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ニュース・コラム

舞踊評論家・日下四郎氏の連載コラム「ダンスレビュー」

ダンスレビュー

NOISM09 作品 金森穣
「ZONE~陽炎 稲妻 水の月」東京公演

新国立劇場 小ホール ダンスプラネット30 6月17日(水)~21(日)5ステージ

日下 四郎 [2009.6/22 updated]
 日本のナショナル・シアターである新国立劇場と、新潟市民芸術文化会館のレジデンス・シアターNOISMが、今回初めて共同制作という形をとって実現した新作。いわゆるコンテンポラリー・ダンスのひとつに属する創作だ。もっとも厳密には、半月ほどまえの6月5日が初日で、すでに本拠地である新潟りゅーとぴあ劇場で、3日間3ステージをすませた。対して東京公演は新国立劇場の、しかもあえて小ホール。両者の環境には、大きさや劇場機能など、物理的にはかなりの開きがある。
 しかしだからといって結果や仕上がりにズレがあるわけではない。照明や美術などのプラン修正、また動きの細部におのずと違いは出てきても、出来上がったもの、或いは伝えようとしている意図は、狂いなく一貫していて、まったくブレはない。これはダンス芸術における古典と現代作品の本質的な違いを示唆していて、これを論じるだけでもけっこう面白いのだが、ここでは触れない。
 さて「ZONE」と名付けられたこの新作、途中2回の短い休憩があり、トータルで2時間にわたる中身を、3つのブロックに分けて見せる。というよりも、むしろ3種の異なる作品を提供したといったほうが正確かもしれない。それをZONEというタイトルで一本につなげた。したがって3篇には何らのストーリーや流れといったものはない。そしてプログラム・シートには、それぞれのパートに、ACADEMIC、NOMADIC、PSYCHICといった3つの説明が、ちょうどそれぞれの副題のように添えられている。
 第1章にあたる冒頭の一本は、ダンスがダンスたりうる根源の光景を、いっさいの虚飾をはぎとって、徹底して身体だけでみせるキネティック・パフォーマンス。NOISM09のダンサー11名が、ドゥオ、トリオ、クインテットと、これまた裸の上半身と黒いタイツに均一された衣装で、ほとんど禁欲的ともいえる闇の空間に、次々に登場しては消えていく。あきらかにヨーロッパ渡来のバレエをベースにした身体造型だが、それはもはや単純にダンス・クラシックとは呼べない、今日のダンス・プロフェッショナルだけが獲得した、スピーディで鋭い身体の動きだ。
 ここで明らかに金森は、今の日本のダンス界に横行する一種のアマチュアリズム、甘やかされたトレーニングの怠惰に対し、強い抗議の念を突き付けているとも思われる。鍛え上げられた身体の専門性とは何か。日本人の身体に、表現体としての可能性はいったいどこまで広げられるのか。これはそのレポートのような1篇と考えてもいい。日常われわれ誰もが所有する身体。それは厳しく練り上げ鍛え上げあげることで、なんとここまで人を感動させる、完璧なまでの芸術性を手にすることが可能なのだと。表現にまで高められた教条(ACADEMIC)の例だ。
 次に来る第2章では、それらダンサーの表現力を不羈奔放に活用して、これを一挙に祝祭の野生へと観客をひきずりこむ。打楽器の連打、ヴォーカルの響き。目の前には世界中の民俗衣装を、片っ端から引きちぎって張り合わせたような、いろとりどりのダンサーたち10名が、フロアの前縁に沿って現れる。背後には無数のボール・チェインを上から吊り下げた卓抜でモダンな紗幕。それが上がると正面壁に映し出される、ダンサーの表情と容姿のクローズアップ。ここには第1景のベースだった基礎理論の反措辞として、ダンスが原始から担い続けるフェスティバルの、奔放で爆発的な放浪(NOMADIC)の世界がさまざまに織りなされる。いきおいこのブロックでは、衣装・美術(三原康裕・田根剛)の役割と関与がいちばん高い。
 さて結びとして登場する第3ブロックのポイントは何か。それは形姿としての身体と空間との相互ポジション、そしてそれが観客の心理に与える作用をねらった。しかもそれを照明が作り出す視覚上のトリックで作り上げるところがユニーク。これがPSYCHIC(心霊)と説明されている理由だ。したがってこのブロックでは、照明(伊藤雅一ほか)のテクニックがカギとなる。もちろんそれを駆使するアイディアが金森の演出だが。
 頭に灰色のラッコ帽をかぶり、後ろ向けにチェアに腰かける黒衣の男と、中央に立てられている縦長の1枚の板が、この景のメインの支配者だ。その前後左右にダンサーたちが出没し、その動く影がホリゾントや壁の各所に投影される。ただしそれがどの照明器具によって作り出されたものであるかはその都度まちまちで、例えばホリゾントの影でも、ひとつは舞台そでのスポットから、別の人影は実はホリゾント壁の裏側の照明器具によるものだったりするので、その咬みあわせは実際にそうでなくても、互いに手を握ったり、喧嘩をしているように合成で出来上がってしまう。しかし次の瞬間には、それが視覚上の錯覚にすぎないことがお客の方にバレて、思わず苦笑ないし感心させられるという具合である。まじめなようでふざけた、照明による一種のダマシ絵だ。
 ふざけるといえば、このブロックを通して、いつも後ろ向けに座ったままで、ときにホリゾント側を壁にそって移動したりする金森らしいガウン着の人物は、実はわざとそのように作られた実物大の人形に過ぎないことが途中からわかる(あるいはアフタートークの説明で初めて知る人も)。この種のお遊びは、過去にもあった金森の特技であり生来の才能のようだ(例えば作品「PLAY 2 PLAY」他)。
 レジデンス劇場といった、日本では例外的に恵まれた環境とはいえ、ここまで鍛え上げられたダンサーの優れた表現能力と、いつもながら金森作品が見せる高い芸術性は、この国におけるダンス界のモデルでありホープだといえる。コンテンポラリーというあいまいな呼称のもとに、実際はレベル以下の3級作品、あるいは俗にいうエンタメと少しも変わらない安手のダンス風作品が横行する昨今、もって範とすべき今回のNOISM09の、意義ある一級の提携公演であった。(17日所見)