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舞踊評論家・日下四郎氏の連載コラム「ダンスレビュー」

ダンスレビュー

センスの光る ラ ダンス コントラステ
第13回 アトリエ公演:佐藤宏 振付・演出「REFLET」

5月14日(木)・15日(金)池袋 東京芸術劇場 小ホール

日下 四郎 [2009.5/20 updated]
 バレエ・グループ〔ラ ダンス コントラステ〕。名付けの由来は知らないが、“対照”(コントラステ)の一語からも、モノを鮮明に際立たせて表現しようとする、シャープな姿勢が伝わってくる。1997年の旗揚げ公演以来、毎回センスの光る作品を、それもアトリエと定期の年2回をベースに発表し続け、いつしかレギュラー活動も13年目に入った。リーダーは佐藤宏。北原秀晃について初歩から学習し、東京バレエ団に15年間所属し内外を巡演した経歴の持ち主である。
 日本ではバレエといえば依然グランド・バレエのイメージが強い。優れたテクニシャンを擁し、しかもオリジナルで今日的な創作を目指すグループは、まだまだ少ない。そんな中にあって、この〔ラ ダンス コントラステ〕は、ダンス・クラシックに基礎を置きつつ、常に今日的で新鮮な感覚の創造を続けてきた、数少ない気鋭のバレエ集団だ。
 今回の出しものは「REFLET(ルフレ)」。フランス語で一義的には「鏡」とか「光沢」だが、さらに敷衍・観念化されて「内省」「考察」の概念も持つ。そのいわばダブル・イメージを、数枚のミラーを活用することで、徹底して視覚だけの効果で表現することをねらった。実は5年前にスフィアメックスで発表した舞台の再演だが、新しい空間を得て、さらに進化した美意識を狙った意図がうれしい。
 イントロダクションは、ホリゾントをバックに、鏡板を支える窓の列が、左右一列にゆっくりカーブしたRに並べられている。そして1枚1枚の鏡板は、いずれも角型にカットして吊るされ、かつフレキシブルに上下で傾斜を変えるよう工夫されている。いまその前に立つ一人のダンサー(伊藤さよ子)の姿。彼女はゆっくりと客席に向き直り、無音の静謐の裡に、ダンス・クラシックのベーシックなパターンのいくつかを優雅に披露する。
 このあたりでようやくヴォーカル・コーラスのサウンドが流れ込んでくる。気がつくと鏡壁のうしろには、頭部と脚部をのぞかせながら、いつの間にか5人のダンサーが立ち並び、それらが間隙をかいくぐるように進み出て、アンサンブルで均整のとれたユニゾンの動きを踊る。そこへ割って入るのは、この作品での唯一のメイル・ダンサーである増田真也。以後ソロ、デュオ、コーラスと、洗練され練り上げられたダンス・ムーブメントの数々が、70分にわたって飽きずお客の眼をたのしませてくれるという構成だ。
 だだしここでユニークなのは、それらの振りが常にバックに並んだ鏡板の上に写しだされ、その虚・実両様の像が常にくみあわされ流れることで、はじめて完成された視覚美として計算されていることだ。例えばソロの動きでも、そのプロフィールとバストが、鏡の数だけの違ったアングルで目の前を交錯する。そしてひとりひとりの観客は、それぞれのシートの位置から、唯一個別の美としてそれらを受け止める結果を生む。
これは全体として言えば、明らかに生身のムーブメントに付加された、美の増殖効果である。しかし同時に個々の観客にとっては、さらにもうひとつ別の心の領域へ個別の関心をへの動機でもある。ミラーの中へと自己を引きずり込む結果、なにかしらそこにおのれの内面をのぞきこむ思いにとり込まれるのだ。心理ドラマと呼んでもいいもうひとつの副作用だ。この創作には漠然とだが、この種の、いわば近代性、疑似文学としての新しいモティベーションが、ひそかに織り込まれていると考えていい。作家サイドからの巧緻でするどい挑戦である。
 さまざまに組み替えられ華麗に花咲くダンス・クラシックの舞台だが、結局何があたらしいかといえば、美術・衣装・作舞をとおしてのコンテンポラリーな美感覚、そして区間に鏡を併せ用いるという演出上の着眼につきるのではないか。その効果は確かにあった。セットの設計やダンサーのポジショニングについての細密な計算は、やはり一線を越えるセンスのよさを感じさせて余りある。
 数少ない現代バレエの一例として、たしかな美感覚、洗練されたスタイルをとおして、この舞台は成果を上げた。しかし現代という形容を冠した芸術舞踊――コンテンポラリー・ダンスが、ほんらい挑むべき領域の広がりははるかに多様だ。音楽、演劇、美術、コンピュータ、エレクトロニクスと、かかわりあえる隣接ジャンルは無限に近く、また主題の点でも社会や地球環境、人類や地球の命数など、数えだせばきりのない課題が周辺に待ちかまえている。
 そんな中で日本人が成功させた現代バレエの実例が、ほとんど感性上の美意識の範囲にとどまっているのはやはり惜しい。それには本来非言語ジャンルとして成立しているダンス芸術ゆえの制約もあるだろう。しかしそんなことを言っていれば、バレエ芸術にとって、現代アートとしての未来は半永久的にありえない。逆にむしろノン・バーバルの特質ゆえに、他のジャンルでは不可能な、あっと驚く舞踊作品が飛び出す可能性だって充分にあるはずだ。
 もともとバレエ出自のダンサーのテクニカル上の力量には、基本的に安心感がある。昨今いきおいだけで乱造される、何の表現力も持たない、自称コンテンポラリ-・ダンスの駄作には正直うんざりさせられることが多い。ようやく古典としてのグランド・バレエが一般に定着し始めたこの国で、次に待たれるのは大人の鑑賞に耐え得るコンテンポラリー・バレエの出現ではないだろうか。いやバレエもまたダンスのひとつ、たしかな表現能力さえあれば、両者の区別など二義的なもの、今を生きるダンス・ファンの心をとらえた真の現代舞踊、ダンス芸術のさらなる進出が期待される。(14日所見)