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2009年現在、日本の現代舞踊界の先頭を切って、最も翔んでる若手のホープは誰かと問われれば、ちゅうちょなくこの人の名前を挙げてもいいだろう。それほどここ1年を通して菊地尚子の活動には、目を見張らせるものがある。もともと2003年の渡米まえ、CDAJの新人賞や、東京新聞コンクールでの1位文部大臣賞を受賞したデビュー期から、そのシャープな四肢の動きには、断然他を圧する天与の才を感じさせるものがあった。しかしそれが翌年から足掛け3年間に及ぶ在外研修をおえたあとでは、一回りも2回りもひねりの効いた、こころ憎いまでの表現力を備得て帰国した。現地での真摯で積極的な修練の様子が偲ばれる。
ヴィレッジなどでの評判は、人づてのうわさの域を出ないが、その意欲は帰国後すぐに『705Moving Co.』を立ち上げた行動にもあらわれていた。特に映像・音楽・照明も自ら手掛け、それらを空間に積極的に持ち込んだ作風は、さすが現代美術のメッカであるアメリカで学んだだけのことはあると感心させられたものだ。ただしこの人の場合は、それらの技術があくまでも身体というダンスの原点を中軸に回転し、しっかりコントロールされていたのが、何よりの利点だ。これが他の凡百の若い舞踊家たちがそうであったように、先端を行く現地の前衛美術をそのまま持ち帰るだけ、あるいは風俗としてのストリート・カルチュアを、単にスタイルだけ真似て踊るだけの、皮相な外国仕込みとは根本的に違っていた。 そんな中で彼女が最も強く意識し、その後の研鑽を通じても目標にしたところは、身体の裡に独自の呼吸法と動きを植え付け、これを日本人の新たなリズムとして体内に植えこもうとしているメソードだ。いかに意表を突く発想や美感覚で人の眼をあざむこうとも、ダンス芸術の“核”はあくまでも身体であり、ダンスそのものを無視しては、絶対に成立しない。その一事を常に明確に意識していたのだ。 その一つの成果であり頂点に立ったのが、昨年CDAJの協会群舞賞を獲得した作品「シンフォトロニカ・フィジクロニクル」である。ベジャール以来ダンスファンにとってはおなじみの、あのラベルの《ボレロ》のひとつのパロディ版ともいえるが、大事なことはこれがパロディという言葉の原意である主題への揶揄や皮肉ではなく、どこまでも身体を生かした形の上での新しい試みであったことに注目したい。そこにこそ菊地の目指した、ダンス作品における思い切った身体表現、新ボレロ菊地版の衝撃的なオリジナリティがあったのだ。 同時にこの作家の目指す先には、それと重ねてもうひとつの大きな目標があった。それはもともと人間に内在するマインドへの強い関心である。そのあらわれのひとつが、菊地がアメリカ滞在中に始めた“自分マニアのソロ”シリーズである。ここにはダンス芸術が本来持つ筈の、メンタリティへの強い信頼と期待が読み取れる。〔最終的に自分のダンスのエキスパートになれたら〕(プログラム・ノート)という悲願にかけて、この先も中断することなく試みて行きたいテーマだという。今年5月に仲間である《冴子リサイタル》で披露した「煙突の夜」(レベル9)は、その流れの上に立った創作のひとつであり、さらに今回発表したこの「とおい旅」は、それに続くレベル10の、しかも日本でははじめておめみえする、意図的なソロ公演である。 四角い巨大な箱のようなオブジェが上手に置かれ、これが様々な形でひとりのダンサー菊地とからみあって、さまざまなシーンが展開していく。壁にはドキュメンタリーとアニメの混在した自作の映像が流され、また箱の反対側の面は、中がそっくりくりぬかれたアパートの一室で、その中で菊地は読書したり、下着を脱ぎ換えたり、生活のいくつかのコマを演じて見せる。明らかにこれはダンスによる自分史である。外とのつながりは1本の梯子とスタンドのような街頭ランプ。「とおい旅」という過去の記録とその時々のおのれのマインドを、いっさいの言葉の援用を遠ざけ、モノとカラダでどこまで描いていけるか。“自分マニア”と“空間美術”の2つに足を踏まえた、新しいジェネレーションを走る、若き日本人ダンサー冒険作だといっていい。 おもしろいのはこの作品の幕が下りた時、1時間に及ぶ長い作品でありながら、まるっきりソロをみた感じが残らなかったことだ。ある意味ではあのにぎやかだった「シンフォトロニカ・フィジクロニクル」と同じぐらいの、広がりと奥行きがそこにはあった。いかに中身のテンションが高く、見せ方が充実していたかの裏付けであろう。 ともあれここのところの菊地尚子の活動には、目を見張るものがあるといっていい。この公演の翌日には、シアターXへ飛んで、こんどは「I・O ダンス・フレーム」への出品作として、「fragments of human」という、目下の関心にふさわしいl曲を披露してみせた。 言いたいのは、菊地の作品には自分を追い詰めながら、常にダンスとオブジェのせめぎあいが、実に迫真的で、そのくせ微妙で美しいバランスを保っていることだ。自らプランした照明の使い方も、道や扉を代行してさまざまによく生かされていた。表現の才能である。これこそ初めてコンテンポラリー・ダンスの名称に値する、オリジナルな近ごろの秀作だった。プログラム・ノートに記した、「行けるところまで行ってみようか」と題した彼女のエッセーからも、そのあたりの心意気が立ちあがって匂ってくる。12月の新国立劇場での現代舞踊公演は、話題の「シンフォトロニカ・フィジクロニクル」の再演だという。未だ見ていない人は、この機会にぜひ1見することをおすすめしたい。(8日所見) |
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