・アートの空想絵巻を、それこそ自分流に楽しめばそれでいいのだ。その意味ではセットだって、ホレボレするほどの美意識と抽象の産物(美術:松野剛)。前方ホリゾント上部に渡された枯れ枝のオブジェ1本で、これが全幕を通して港、船中、大座敷など、どんなステュエーションにもピタリ当てはまる。 一方、音楽はクラリネットとドラム、アコーディオンを軸としたオルケステル・ドレイテル(樋上千寿 +白石雅子)の二人。最小単位のデュオだが、クレズマー音楽を採譜したサウンドが、要所々々で予想外に劇的なふくらみをもたらす。こう書いてくると、まるでダンス作品の舞台を説明しているような錯覚に襲われるから不思議だ。そのうえ出演者も揃ってダンスがうまいときているから、この戯曲やっぱりこれは異色のダンスというほかはない。(ただしスタッフ表に振付者の名前がないので、プロデューサーに訊いてみたら、それぞれがアイディアを持ち寄って、それを演出がまとめたというのが真相とか???)。 ところで最近は表現メディアが輻輳化(注3)し、おおくの作品がどのジャンルにはまるのか、いわば所属不明である。とくにコンテンポラリーを自称する作品は油断がならない。境界がクロスオーバーしているだけでなく、質の問題がある。何かしら人が出て舞台で動けば、それが新しいダンスと思っている向きも少なくない。なまじ情報誌のダンス欄で知って出かけたら、ステージではこれのどこがダンスなのかと、首をかしげて逃げ帰ったという話も、ウソでなくある。 それと同時にその普及と鑑賞の方法とプロセスが、ここ10年大きく変化した。たとえば電波ネットを足がかりにしたJCDN(ジャパン・コンテンポラリーダンス・ネットワーク)という組織があり、これはNPO法人のひとつだ。ネットで会員を全国規模で募集し、「踊りに行くぜ」をモットーに、列島各地の中小都市で、自作自演の創作ダンスを上演披露する(さらに昨年からは海外の一部にも)。そのうえ現地で録画したそれらハード媒体の映像記録を、衛星電波の放送局から、数回にわたるプログラムにくんで、全国のダンス・ファンや関係者に放映している。 これによってここ1,2年ダンスのファン層は急増した。それ自体はまことに歓迎すべき新展開といえる。ただここで彼らの見せるダンス作品が、本当にプロの名に値する一定の水準を備えているかどうか、これはまた別問題だ。JCDNの制作側は、自分たちはつねにコンテンポラリー・ダンスを世に送り出していると説明するが、問題はそうシンプルではないはずだ。お芝居か、美術イベントか、ただのパントマイムか。 かりにいま芸術としてのコンテンポラリー・ダンスという呼称が、それほどルーズで、許容範囲の広い対象をさすものだとすれば、批評サイドの人間にとって、これほど楽な作業はない。さしずめ今回上演されたシアターXの「泥棒論語vol.5」など、これはコンテンポラリー・ダンスの最近の快作だと評しておけば、だれからも後ろ指を差される心配はないからだ。限りなくダンスに接近しながら、戯曲としての主体を曲げず、あるいはここまで演劇の原意を尊重しながら、ダンスとしての独立性をめざした愉快な舞台。個性豊かなシアターXの、最近の快作だった。(13日所見) (注1)諧謔(カイギャク):ユーモア・おもしろい気のきいた言葉 (注2)不羈奔放(フキホンポウ):他から束縛を受けないで自分の思い通りに行動する事 (注3)輻輳化(フクソウカ):物が1カ所に集まる事、方々から集まること |
株式会社ビデオ Copyright © VIDEO Co., Ltd. 2014. All Right Reserved.