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舞踊評論家・日下四郎氏の連載コラム「ダンスレビュー」

ダンスレビュー

裾野の広がってきた日本の現代舞踊:〔ダンスがみたい!12〕のポテンシャル
7月8日~8月8日 at神楽坂die Pratze / 8月10日~23日 at日暮里 d-倉庫

日下 四郎 [2010.8/30 updated]
 7月上旬の新人シリーズ9を含め、約5週間にわたって組まれた〔第12回ダンスがみたい〕全44作品の公演が終った。公募による全国規模のバラエティに富むプログラムで、今年は前半を本拠地である神楽坂のdie Pratze、8月10日以後の後半は日暮里のd-倉庫で行われた。1日に2作家が30分前後のソロ作品を発表するという枠。だがその中身は過去10年間の経験を踏まえて、スタート時からみると、よほど大きく変化して充実度を高めている。

 全体の印象として、各ダンス作品の芸術的レベルが飛躍的に向上し、その結果シリーズそのものの存在感も高まった。今回評者の観た舞台は10本ほどだったが、ダンスの技術的水準が向上、初期において間々見られた観念倒れの前衛空とか、ただ意味のない肉体の提示だけで終わるような作品は一本もなかった。それぞれ個性が鮮明で、それでいて殻を破るイマジネーションを共通武器に、いわば肉体意識に根差した野性のインパクトで勝負し合ったシリーズだったと言える。

 例えばブトー(BUTOH)のキャリアから出発しながら、それを超えるオリジナリティの領域へ踏み込んでいる〔柴崎正道〕のユニークなソロ(「ヴィトゲンシュタインの落とし穴」)。また奔放かつ狂的なボディ・アクションで、観る人を緊張と振動の空間へ連行する〔abe”M”ARIA〕の身体マジック(「Nothing but…」)。あるいは体内に大人のショー的要素を秘めながら、それを日本人特有の巧緻で色気ある身体芸へと昇華させて鋭い感性に訴えた〔細田麻央〕の才気(「アザスジス」)。またフロアに立って、かすかに微動するダンサーの身体中枢へ、いつしかフルートの生音が流れ込み、やがて両者の共振と相互奪還による、忘我的境地を現前させる〔仮想ダンスカンパニーアトリウム〕の透明な膨張空間(「Raster Scan」)。また別の日には、斯界で五指に余る巧緻のダンサー〔熊谷乃理子〕が、ピアニストの奏でる放恣な即興サウンドを相手に、あたかも古代ギリシャ劇場で、あらゆる人間感情のサンプルをすくいあげながら、その場でそれを今日のモダン・ダンスへと遷しかえてみせる至芸を披露して観客の眼を奪う(「深淵なる19の連続と不連続の顔」)などなど。

 それらの作品とダンス表現を通して受ける印象には、例えばCDAJ(現代舞踊協会)の年次の公演とか、またはストーリーや新しい身体言語をウリにする演劇寄りのグループ作品、あるいは逆にI・Tなどの最新メディアを多用した実験的ダンスのいずれでもない、身体存在への直視と有線の姿勢が強く感じられる。その点今回は単独ソロという制作サイドからの制約が、サブタイトル“何故、私は踊るのか…”の副次的作用もろとも、出品者に身体の本質的な部分への自覚と予期以上の成果を、もたらす側面があったのかも知れない。

 そのほかにこのシリーズには、最近になって思わぬ編成上の改革が制作レベルで起こった。それは昨年おこなわれたこの“ダンスがみたい!”の第11回公演に、故意か偶然か現代舞踊の伝統的中央組織であるCDAJから、石井かほる、若松美黄という著名な才能が、プログラムの中味に、堂々と自作をひっさげて登場したことである。いきさつは知らない。しかしこの一事で両組織間の距離は、目に見えて縮まった。その結果だろう、今回の公演には宮下恵美子や柴田恵美その他の、何名かの協会メンバーが出演者名簿に名を連ねている。

 アートの世界は要するに作品が勝負なのである。創作性が高くダンサーとしてのテクニックがしっかりしていれば、その人がどこに所属していようがそんなことは二の次で、本質的な問題とはいえない。その意味では21世紀に入ってからは、コンテンポラリー・ダンスの呼称が象徴するように、現代舞踊を取り巻くこの国の状況は、随分と変化の道をたどっている。I.Tメディアの発達で、他の芸術メディアやコミュニティと同じく、例えばネットだけを唯一の専有ベースとするJCDNのようなNPO組織が、2000年という世紀の変わり目にこのダンス界に誕生したことだけでも、それ以前にはえられないことだった。

 周知のようにこの国の洋舞、すなわち新しい西洋ダンスのひとつに数えられる現代舞踊は、石井漠や伊藤道郎、高田せい子、江口隆哉ら、この道の先駆者たちが手を携えた戦前の舞踊家倶楽部に始まり、今日の社団法人現代舞踊協会につながっている。そして日本人としてこの道に入ったほとんどすべての現役ダンサーは、みなこれら先駆者たちの系列につながるいずれかの門下生として育てられ、みなリーダーの承認を受けたのち一人前のダンサーとして組織に入った。したがって逆にいえば、この世界で踊るか舞台作品を発表する一人前のダンサーは、すべて協会に登録されたプロで、それ以外に日本人の舞踊家などはまずどこにもいなかったのである。

 だが今では状況が変化している。とくに10年ほど前からは、ダンサーの資格とそれを取り巻く環境は、すっかりといっていいほど様変わりした。なるほど数からいえば2千数百人の会員を擁するCDAJ(日本現代舞踊協会)は、いまなおこの国の現代舞踊界の、優秀な中枢的存在であり組織であろう。しかし芸術の本質は数ではなくて質である。ほぼ一世紀前、オペラやバレエなどとともに西欧から持ち込まれた新しい舞台芸術のなかにあって、現代舞踊こそは唯一この国の民族と文化を洗い直し、活性化することで、外国人には真似のできないユニークな創造領域に到達することの可能な、得難い芸術ジャンルである。海外のカウンターパートに対して堂々と立ち向かえる、唯一の身体芸術のメッカであるとさえ考えてもいい、同時にその可能性を秘めたアートの場である。

 そんなパースペクティブを念頭に置きながら、今年の“ダンスがみたい”を見終えたとき、そこには明らかにこれまでの既成メディアではカバーしきれなかった、あたらしい裾野のひろがりを感じさせる何かがあった。折しもインターネットを通して、これまでとは別のディメンジョンで組織されている上記のNPO集団JCDNも、目下は過去10年の実績を踏まえて、“踊りに行くぜ!!Ⅱ”と名乗る新しい創作発掘の場と方法論を打ち立てる準備に踏み込んだようだ。

 昨年の秋の政権交代以来、いわゆる事業仕分けの作業をきっかけに、賛否の声のかまびすしい助成金再配分の問題など、ある意味では一見錯綜と混乱の様相を呈しながら、現代舞踊の世界はますますおもしろくなってきているとも言えないか。安住は決して芸術を生まない。その中で別名コンテンポラリーとも呼称される現代舞踊のジャンルだけは、すくなくともそれを切り開いて進むヴァイタリティと充分な知恵を秘めている、貴重なダンス・アートの領域だと、期待を込めて私は考えているのだが。(“ダンスがみたい12”は7月8日~8月23日の期間、適宜所見)