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河野潤ダンストゥループ+DANCE BRUT 公演の看板を掲げてから、この舞台はVol.3の公演に当たるという。第1回がいつだったかを確かめそびれたが、いずれにしても河野潤と藤原悦子の組み合わせには、すでに短からぬ歴史がある。記憶ではもう10年近くも前、あの下北沢にある本多劇場のステージで、ある日突如河野潤トゥループの作品が、跳ね跳ぶようなヒップホップの波に見舞われ、その中を若い女性陣に交じって、ダンサー河野がひとり、狂ったように踊りまわる光景に出くわして、一瞬唖然とした思いがある。以来陰に陽に2人の組み合わせは、創作発表の場に不可欠の要素となった。そうしてある日ついに上記タイトルが公演メインの名称として登場するに至ったのである。
しかしながらあえて“水と油”とまでは言わないまでも、極めて個性の強い互いの才能は、基本的にいえば年令、感性、環境など、どこかに“金属と非金属”ぐらいの段差があった。そして実際の公演に当たっては、その2つのエレメントをどのように組み合わせ、または配分するか。これは毎度おもしろい作業とはいえ、反面実に厄介な課題でもあったはずである。それを冶金術式にいえば、今回は鉱石から取り出した金属を固有番号順に、いわばホリゾンタル(横方向)に並べてみせる形式を採った。それが上演順に、大栗千知・作「旅の途中」、復井雅子・作「死神」、藤原悦子・作「天使のいる部屋」、そして河野潤・作「カタルシス」という4本の作品ということになる。 最初入り口でプログラム・シートをもらって目を通したとき、その紙面を占める作品名と関係者の紹介は、実に民主的(?)に肖像写真と簡単な解説文が、かっきり紙面を4等分したスペースにレイアウトされ、そこにそれぞれ1から4までの番号が振られていた。「おや、これはあえて4色カラーの短編を集めた形式のプログラムなのか」と、とっさにその時はそう思ったぐらいだ。 ついでに言うと日ごろ私は舞台作品に対し、出来るだけ予備知識はもたないで劇場の門をくぐるようにしている。批評という役柄上、白紙にインクが染みわたるように、0基点からの作品鑑賞が、いちばんのぞましいと思うからである。だから今回も実際に前半の2作品を観終わった時点では、やっぱりそういうスタイルの編集公演だったのだと、勝手に自分ではそう得心しながら、順に作品に接していった。 先ずトップは若手のメンバーである大栗千和の「旅の途中」。ちょっとかわったタイトルだ。明かりが入るとフロアの左右に、染め織の布でカバーされた三角錐状のセットが、ちょこんと2台置かれている。いったいこれは何だ。そのうち後ろにはダンサーが入っていて、それがセットの位置をずらしながら、そのうち中から飛び出して踊りはじめる。途中やはり同じ染め織模様の、もっと小型の三角錐が抛り込まれたりする。さまざまな道中の景色のつもりらしい。このあたりでやっとネーミングとパフォーマンスの関連が読みとれてくる。装置のロケーション(位置)と、客の心理との相換関係。ちょっとひねった象徴的手法の短編ダンスだった。 2本目は肩書に“落語”と副題をつけた、やはりメンバーの手になる創作「死神」。落語ネタをそのままダンスに置き換えるのではなく、にせ医者に扮した本職の桂才紫が口演をダブらせながら、自らもアクションで語っていくところがミソ。それを陰から見え隠れしながら、けしかけたり笑ったりする死神役は、この作品の振付・演出を兼ねる復井雅子本人。ここへ笑いネタを1本入れたのは、おそらくプランナー河野潤のアイディアかと推測するが、おかげでこのグループのレパートリーに、従来から一歩踏み出す余裕と幅が出た。 さてここからはトーンが戻って、本命としてのメイン・キャラクター両人の出番となる。最初はDANCE BRUT藤原の創作「天使のいる部屋」。ジャン・コクト―の「恐るべき子供たち」が原作とあるが、それに見合うように、ダンサーの動きにも、この振付家固有の一種のエキセントリシティ(奇抜)、あるいはシュルレアリスム(非現実)への傾斜といった要素が、明確に前面に出て来る。人間関係を裂く狂気、不吉の象徴のような4体の黒衣。豪雨と崩壊を現すサウンド。いきおい作品自体も暗くならざるを得ない。その点公演全体のプログラミングとしては、次の河野作品との対比の意味でも、昔このアーティストの出発点だったヒップホップやブレーク・ダンスの明るさが、部分的でいいからうまく活用できなかったかと思ったりする。しかしいずれにしても際立った個性で描く、まことにこの人らしい創作だったことに変わりはない。 ここで15分の中休みがあり、後半の第2部はすべて河野作品の「カタルシス」に充てられている。やはり短編集の編成ではなかった。そうしてそのテーマもここ何年か、このダンス作家がひたすらおのれのライフ・ワークとして挑戦する〔人間の魂〕が焦点だ。それもこの人の場合、常に探求者のレポートという“一人称ドラマ”の形式をとっているのが大きな特色だといえる。 幕が上がると、舞台中央に屹立する白黒の人間像。一見いまにも倒れそうな弱々しげな風態でありながら、どこかに決して屈しない頑固さと忍耐の匂いが漂っている。その正体は何か――だいいちダンサーなのか彫刻なのか。実はこの立像は、彫刻家重松濤の手になるオリジナルの塑像作品で、ちょうどロダンの“考える人”のように、じっと考え苦悩する人間の内面を可視化したものなのだ。そんな打ちひしがれた魂の結晶体に、人々はそっと周りからのぞき込み、奇妙な感嘆の思いに駆られながらその場を去っていく。 ここが始まりで、ここから舞台は〔人間の魂〕へのさまざまな形姿を通してのアクセスが続く。むき出しの血肉を思わすダンサーたちの群舞(衣装の原色と、直線形を多用した振付が新鮮)と、ゲストダンサーである折田克子と森嘉子に当てられた役割(探求者である河野本人の心層を代弁する)が、たくみに作者の狙いを表現し得て、ベテランの味を生かした。 こうして幕切れのホリゾントには、カタルシスを求めて息絶えた人間の苦悩の諸像、あるいはひょっとしてそれを垣間見たかもしれないきわどい〔カタルシス〕の一瞬を、3体の実物大の彫像が並べられてフィナーレとなる。現今の日本の舞踊界には珍しい、一貫した主題を求め続ける作者の執念と芸術家魂を見た。貴重な力作である。(6日所見) |
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