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舞踊評論家・日下四郎氏の連載コラム「ダンスレビュー」

ダンスレビュー

突破口が見えた能美健志 &ダンステアトロ21の新作公演「White Reflection」
3月3日(土)20:00、4日(日)14:00.18:00全3ステージ:
日暮里 サニーホール:

日下 四郎 [2010.3/12 updated]
 個のダンサーの身体投入ではじまる立ち上がりは、例によって超スロー。少々イライラするぐらいの導入部だったのはいつもと同じ。だが今回はそれが積み重ねられ、燃焼度が高まるにつれて、観終わった時点では、いつのまにか予想以上のエネルギーの爆発となって見る側に効果を与える。常に具体やストーリーを拒否し、身体のキネティックな動きだけで勝負を挑む能美のダンス世界が、ついに掴んだ劇的空間の、最初の成功例だったともいえる。

 いつも言うことだが、90年代の後半、キム、イデビアンと並んでいちやく最前線に躍り出たフレッシュ・ボーイの能美健志。その華々しいデビューと、モダン・ダンスの停滞を突く作風は、またたく間に人々の期待を集めた。しかしながらこの3者のデビューは、自らの際立つ個性と命運をフォローしながら、それぞれに3様に異なるダンス一家のスタイルをつくりあげていく。なかでこの能美健志が目指し、あえて問いかける身体芸術の真髄とは何だったのか。

 1997年の春に設立された〔ダンステアトロ21〕は、軽部裕美、開桂子、栗原裕之、金子礼次郎など、いかにも新時代にふさわしいしなやかな四肢と、均整のとれたプロポーションのダンサーを揃えた若い仲間の集団だった。その基盤となったのは、今は新国立劇場のプロデューサとなった望月辰夫の率いるダンスカンパニである。ただしその愛弟子能美の作風は、師と少し違っていて、初手から物語性を嫌う抽象を全面に押したててスタートした。

 もっとも抽象とはいっても、単にテクニックを重ねるだけの形式美のものではなく、彼個人の初期の作品には、明らかにこの人なりの強い主題が底流にあった。それは人間の“ソリテュード(孤独)”である。埼玉国際コンクールでグランプリをとった「白昼夢」('93)をはじめ、「CONTACT in the CAVE」(‘95)や「uncertain」('96)などは、明らかに思春期の不安と反抗の姿勢が、その創作のモティベーションであり、作品それぞれに鋭いその爪痕を残している。

 しかしそれらの傾向や要素は、作者能美の個人的な精神成長や作品発表の場の変化につれて、次第に影をひそめて行った。そして世紀末に近づくにつれて、その個人的な告白調は、身体による造型自体へと次第に関心が絞られて行ったようだ。こうして97年にオープンした新国立劇場の委嘱作「regeneration」を通過し、98年の「空白-filling out」、つづく翌年の「ピアソラへのオマージュ」へと続く一連の創作には、新しい傾向として、身体美を基調とした視覚のランドスケープ、全面的な抽象表現の世界へと、あきらかに興味と研鑽の対象を移していく。

 その意味で今世紀に入ってからの〔ダンステアトロ21〕の作品群、「メタピープル(?&?)」や、「Direction of Harmonization」、「ビオトープ」「From Point to Point」などは、すべてダンスから “意味性”を完全に抜き去り、音楽やサウンドを視覚化して見せるとか、でなければ、折しも時代の寵児として躍り出たI・T技術、すなわちビデオやサウンド、また凝ったライティングなどに、あえてダンスを並列・混入して展示する、彼の言うコラボレーション的構成の舞台が多かった。

 だがその反動からか、さすがに昨年の創作「LINK」あたりになると、もういちど身体への意識が息を吹き返す。セットや修飾は極力抑える半面、OAGの劇場ホールいっぱいに、大勢のカンパニー団員を送り込み、めいっぱい彼らに踊らせてみた。こうなるとしかし作品の作りと迫力は、すべて振付者の腕一本にかかってくる。1時間を超えるダンス作品の流れを、観る観客の生理とピタリ照準を一致させ、如何に高揚してフィナーレのカタルシスへと運んでいくか。言うまでもなくこれは大事業だ。

 結局のところ「LINK」の評価は、いい線まで行きながらあと一歩およばずという印象だった。この批判は当時別のウエブのサイトでも一部述べたが、今年のこの「White Reflection」は、ある意味その再挑戦だったともいえるのではないか。そしてほぼ同じ戦術ながら、今回はうまく狙いが決まったように思う。セットのプランもライティングともども、ほとんど禁欲的のレベルに抑え、すべてはダンサーの身体とその出し入れと配置のための演出に全力を注いだ。それを深く計算された振付家の感性で、動きのダイナミズムへと昇華させ、時間とともに全体の流れを、劇的な抑揚のうちに抽象ドラマとして完成させたのである。

 今度の出演者には、ひさびさなつかしい水田浩二の顔があった。彼はかつてこの集団の一員で、ここ数年はアメリカでマース・カニングハム舞踊団のレギュラーダンサーとして活動してきた。そのせいでもないだろうが、この「White Reflection」の印象には、どこかカニングハムの匂いがある。昨年亡くなった抽象ダンスの神さま的存在である。ただしよくみると能美作品とは、基本のところで明らかに決定的な違いがある。

 カニングハム舞踊にみる最強の武器は、例のチャンス・オペレーションと呼ばれるメソードである。ストックされたいくつもの動きのフレーズを、機に応じてダンサーに与え、それを繋げて全体の作品を完成する。そのレパートリーの大半は、どこかクラシックの味を秘めながら静かに完成していく、ある種タペストリー(壁掛け画)のような様式美だ。

 これに比べると能美の世界ははるかに動的であり、明らかに時間軸が関与している。個々のアダージオ始まり、アンダンテ、スケルツオを経てブリリアントに至るといった、いわば時間と共に空間に劇的高揚を生み出そうとする、一種の抽象テクニックに依る多幕的身体運動だ。同時にその振付にはフレーズと呼んで差し支えのない、いくつかの表現のパターンがある。例えばフロアに駆け込んできて倒れ、起き上がってそのまままっすぐ元の方向へ走り去るといった動きなどもその一つで、それを適宜振り分けて全体を進行させ、ついに終楽章の感動へと到着し、さらにそのあとに小さなカデンツを添えて終わるという時間を織り込んだ作業だ。

 それはいわば見えない空気の動員であり、きわめて抽象的な空間のアートである。カニングハムとの大きな違いもここにあり、能美はそれにトライして、ひとつの完成をみたのである。いやそれが言いすぎなら、すくなくともここへきて、さらなる能美芸術の発展と今後の目標への突破口を、一瞬のまばゆい白光のひらめきとともに発見したと言っていいだろう。

(6日所見)