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ニュース・コラム

舞踊評論家・日下四郎氏の連載コラム「ダンスレビュー」

ダンスレビュー

DANCE TRIENNALE TOKYO 2009: ジル・ジョバンと中村恩恵の併演プログラム
2009年9月18日(金)~10月8日(木)青山劇場、青山円形劇場、スパイラルホール他

日下 四郎 [2009.10/14 updated]
 2002年にビエンナーレとしてスタートしたこの東京国際フェスティバルも、前回からトリエンナーレ、つまり3年に1度のパフォーマンス行事として、今年はその4回目を迎えた。写真展やヴィデオ上映、ワークショップ、トーク・ショーと数あるプログラムの中で、中心イベントは世界の各国から持ち寄られる最新のダンス・パフォーマンス。選考アドバイザーの嗜好もあってか、かなり前衛的な芸術カラー色が強く、その分なにかとメディアの話題にも取り上げられる。この国のダンス界への刺激剤として、おおいに意味のある催しのひとつだ。
 さて今回はヨーロッパとアジアにまたがる世界の11カ国から、18のアーティストとカンパニーが参加、9月の中旬から10月の上旬にかけて、多くの興味ある舞台が公開された。うち日本人の手になる創作は7本。中で10月6日に中村恩恵とジル・ジョバンの作品が並んで組まれているプログラムを見つけた。ジョバンは昨年の夏初来日し、そのとき「text to speech」という作品で俄然関係者の間で評判を呼んだ、スイス産の有為な舞踊作家である。
 これはヨーロッパの中央に位置し、中立国でもあるスイスへ、テロリズム撲滅という名目でアメリカが侵入してくるという状況を想定し、その結果メディアからのニュースによって、人々が身体のバランスを失って個と個の関係が崩壊するという内容のもの。そんなショッキングな今日的題材を、大胆かつシャープにダンスに移し替えたジョバンの手腕に、わたしも強い感銘を受けた観客のひとりである。その若い才能が今年に入って完成させた未見の創作「BLACK SWAN」が上演されるのだという。どんな作品か、見逃す手はない。
 一方、ヨーロッパでキリアンに学び、すでに日本でも定評を得て活動をつづける中村恩恵。リルケの詩に想を得た「ROSE WINDOW」というソロを、チェロの即興演奏で発表する。ここに東西の異才をあえて一夜にまとめたこのプロデュースには、さらに何か隠された意図なりアイディアがあるのだろうか? いずれにしても期待に心をおどらせながら出向いた。一晩かぎりのたった一度の公演だが、結果はそのすぐれた出来栄え以外に、さらに本質的な問題提起が含まれていて、わたしにとっては貴重なダンス鑑賞となった。
 白状するが最初チラシで「BLACK SWAN」というタイトルをみたとき、これはてっきり現代社会の不吉をメタファーとした題名だろうと思った。それほど前回の印象が強烈だったのである。しかし実際には孤立した社会や危機を示唆するというUPデートな要素は一切なく、代わってウサギやカンガルー、仔馬のぬいぐるみなど、ひたすら子供たちに喜ばれそうな動物たちが次々に登場するという予想外のコンテンツだった。さらにもうひとつの身勝手な推測、すなわちこれら2つの作品の間に、何らかの意図的関連があるのかもという予想も、結局はみごと肩すかしに終わった。このプログラミングは単に出演者の都合や作品の長さによるもので、ただの便宜的な併演にすぎなかったらしい。しかしこれら地球のうらおもてを代表するアーティストたちの力作を観終わった時、そこにはダンス芸術に内在する東西文化の質的相違、または興味尽きない世界観と手法の違いが見てとれて、こちらはいわば予期せぬ収穫ともいえるお土産を手にした思いだった。
 さきほど私は今回のジョバンには社会的な要素が欠落していると書いたが、これは厳密に言うと誤りである。「BLACK SWAN」は、一見動物の頭部とかぬいぐるみが出没する子供向けファンタジーのように見えながら、実はこれらを振付ける作者ジョバンの真の狙いは、動くボディから生まれる相互の関係、つまり身体を取り巻く空間へのかかわりや対峙のしかたそのものにあったといえるのではないか。意表を突くアクションと展開のおもしろさこそが、この風変わりな作品のスタイルであり真髄でもあるのだ。さらに言えばそれはある意味で〔個〕に対する〔社会〕そのものをメタファーとしてイメージしているといっても一向に差し支えない。
 これに対して中村の表現を支えているものは、やはり言葉である。この作品の根底にある光景は、自らの過去の体験に重ね合わせた文豪R.・M・リルケの詩句にある。廃墟に見つけた“バラの窓”の体験に重ね合わしながら、ひたすら“バラたち”の言葉の美と、そのロマンティシズムを、くりかえし頭の中で詠みあげながら、それを身体化して伝えようとしている彼女の姿勢。これは明らかにかつてキリアン振付によつて踊った「ブラック・バード」('01)の場合とは違う。テクニックこそきびしく練り上げているが、自作自演では、やはり彼女は抒情のダンスを、全身で謳いあげ完成させようとしたのである。クリエーションにおける前者の視点が《extrovart--外へ》なら、後者の本質は、常に《introvard―内へ》を凝視しながら踊り続けたのだといってもいい。
 “空間のおもしろさ”と、“肌の色合いへのこだわり”という、まったく別のベクトルが指向する2つのタンス。おなじ一流のダンサー、おなじ水準の技術を駆使しながら、顕在化したものはあきらかに別種の産物であった。ここには文化の質というタテ割(歴史的)の課題と同時に、古典とモダンというヨコ割(メソード)の興味ある研究対象が、二つながらにそのまま目の前に横たわっているのだ。それだけでも現代芸術としてのダンスの世界は、まだまだ未開の慮域をかかえていて、十分すぎるほどにおもしろい。(6日所見)