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舞踊評論家・日下四郎氏の連載コラム「ダンスレビュー」

ダンスレビュー

東京シティバレエの「カルメン」全2幕
2月6日(土)7日(日)都民芸術フェスティバル参加作品:
新国立劇場中ホール:
作品に息づく現代性をなによりも評価する

日下 四郎 [2010.2/19 updated]
 2006年の同じ都民芸術フェスティバルでお目見えした東京シティ・バレエ団「カルメン」の再上演だが、たまたまそれを見落としていて、私にとっては今回が初演に準ずる舞台となった。4年前と比べて細部に手が加えられた様子はなく、ただメインのキャスティングだけは違っていて、例えばカルメンを踊った安達悦子さんは、今は理事長に専任、この公演でも芸術監督としての役目を終えた上、当日は劇場改札の入り口で接客に多忙の様子だった。やはり歳月といえる。そしてダブルキャストであるカルメン・ホセ役で、私の観た舞台は2日目の橘るみvs.キム・ボヨンのペアであった。

 ふつうバレエの世界では特定の役を誰が踊るかは、何にもまして大問題で、それによってとうぜん切符の売れ行きも違ってくる世界。しかし今回のように新規に書き下ろされた創作バレエでは、キャスティングはどちらかといえば二義的で、踊り手のうまい下手はキーポイントにしても、トータルな見地からはいくぶん補色の役割を帯びる。その際作品のオリジナリティは、代わって構成・演出を受け持つ振付者への方に、はるかに厳しい目が注がれる。今回のその担い手は、当バレエ団屈指の才能である振付・演出家の中島伸欣。この新しい試みに当たっては、自ら台本まで書き下ろしているのだからなおさらのことだ。

 もともとフランスの作家メリメの原作からスタートしたこの物語が、オペラ化されて大評判になったのは、なんといってもビゼーの音楽の力によるところが大きい。バレエとしての「カルメン」は、むしろその陰に隠れた存在で、話題になったのは戦後間もなくロラン・プティ×ジジ・ジャンメールの1幕もの、その2人が組んだベッドシーンとか、あるいはシェチェードリンの編曲になるキューバの舞姫アリシア・アロンソの組曲ぐらいのものだろうか。その他マッツ・エックの手になる変種もあるようだが、完全にビゼーのオペラに立ち向かって、あえてその現代化を目指した最強の力作は、今世紀のはじめイギリス人の振付家マッシュ・ボーンの手がけた「The Car-men」が、いまも強く私の記憶に残っている。

 Carmen(人名)→Car-men(自動車族)と半ば揶揄的にタイトルまで変えて、アメリカ中部の食堂ガレージに場所を移したダンスだが、原作の野趣と曲の味わいを、そっくり新しい皿に盛り上げて料理した点、その換骨奪胎の巧妙さにはウムを言わさぬ迫力があった。これぞ現代版「カルメン」の白眉。さすがはあのイギリスの王室を素材に、大胆な現代の「白鳥の湖」を創ってロンドン中を湧かせた異端児、その同じ鬼才の手になるバレエだけのことはあると、観終わって文句なしにシャッポを脱いだ。

 しかし外国人による現代バレエの品評会はもうよろしい。問題は日本人の手になる、日本人のダンサーが踊る創作バレエだ。忘れもしない、初台の新国立劇場では1997年の開場に先立ち、石井潤の振付・演出になる「梵鐘の声」を、オリジナル・バレエの一番手として登場させた。しかし中味は例によって奇妙に裁断したキモノ姿の日本の姫と公家がからみあう、従来の域を出ないいつもの歴史劇。そしてあれから満足な日本のグランド・バレエはあっさり消息を絶った。

 そこで2005年5月、“J-バレエ”あらため“エメラルド・プロジェクト”の枠で、捲土重来ふたたび石井潤に委嘱した新国立劇場版「カルメン」が登場する。このポピュラーなストーリーに、おなじみのビゼーの曲を生かした新版「カルメン」ということで、これは観客動員ともども大いに一般には受けた。評論家もまたもろ手をあげてそれに追従したが、果たして実際にそうか。少し目を凝らしてプロの眼で吟味すれば、まだまだ未解決・不徹底の問題は山積みの筈だ。

 酒井はなをはじめ、タイトル・ロールの3人もよく踊ったし、ダンス好きのファンは充分堪能させたのだから、それで新作としては十分だという人が多いだろう。しかしよくみると石井版のこの「カルメン」が新しいのは、要するにその振付の部分だけである。それもちょっと癖のある、あえて言えば品位にかける石井特有の味とスタイルを持つ動きなのだが、それは人それぞれの好みだからあえて問うまい。問題はそのためにバックのセットをすべてアブストラクトで通し、同時に音楽を好き勝手に切断して原作のトーンや浪漫の味、自然の流れをすっかり濁して矮小化したきらいが強すぎた。つまりこの新版「カルメン」は、自らの好みと内面に閉じこもって、外との関係を一切遮断した、ある意味退嬰で非現代的なバレエ作品として出来上がってしまったったのだ。

 その視点で言うと、今回の東京シティの中島版は全く対称的である。こちらはのっけから現代社会のまっただ中へ踏み込む強い姿勢が見える。カルメンは製薬会社につとめるやり手のセールス部員。ホセはその会社にハイヤーされたセキュリティの1警備員。そこへコンピュータ管理部門のエリートであるエスカミリオが噛みあって、例の“カルメン式”の愛の3角関係が発生する。ただ注意したいのは、ここで筋を運び人を駆り立てている元凶は、個々の人間というより、むしろ社会に潜む目に見えない“欲望”という名の怪物であり、いわばひとつの抽象概念であることだ。 会社正面のビルの上方にかけられた、ムンクの大きな女の油絵が、よくそれを暗示していて視覚的にも興味深い演出だった(美術:江頭良年)。

 それでいてホテルでの、カルメンとホセのベッドシーンには充分に美しく、鑑賞に堪える迫力があった。分身として群舞を配した着想もオリジナルで、空間をみたす芸術性はなかなかにもの。ただし前半でのオペレーターが大勢ユニゾンで動くビジネス・オフィスの景は、なにかひと昔前のタイプライター時代をおもわせ、また街頭に人体で自動車を走らせる振付は、いささか幼児劇っぽくていただけない。いま少し映像や日進月歩のI・T技術を生かした演出で構成すれば、より明快に社会と個、偶然の役割といった、この作品の重要なファクターを、浮き彫りにできたのではなかろうか。

 ともあれ“今日”を捉えようとした現代バレエの一編が、ようやく日本にも登場した感が強い。初演から4年経った今、このバレエがいっそうのリアリティを帯びてきたと述べる作者中島の一言は、手前みそを通り越して、いまなおこの作品が現代とのつながりを強く持ち続けていることをよく示している。東京シティバレエの、貴重なレパートリー入りを果たした近年の快作であることだけは確かなようだ。
(7日所見)